第1話:好奇心は死の匂い
※作者からのお願い
作品をお読みいただき、ありがとうございます。
皆様からの評価やコメントが、何よりの執筆の励みになります。
もしこの作品を少しでも「面白い」「続きが読みたい」と感じていただけましたら、ブックマークや評価(☆☆☆☆☆→★★★★★)で応援していただけると大変嬉しいです。
皆様の一つ一つの応援が、書籍化への大きな力となります。
リンネ・フォン・ヴォルハイムは塔に閉じ込められている。
ヴァルハイム公爵家の領地の片隅、人々から忘れられたかのようにそびえる石造りの塔。その最上階の一室が、リンネに与えられた世界のすべてだった。
部屋を満たすのは、令嬢の部屋にふさわしい薔薇の香りではなく、ホルマリンと古い羊皮紙の入り混じった禁欲的な匂い 。壁という壁は、おびただしい数の昆虫標本や動物の骨格模型で埋め尽くされ、床には無造作に書物の山が築かれている。ここは閨房ではない。探求者のための研究室だ 。
その中央で、リンネは息を詰めていた。
窓から差し込む午後の光が、ピンセットの先に留まる小さな金属光沢を照らし出す。それは、一匹のニクバエだった 。瑠璃色に輝く胸部、規則正しく並ぶ剛毛。彼女の紫水晶の瞳が、その微細な構造を狂的なまでの集中力で捉える 。
「Calliphora vicina…」
無意識に、知らないはずの名が唇からこぼれ落ちた。脳裏に、白い壁の研究室、ガラスのレンズ越しに覗き込んだ世界の映像が、一瞬、陽炎のように揺らめく。
(…まただ)
この奇妙な感覚に、彼女はとうに慣れていた。なぜ知っているのかは分からない。ただ、「知っている」という絶対的な確信だけが、身体の奥底に根付いていた。
その時、控えめなノックの音に続き、扉が恐る恐る開かれた。
「ひ、姫様…。入りますわよ」
侍女のアンナが、お盆に乗せた紅茶を手に、部屋の入り口で立ち尽くしていた。彼女の視線は、リンネの手元と、机に並んだ器具類の上を怯えながら滑り、すぐに伏せられる。その瞳には、恐怖だけでなく、どうしようもないものを見る憐憫と、僅かな諦観が滲んでいた。
「…アンナ。そこに置いておいて」
「はい…。あの、姫様。またそのような物を…。旦那様に見つかりましたら、今度こそ…」
「これは『物』ではないわ。完璧な構造体よ」
リンネは視線を標本から動かさずに答える。その言葉が、アンナの心配をいっそう深くしたのは言うまでもない。侍女は何かを言いかけたが、やがて諦めたように深くため息をつき、本題を切り出した。
「…それより、お耳に入れておかなければならないことが。先ほど、森で旅の商人が亡くなっているのが見つかったそうです。なんでも、獣に襲われたとか…。衛兵の方々が騒いでおりました」
「獣害。森で」
リンネは、アンナの報告から二つの単語を無感情に抽出する 。彼女の関心を引いたのは、商人の死そのものではなく、その「状況」だった。
リンネはゆっくりと顔を上げ、アンナを真っ直ぐに見つめた。
「…それで? 発見者は? 現場の様子は?」
矢継ぎ早の質問に、アンナはたじろぐ。
「そ、そのようなこと、私には…! ああ、姫様、どうか関わろうとなさらないで。ただでさえ、姫様は…」
その先の言葉を、アンナは飲み込んだ。「変わり者」「公爵家の恥さらし」 ――世間がリンネに投げかける言葉を、彼女は決して口にしなかった。それが、この侍女なりの不器用な誠意だった。
「…そう。分かったわ。下がっていい」
冷たい声に促され、アンナは逃げるように部屋を辞した。扉が閉まり、再び静寂が訪れる。
リンネは、再び手元のニクバエに視線を落とした。
――獣害。森のような開けた場所で、獣に襲われた新鮮な死骸。
そこに、この冷涼で閉鎖的な環境を好む種が、真っ先に産卵することなどあり得るだろうか?
否。断じて、否。
リンネの唇の端が、微かに吊り上がった。それは、上質な謎を前にした、純粋な探究者の笑みだった。
「その死体、嘘をついているわ」
その呟きは、誰の耳にも届くことなく、無数の標本が眠る静寂な研究室に溶けていった。
ご覧いただきありがとうございました。感想や評価、ブックマークで応援いただけますと幸いです。また、他にも作品を連載しているので、ご興味ある方はぜひご覧ください。HTMLリンクも掲載しています。
次回は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です
活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話等更新しています。
作者マイページ:https://mypage.syosetu.com/1166591/
Xアカウント:@tukimatirefrain