第5話:小さな同好の士
壁の染みという新たな仮説を得たものの、リンネの思考は重く停滞していた。 ひたすらに善意を捧げる者たちと、それに反比例するように増え続ける死者。そして、すべてを覆い隠す「神罰」という不確定要素。論理の刃が、まるで分厚い綿に吸われるかのように、手応えを失っていく。施療院の重苦しい空気は、彼女の精神を少しずつ蝕んでいた。
気分転換というわけではない。ただ、思考が行き詰まった時、彼女はいつも、より小さく、より完璧な構造の世界に没入することで、精神の均衡を保ってきた。
その日も、リンネは第三病棟の窓辺で、床の掃き掃除をするふりをしながら、ピンセットで一匹の甲虫の死骸をそっとつまみ上げていた。 鈍い銅色の光沢を持つ、美しい鞘翅。その微細な点刻模様に意識を集中させる。
その時だった。背後から、咳き込み混じりのか細い声が聞こえたのは。
「それ、クワガタの仲間?」
振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。歳は十にも満たないだろうか。寝間着からのぞく腕は細く、顔色も悪い。だが、その瞳だけは、病の影を感じさせない、純粋な好奇心の光で輝いていた。
リンネは僅かに目を見開いた。彼女が虫を手にしているのを見て、悲鳴を上げも、気味悪がりもせず、純粋な興味を示した者など、この施療院では初めてだった。
「…ええ。これはコクワガタの雌ね。顎が小さいでしょう」
「やっぱり! 僕の村の森にもいたよ。樫の木の樹液に、カナブンと一緒によく集まってて…」
少年――エミールは、堰を切ったように話し始めた。故郷の森で集めた虫の話を、まるで宝物の在り処を教えるかのように、目を輝かせながら語り聞かせる。 カブトムシの角の力強さ。玉虫の虹色の輝き。彼の言葉は、学術的な正確さには欠けるが、対象への愛情と、素朴で鋭い観察眼に満ちていた。
リンネは、普段決して見せることのない穏やかな表情で、その拙い言葉に耳を傾けていた。 アレクシスとの間にあるような、利害や契約に基づいた関係ではない。知的好奇心という共通言語で、誰かと心を通わせる。それは彼女にとって、初めてに近い、不思議な体験だった。
ふと、立て続けに話したことで息が苦しくなったのか、エミールは小さく咳き込むと、曇った顔でぽつりと呟いた。
「ねえ、本当に神様が僕らを罰しているのかな。僕、悪いことなんて、何もしていないのにな…」
それは、論理では割り切れない、純粋な魂からの問いだった。
その言葉は、リンネの胸に、小さな棘のように、静かに突き刺さった。
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