第2話:神託という絶対の壁
翌朝、塔の研究室には、夜明けの冷気が満ちていた。
リンネは窓辺に立ち、真鍮製の遠眼鏡を片手に、眼下に広がる森の一角を凝視していた。昨日アンナが報告した、商人の死体が見つかった現場だ。すでに衛兵たちによって簡単な縄が張られているが、その仕事ぶりはどこか気の抜けたものに見えた。
「…現場の保存という概念すらないのね」
呆れた独り言が漏れる。遠眼鏡のレンズ越しでも、無数の足跡が遺体の周囲を踏み荒らしているのが見て取れた。これでは、犯人が残したかもしれない僅かな痕跡も、とうに失われているだろう。
やがて、森の小道の向こうから、厳かな一団が現れた。
先頭に立つのは、光神ルミナの象徴である太陽の紋章を刺繍した、純白の祭服に身を包んだ神官だった。その後ろには数人の助祭が続き、彼らが現れると、遠巻きに現場を眺めていた野次馬や衛兵たちが、さっと道を開けて敬虔に頭を垂れた。
神官は、遺体を前にしても眉一つ動かさない。ただ形式的に祈りの言葉を唱えると、助祭が捧げ持っていた香炉を軽く振り、煙をあたりに立ち上らせた。遺体を観察するでもなく、周辺を調べるでもない。それは捜査ではなく、儀式に過ぎなかった。
数分にも満たない儀式の後、神官は集まった人々に向き直り、澄ましきった声で高らかに宣言した。
「――神託は下された! この者に死を与えしは、人ならず! その強欲なる魂を罰するため、森の番人を使わしめたもうた、偉大なるルミナ神の御業である!」
神罰――。
その一言が、集まった人々の間に奇妙な安堵感をもたらした。衛兵たちは「やはりそうか」と頷き合い、野次馬たちは「神の罰とは恐ろしい」と囁きながらも、事件が人の手によるものではなかったことに胸をなでおろしている。これで事件は終わりだ。これ以上の詮索は、神の領域を侵す冒涜になる。誰もがそう信じ、思考を停止させた。
「…馬鹿馬鹿しい」
窓辺のリンネは、吐き捨てるように呟いた。遠眼鏡を持つ手に、思わず力がこもる。
レンズの向こうに広がるのは、知性への冒涜そのものだった。
死は、現象であり結果だ。そこには必ず、物理法則と生物学的なプロセスが存在する。遺体に残された傷、体内に巡る毒物、あるいは微小な生物の活動――死者は、その身をもって雄弁に死の真実を語っている。その声なき声に耳を傾けることこそ、真実を求める者の務めではなかったか。
そう、思考の奥底で、彼女ではない誰かが強く訴えかけてくる。
だが、あの神官は、遺体をろくに見もせずに結論を下した。観察も、分析も、考察も、すべてを放棄した。神の御名の下に、真実から目を逸らしたのだ。
「あれは怠慢よ。そして、欺瞞だわ」
衛兵たちが縄を外し、早々に現場から引き上げていく。神官の一団も、まるで役目を終えた舞台役者のように、厳かに森の奥へと消えていった。残されたのは、もはやただの「獣に食い荒らされた骸」として扱われる、一人の男の亡骸だけ。
リンネは静かに遠眼鏡を下ろした。
彼女の仮説を証明する道は、今、神という名の絶対的な権威によって完全に閉ざされた 。
だが、その紫水晶の瞳から好奇の色は消えていなかった。むしろ、その光はより硬質で、挑戦的なものへと変わっていた。
不合理な壁があるのなら、それを打ち壊すまで。
神が真実を覆い隠すというのなら、科学という名のメスで、その欺瞞を切り開いてみせる。
リンネの胸に、冷たい闘志の炎が静かに灯った。
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