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第1話:好奇心は死の匂い

※作者からのお願い

作品をお読みいただき、ありがとうございます。

皆様からの評価やコメントが、何よりの執筆の励みになります。

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皆様の一つ一つの応援が、書籍化への大きな力となります。

リンネ・フォン・ヴォルハイムは塔に閉じ込められている。


ヴァルハイム公爵家の領地の片隅、人々から忘れられたかのようにそびえる石造りの塔。その最上階の一室が、リンネに与えられた世界のすべてだった。


部屋を満たすのは、令嬢の部屋にふさわしい薔薇の香りではなく、ホルマリンと古い羊皮紙の入り混じった禁欲的な匂い 。壁という壁は、おびただしい数の昆虫標本や動物の骨格模型で埋め尽くされ、床には無造作に書物の山が築かれている。ここは閨房ではない。探求者のための研究室だ 。



その中央で、リンネは息を詰めていた。

窓から差し込む午後の光が、ピンセットの先に留まる小さな金属光沢を照らし出す。それは、一匹のニクバエだった 。瑠璃色に輝く胸部、規則正しく並ぶ剛毛。彼女の紫水晶アメジストの瞳が、その微細な構造を狂的なまでの集中力で捉える 。



「Calliphora vicina…」


無意識に、知らないはずの名が唇からこぼれ落ちた。脳裏に、白い壁の研究室、ガラスのレンズ越しに覗き込んだ世界の映像が、一瞬、陽炎のように揺らめく。

(…まただ)

この奇妙な感覚に、彼女はとうに慣れていた。なぜ知っているのかは分からない。ただ、「知っている」という絶対的な確信だけが、身体の奥底に根付いていた。


その時、控えめなノックの音に続き、扉が恐る恐る開かれた。

「ひ、姫様…。入りますわよ」

侍女のアンナが、お盆に乗せた紅茶を手に、部屋の入り口で立ち尽くしていた。彼女の視線は、リンネの手元と、机に並んだ器具類の上を怯えながら滑り、すぐに伏せられる。その瞳には、恐怖だけでなく、どうしようもないものを見る憐憫と、僅かな諦観が滲んでいた。


「…アンナ。そこに置いておいて」

「はい…。あの、姫様。またそのような物を…。旦那様に見つかりましたら、今度こそ…」

「これは『物』ではないわ。完璧な構造体よ」

リンネは視線を標本から動かさずに答える。その言葉が、アンナの心配をいっそう深くしたのは言うまでもない。侍女は何かを言いかけたが、やがて諦めたように深くため息をつき、本題を切り出した。

「…それより、お耳に入れておかなければならないことが。先ほど、森で旅の商人が亡くなっているのが見つかったそうです。なんでも、獣に襲われたとか…。衛兵の方々が騒いでおりました」


「獣害。森で」

リンネは、アンナの報告から二つの単語を無感情に抽出する 。彼女の関心を引いたのは、商人の死そのものではなく、その「状況」だった。


リンネはゆっくりと顔を上げ、アンナを真っ直ぐに見つめた。

「…それで? 発見者は? 現場の様子は?」

矢継ぎ早の質問に、アンナはたじろぐ。

「そ、そのようなこと、私には…! ああ、姫様、どうか関わろうとなさらないで。ただでさえ、姫様は…」

その先の言葉を、アンナは飲み込んだ。「変わり者」「公爵家の恥さらし」 ――世間がリンネに投げかける言葉を、彼女は決して口にしなかった。それが、この侍女なりの不器用な誠意だった。


「…そう。分かったわ。下がっていい」

冷たい声に促され、アンナは逃げるように部屋を辞した。扉が閉まり、再び静寂が訪れる。


リンネは、再び手元のニクバエに視線を落とした。

――獣害。森のような開けた場所で、獣に襲われた新鮮な死骸。

そこに、この冷涼で閉鎖的な環境を好む種が、真っ先に産卵することなどあり得るだろうか?


否。断じて、否。


リンネの唇の端が、微かに吊り上がった。それは、上質な謎を前にした、純粋な探究者の笑みだった。


「その死体、嘘をついているわ」


その呟きは、誰の耳にも届くことなく、無数の標本が眠る静寂な研究室に溶けていった。






挿絵(By みてみん)

ご覧いただきありがとうございました。感想や評価、ブックマークで応援いただけますと幸いです。また、他にも作品を連載しているので、ご興味ある方はぜひご覧ください。HTMLリンクも掲載しています。

次回は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です

活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話等更新しています。

作者マイページ:https://mypage.syosetu.com/1166591/

Xアカウント:@tukimatirefrain

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― 新着の感想 ―
リンネの異質さが際立つ入りからの、旅の商人の謎の死。 読者を引き込むリンネの「その死体、嘘をついているわ」というセリフが琴線に触れました。 どんな謎解きを見せてくれるのか、とても楽しみです!
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