第13話:塔の研究室
翌朝、ヴァルハイム公爵の城館に、再びアレクシスの姿があった。
夜の闇に紛れて宿屋に戻った彼とベンは、泥と煤にまみれた服を着替え、まるで何事もなかったかのように、しかしその身に昨夜の殺意の記憶を刻みつけて、公爵との謁見を要求した。
応接室で待つアレクシスの前には、苦々しい表情を浮かべたヴァルハイム公爵が座っていた。
「クライスト卿。随分と熱心なことだな。私の『穏便に』という忠告は、お忘れかな?」
その言葉には、自らが仕けた罠から生還した男への、隠しきれない驚愕と苛立ちが滲んでいた。
「あなたの言う『平穏』とは、王の騎士に矢を放ち、事故に見せかけて殺害しようとすることですか、公爵閣下」
そのあまりに、直截な物言いに、公爵の眉が引き攣る。
アレクシスの声は、静かだが、鋼のように硬い怒りを含んでいた。彼は、昨夜の襲撃で使われた、軍用のクロスボウの矢を一本、テーブルの上に滑らせた。
「…何の冗談かな。そのようなこと、私が知るはずも…」
「言い逃れは無用です。昨夜、貴殿の領地で、練度の高い部隊が我々を襲撃した。この地で、そのような兵を動かせる者が、貴殿の他にいるとでも?」
口を開きかけた公爵を手で制し、アレクシスは立ち上がる。その声は、もはや捜査官のものではなかった。
「これは、単なる捜査妨害ではない。国王陛下より勅命を受けし騎士への、計画的な襲撃。すなわち、王権そのものへの反逆行為です」
彼は、懐から国王の印璽が押された勅命状を広げてみせた。
「今この時より、本件の捜査に関する全権は、私、アレクシス・フォン・クライストに一任される。いかなる妨害も、反逆と見なす。…閣下、私はもはや、あなたに協力を『お願い』しているのではありません。これは、王命です。」
公爵の顔が、屈辱に歪んだ。
そして、アレクシスは、その勢いのまま、自分でさえも、予想していなかった一言を発した。
「ただちに、塔への道を開き、リンネ姫との面会を許可されたい」
「…それも、王命、か」
「これも、王命です」
もとより、彼に拒否権はない。彼は、わなわなと震える唇で、傍らに控える執事に命じた。
「…クライスト卿を、塔へ…ご案内、せよ…」
忘れられたようにそびえる、古い塔。
案内する執事は、道中、一言も発しなかった。その背中は、鋼の棒を飲み込んだかのように真っ直ぐで、恐怖ではなく、冷え切った怒りに満ちていた。重々しい扉の前まで来ると、彼は鍵をアレクシスに手渡し、深々と、しかし侮辱的なほどゆっくりと頭を下げた。そして、顔を上げた瞬間、その目に宿っていたのは、忠誠心ゆえの、底なしの憎悪だった。執事は、無言のまま踵を返し、その姿はすぐに城館の闇へと消えた。果たして、この行為にそれほどの価値はあったのか、アレクシスの頭にそのような思考が混じる。
アレクシスは、自らの手でその扉を開ける。
その先で彼が見たのは、令嬢の部屋ではなかった。
壁という壁は、おびただしい数の昆虫標本や動物の骨格模型で埋め尽くされ、床には古今東西の書物が山と積まれている。ホルマリンと、得体の知れない薬品の匂いが、彼の鼻腔を鋭く刺した。
そこは、狂気と知性が同居する、異様な「研究室」だった。
そして、その中心で。
一人の少女が、机に広げた何かの標本を、一心不乱に観察していた。
濡れ羽色の髪を無造作に束ね、貴族令嬢らしからぬ簡素なチュニックを纏っている。アレクシスが部屋に入ってきたことにも、彼が立てた物音にも、まるで気づいていないかのように、その紫水晶の瞳は、目の前のミクロの世界に完全に没入していた。
王命を盾に、百戦錬磨の公爵を屈服させた王立騎士団、特務捜査課隊長、アレクシス・フォン・クライスト。
その彼が、ただの一瞥もくれぬ少女を前に、かけるべき言葉も見つけられず、しばし立ち尽くしていた。
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