第1話:王都の新しい塔(ラボ)
王都ルミナーレ。そこは、リンネが半生を過ごした故郷の、古風で静謐な領地とは何もかもが違っていた。
石畳の道を絶え間なく行き交う、数多の馬車と人々。様々な言語の響きが混じり合う喧騒。そして、空を突く王城や教会の尖塔が作り出す、複雑で巨大な影。
リンネに与えられた新たな「塔」は、その王宮の一角にある、埃っぽい一室だった。
「――ここが、今日から我々の拠点、『特務捜査課・特別顧問室』だ」
アレクシスは、山のような公務書類の束を机の隅に追いやりながら、やや疲れた声で言った。部屋の隅には寝台が二つ。そして、中央には不釣り合いなほど巨大な作業台が鎮座している。
だが、リンネの目は、そんなことには目もくれず、部屋の半分を占領する、まだ開かれていない木箱の山に釘付けになっていた。彼女の要望に応じて運び込まれた、最新の(この世界基準での)実験器具や薬品の数々。
彼女は、一つの木箱に駆け寄ると、まるで宝物に触れるかのように、そのざらついた表面をそっと撫でた。普段は感情の機微を映さない紫水晶の瞳が、子供のようにきらきらと輝いている。
「…素晴らしい。これほどの精度を持つガラス製のビーカー、ヴァルハイムでは見たこともありませんでしたわ。この顕微鏡も…ああ、早く、何かを覗いてみたい…!」
木箱の隙間から中を覗き込み、うっとりとため息をつくその姿は、およそ公爵令嬢には見えなかったが、そこには、彼女の探求者としての、純粋な喜びが溢れていた。
アレクシスは、そんな常識外れの同居人に、呆れつつも、どこか微笑ましい気持ちで、深いため息をついた。この数日、彼の日常は激変した。山積みの公務に加え、この異質な「姫君」の世話という、新たな任務が加わったのだ。彼女が食事を忘れて研究に没頭するため、半ば強制的に食事を摂らせる。夜更かしを咎め、無理やり寝台へ向かわせる。その役割は、上司というより、まるで飼育係のようだった。
そんなある日。
「隊長、お呼びですかい?」
快活な声と共に、情報屋のベン・コルビーが部屋に顔を出した。故郷の事件を経て、彼は正式に特務捜査課の一員となっていた。
「ああ、ベンか。例の件、何か動きはあったか」
アレクシスの言う「例の件」とは、王都へ向かう馬車の中で報せを受けた、教会直営の施療院で起きている原因不明の連続死のことだ。王都に到着して以来、彼らは公務の傍ら、この不審な事件の内偵を続けていた。
ベンの顔から、いつもの陽気な笑みが消え、声のトーンが僅かに落ちた。
「ええ、それが、悪い動きがありやした」
彼は、声を潜めて続けた。
「昨日、市民にも派手に噂になってるのを気にしたのか。わざわざ、高位の神官殿が施療院に赴いて、儀式を行ったそうで…」
ベンは、ごくりと喉を鳴らした。
「そして、神託が下されました。『相次ぐ死は、不信心者への神罰である』と」
神罰。
教会が、事件を「神の御業」として処理し、人の手による捜査を拒絶するという、明確な意思表示。
「予想していたことではあるが…『神罰』の一言か」
アレクシスの眉間のしわが深くなる。
王都の新しい日常は、彼らが故郷で戦った相手――神託という名の壁――との、再戦の始まりを告げていた。
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