第18話:母の記録と残された謎
父が、殺人犯――。
その衝撃的な事実は、ヴァルハイム公爵家の時を、凍てつかせた。アレクシスは、王家の名において公爵の身柄を拘束し、城の一室に軟禁した。事件は、解決した。だが、リンネの心には、新たな、そしてより根深い謎が、冷たい影を落としていた。
なぜ、姉は兄を殺そうとしたのか?
その動機を探るため、リンネは、父が不在となった書斎へと向かった。彼女は、机の引き出しの奥から、一本の古びた鍵を、まるで盗むかのように取り出した。それは、母クリスティーナの研究室の鍵。父が、母の死後、誰にも立ち入ることを許さなかった、聖域の扉を開く、唯一の鍵だった。
「…騎士殿。王命です」
リンネは、背後に立つアレクシスに、あえてそう告げた。父の不在を利用する、自らの行為を正当化するために。
母の隠された研究室は、まるで時が止まったかのようだった。リンネの混沌とした研究室とは違い、そこは、持ち主を失った後も、不自然なほどに手つかずで、塵一つなく、奇麗なままだった。父が、妻への愛ゆえに、この場所の時を、頑なに守り続けていたのだ。
だが、リンネは、その感傷に浸ることはなかった。彼女は、母の思い出の品々を、まるで事件現場を捜索するかのように、遠慮なく、そして執拗に調べ始めた。
数時間が過ぎた。めぼしいものは、何も見つからない。諦めかけたその時、リンネの指が、母の愛用していた書き物机の、隠し引き出しの存在に、偶然にも気づいた。
その中には、一枚の、羊皮紙だけが、ひっそりと収められていた。
リンネが、その鍵をこじ開け、最初のページをめくった瞬間、彼女は息を呑んだ。
そこには、母の、あまりに冷静で、そして見慣れた科学者としての筆跡があった。
『――1分後。指先に、軽度の痺れ。脈拍、僅かに乱れる。毒物検査に、陽性反応なし』
ページをめくる指が、震えた。
次のページも、その次のページも、母の優美な筆跡で、自らの肉体が蝕まれていく様が、克明に、客観的に記録されていた。
『――5分後。思考に、僅かな混濁を確認。複雑な数式の暗唱に、遅滞を認める。神経毒の一種か』
『――10分後。歩行に支障。視力低下。だが、ついに検体から未知のアルカロイドを分離。これを、クリスティーニンと仮に命名する』
それは、自殺を決意した人間の記録などでは断じてなかった。
これは、母クリスティーナが、自らの命を蝕む未知の毒の正体を、死の瞬間まで、一人の科学者として追い続けた、壮絶な『自己検死記録』。
そして、インクが掠れ、筆圧が乱れた、最後の一行。
そこには、震える文字で、彼女の最後の発見が記されていた。
『――20分後。…照合成功。クリスティーニンが、我が発見せし、あの庭の…月光草に含まれる毒と…完全に、一致…』
月光草。
商人ガイガーを殺害した毒と、全く同じ。
リンネの手から、日記が滑り落ちた。
母は、自殺などしていなかった。母は、殺されたのだ。
父の告白に、最初の、そして致命的な綻びが見え始めた。
「父は、姉の罪を隠すためにガイガーを殺した。では、同じ毒で殺された母は、一体、誰が殺したというの…?」
リンネの紫水晶の瞳から、初めて、観察者としての冷静な光が消えた。そこに宿ったのは、娘としての、底なしの絶望と、静かに燃え盛る、氷のような怒りだった。
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