第22話:母が遺した『知』
エレオノーラの美しい顔から、初めて、余裕の笑みが消えた。
アレクシスの、言葉なき、しかし絶対的な拒絶。それは、彼女の計算を、僅かに、しかし確実に狂わせ始めていた。追い詰められていた。だが、リンネは、もはや一人ではなかった。自らの前に立つ、その広く、そして揺るぎない背中を静かに見つめながら、彼女の思考は、猛烈な速度で回転していた。
姉の嘘を、完全に、そして物理的に封殺する、絶対的な証拠が。
彼女の脳裏に、母が遺した『幻覚性植物図鑑』の、ある一節が、閃光のように蘇った。
それは、事件とは全く無関係に見える、純粋な科学者としての、母の観察記録だった。
『――特筆すべき事象を発見。月光草の調合過程で発生する揮発性成分が、我が愛する「夜光花」の花粉に、予期せぬ化学反応を引き起こしているようだ。花粉が、目に見えぬ燐光性を帯びる。実に興味深い現象…』
母が遺した純粋な「知」が、今、娘の頭脳の中で、恐るべき凶器へと変わる。
「…お姉様」
リンネの声は、静かだった。だが、その響きには、勝利を確信した者の、揺るぎない重みがあった。
「あなたが、お兄様の部屋へ薬湯を運んだ夜。あなたは、秘密の庭園に咲いていた、あの夜光花に触れたはずですわ」
「…まだ、そんな御伽噺を続けるの?」
エレオノーラの嘲笑に、しかし、僅かな焦りが混じる。
「御伽噺ではありません。科学的な『証明』ですわ」
リンネは、アレクシスに向き直った。
「騎士殿。王命に基づき、エレオノーラ様を、証人としてわたくしの研究室までご同行願います。最終実験を、執り行いますので」
それは、有無を言わさぬ、女王の命令のようであった。
アレクシスは、何も言わずに一歩、エレオノーラの進路を塞ぐように、その場に立った。
エレオノーラは、その無言の圧力を前に、一瞬だけ唇を噛んだ。だが、すぐに完璧な貴婦人の仮面を貼り付けると、ふわりとスカートの裾を翻した。
「よろしいでしょう。妹の、最後の悪あがきですもの。見届けてさしあげなくては」
塔の研究室。そこは、リンネの世界。リンネの領域だった。
アレクシスの監視の下、自らの足で歩いてきたエレオノーラの顔には、もはや余裕の色はない。
リンネは、姉の存在など意にも介さず、母の記録を広げると、薬品棚から数種類の液体を、手際よくビーカーへと注いでいく。ガラス棒が液体をかき混ぜる、知的な音だけが響く。それは、まるで魔女が秘薬を練るかのような、しかし、どこまでも論理的で、正確無比な作業だった。
やがて、琥珀色の試薬が完成する。
リンネは、証拠品として保管されていた、兄アルブレヒトの薬湯のカップを、作業台の中央に置いた。
そして、エレオノーラとアレクシスが見守る中、そのカップの縁に、完成したばかりの試薬を一滴、静かに振りかけた。
一瞬の沈黙。
やがて、何も付着していないように見えた純白の陶器の縁に、まるで血が滲むかのように、鮮やかな深紅色の染みが、ゆっくりと、しかし、はっきりと浮かび上がった。
それは、あの夜、エレオノーラの手を介して、このカップに付着した、目に見えないはずの夜光花の花粉だった。
動かぬ、そして、覆すことのできない、科学的な証明。
エレオノーラは、その深紅の染みを前に、ただ、立ち尽くしていた。
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