第14話:物証が語る真実
部屋の主は、アレクシスがそこにいることに、まるで気づいていないかのようだった。
彼の存在は、壁の標本や床の書物と同じ、ただの風景の一部でしかない。この異様な空間では、王家の騎士という権威も、屈強な男の存在感も、何の意味もなさなかった。アレクシスは、しばしの沈黙の後、意を決して自ら口を開いた。
「――リンネ・フォン・ヴァルハイム姫」
その声に、少女は初めて、億劫そうに顔を上げた。観察を中断されたことへの、あからさまな不満がその表情に浮かんでいる。
「…何かご用ですの、騎士殿。見ての通り、わたくしは今、取り込み中なのですが」
その紫水晶の瞳は、アレクシスという人間ではなく、彼の装飾的な肩章や、ブーツについた僅かな泥を、まるで値踏みするように眺めている。
「失礼する。私は、王立騎士団のアレクシス・フォン・クライスト。国王陛下の勅命により、この地で起きた商人死亡事件の捜査を」
「存じておりますわ。それで、ご用件は?」
リンネは、彼の長々しい自己紹介を、ばっさりと切り捨てた。彼女の興味は、彼の身分や肩書には一切ない。ただ、用件そのものにしか向いていなかった。
アレクシスは、言葉を呑んだ。この少女の前では、いかなる権威も通用しない。彼は、当初の予定を即座に破棄すると、一つの真実に行き着いた。彼女の心を動かすのは、地位でも、命令でもない。ただ、彼女の知的好奇心を刺激する、上質な「謎」だけだ。
彼は黙って、懐から一つの小箱を取り出した。
中には、昨夜、狩猟小屋の床下から発見した、証拠の布片と、それに絡みついていた一本の奇妙な『毛』が収められている。
「これについて、何かご存知ではないかと」
その瞬間、リンネの瞳の色が、初めて変わった。
それまでの退屈そうな光が消え、未知の生物を前にした研究者の、鋭く、飢えたような輝きが宿る。彼女はアレクシスの手から小箱をひったくるように取ると、机の上に置き、自前のピンセットでその『毛』を慎重につまみ上げた。
「…興味深い」
リンネは、それをランプの光にかざし、あらゆる角度から観察すると、ふとアレクシスに視線を移した。その瞳には、侮蔑ですらない、純粋な観察者としての光が浮かんでいた。
「これを『毛』だと認識されたのですか。不思議なこと。複眼を持つ生物と、単眼を持つ生物ほどに、世界の捉え方が違うのですね」
その言葉は、アレクシスの自尊心を、根底から揺さぶった。侮辱されたのではない。まるで、違う種に分類されたかのような、絶対的な断絶を突きつけられたのだ。
「…何?」
「これは、獣毛などではありませんわ。特定のイラガ科に属する毒蛾の、幼虫が持つ『毒針毛』。それも、羽化を前にした終齢幼虫のものです」
彼女は、こともなげに、しかし驚くべき事実を告げた。
「この毒蛾の幼虫が食草とするのは、ただ一つ。アルデリア王国では、ごく一部の湿地にしか自生しない、幻覚作用を持つ毒草『月光草』のみ。つまり、この毒針毛が被害者の衣服に付着していたのなら、その人物は死の直前、月光草の群生地にいたということになりますわ」
アレクシスは、絶句した。
自分や部下たちが、ただの奇妙な毛としか認識できなかった物体から、彼女は、犯行現場の植生までを、完璧に特定してみせたのだ。神託よりも、いかなる自白よりも雄弁に、この小さな物証が、事件の真実を語り始めていた。
「…どうかなさいまして?」
リンネは、すでに彼への興味を失い、再び毒針毛の観察へと戻りながら、怪訝そうに問いかけた。
アレクシスは、目の前の少女が、もはやただの貴族令嬢には見えなかった。
彼女は、この国の常識から逸脱した、異質で、危険で、そして何よりも、美しい知性の怪物だった。




