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第3話:善意と死の聖域

石と冷気、そして祈りで満たされたその場所は、聖域というにはあまりに死の匂いが濃すぎた。


教会直営の施療院。その薄暗い廊下を、リンネは洗い桶を手に、一人の雑役婦として歩いていた。身寄りのない娘になりすました彼女の簡素な頭巾の下で、紫水晶の瞳は冷徹な観察者として、この施設のすべてを記憶に刻み込んでいく。消毒用の薬草と、拭いきれないアンモニア臭、そして、それら全てを覆い隠すように漂う、微かな腐敗の匂い。壁の向こうからは、絶え間ない患者たちの呻き声が聞こえてくる。


「――ああ、また一人亡くなったのかい。第三病棟の、窓際の爺さんだろ」

洗濯場で分厚いシーツを無気力に絞っていた年配の雑役婦が、吐き捨てるように言った。

「これで今月に入って何人目だい。神様も容赦がないねぇ」

「どうせ神罰で死ぬんだから、今さら一人増えようが減ろうが変わらないさ。それより、私たちの仕事が増える方がごめんだよ」

若い方の雑役婦が、ささくれた指先を見つめながら応じる。その瞳には、憐憫も恐怖もなく、ただ、終わりのない労働と死への諦観だけが淀んでいた。


過酷な環境は、人の心から優しさを削り取っていく。彼女たちの投げやりな言葉は、この施療院に蔓延する絶望の象徴に他ならなかった。リンネは、その会話に耳を傾けながらも、無言で床の汚物を拭き取っていく。彼女たちの反応もまた、観測すべき一つの事象に過ぎない。


だが、リンネの鋭い観察眼は、その分厚い絶望の層の奥底に、異質な光が灯っていることを見抜いていた。


白髪の院長は、ほとんど眠っている様子もなく、その背中は疲労で丸まっているにもかかわらず、一人一人の患者の額に手を当て、慈愛に満ちた声で祈りを捧げ続けている。古参のシスターたちは、自らの食事を削ってまで、衰弱した者に粥を分け与えていた。彼女たちの瞳の奥には、疲弊しきってもなお消えない、揺ぎなく、そして、ひたむきな「善意」の光が、確かに宿っていたのだ。


しかし、リンネは気づいてしまった。あまりにも異常で、論理に反する法則性に。

死は、無作為に訪れてはいなかった。犠牲者は、なぜか第三病棟に集中している。そして、その死の直前には、必ず共通の事象が存在した。


毎夜、院長が自ら執り行う、魂を安らかにするための祈りの時間。彼は、揺れる炎を灯したランプを手に、静かに病棟を巡る。その手には銀の香炉も携えられており、そこから立ち上る甘く清涼な香りを放つ白煙、なんでも高価なものらしい――が、淀んだ空気をわずかに浄化していく。患者たちもその香りを待ち望んでいるかのように、安らかな表情を浮かべる者さえいた。それは、誰もが信じて疑わない、慈愛に満ちた善意の行為のはずだった。だが、その祈りの翌朝、必ずと言っていいほど、誰かが冷たくなっているのだ。


その夜、拠点に戻るための僅かな休息時間。リンネは一人、割り当てられた雑役婦用の小部屋で、思考の迷宮に囚われていた。


昼間に見た院長の笑顔、患者の手を握り続けるシスターの姿が脳裏に浮かぶ。

彼らは、間違いなく善人だ。この腐臭漂う施療院を、聖域たらしめている唯一の光だ。

しかし、その善意の象徴である祈りの後に、決まって人が死ぬ。


その悍ましい法則性が、観測された事実として、彼女の脳裏に焼き付いて離れない。


彼女は、洗濯場で無気力に囁き合っていた雑役婦たちの顔を思い出した。「神罰だ」――なんと都合の良い言葉だろう。あらゆる論理的思考を放棄し、不可解な事象すべてを神の気まぐれに帰結させる。


(…なるほど。善意を尽くすと罰が下る。随分と分かりやすい法則だこと)


口に出すことさえ馬鹿げた、冷たい思考だけが、彼女の中で形を成した。無論、信じるわけではない。だが、そのあまりに馬鹿げた仮説を、現在の観測事実では完璧に否定しきれない。


その事実が、リンネの思考の底に、消すことのできない澱となって、じわりと沈んでいく。不快で、そして何よりも、苛立たしい感覚だった。

ご覧いただきありがとうございました。感想や評価、ブックマークで応援いただけますと幸いです。また、他にも作品を連載しているので、ご興味ある方はぜひご覧ください。HTMLリンクも掲載しています。

次回は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です

活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話等更新しています。

作者マイページ:https://mypage.syosetu.com/1166591/

Xアカウント:@tukimatirefrain

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