第5章
「次喋ったら、殺す」
ルナの言葉は、冗談ではなかった。
彼女の瞳に宿る殺意は、純度も濃度も最高レベル。
俺がもし一言でも「ぜ」の音を発しようものなら、次の瞬間には喉笛を掻き切られ、この薄暗い酒場の床に転がることになるだろう。
俺の絶対領域探求の旅は、ここで終わるのか……。
ゴゴゴゴゴ……!
その、張り詰めた静寂を破ったのは、店の外から響いてきた、地鳴りのような轟音だった。
グラスが揺れ、酒瓶がカタカタと音を立てる。
遠くから、人々の悲鳴が聞こえてきた。
「な、なんだ!?」
「地震か!?」
店内の客たちが騒ぎ出す。
その直後、酒場の扉が勢いよく開け放たれた。
「マスター! 大変だ! 中央広場の地下水道から、ドラゴンが出やがった!」
血相を変えて飛び込んできたのは、ルナと同じ盗賊仲間らしき男だった。
「ドラゴンだと!?」
カウンターで静観を決め込んでいたマスターが、初めて動揺した声を上げる。
「馬鹿な! なんで街のど真ん中にそんなもんが!」
「わからねえ! 表の冒険者ギルドの奴らじゃ、地下での戦闘は専門外だ! このままじゃ街が火の海になっちまう!」
マスターは顔をしかめ、即座に店の中で最も腕の立つ暗殺者へと視線を向けた。
「ルナ! お前しかいねえ! さっさと行って、奴の息の根を止めてこい!」
「……ちっ」
ルナは忌々しげに舌打ちすると、俺から短剣を引いた。
俺はすかさずマスターにアピールする。
「マスター! 俺の能力があれば、ドラゴンだろうがなんだろうが必ず勝てる!」
「信用できるか、そんな変態能力」
「おいおい、ごちゃごちゃ言ってる場合か!」
マスターが、俺とルナを一喝した。
「さっさと行け! これはギルドマスターとしての命令だ! 報酬は弾んでやる!」
ルナは心底嫌そうな顔で俺を見ると、何も言わずに店の外へと駆け出していった。
俺も慌ててその後を追う。
背後からマスターの「頼んだぜ、変態様!」という声が聞こえたが、今は無視だ。
◇
俺たちがたどり着いたのは、中央広場の隅にある、古びたマンホールだった。
ルナは手慣れた様子でそれを開けると、躊躇なく暗い闇の中へと飛び降りる。
「おい、待てって!」
俺も後を追って地下水道へと降り立つと、そこは湿った空気とカビの匂いが充満する、不気味な空間だった。
時折、天井から滴り落ちる水滴の音だけが、やけに大きく響く。
そして、奥から聞こえてくる。
グルルルル……。
腹の底に響くような、低い唸り声。
そして、時折ゴウッ!と空気を焼く音。
間違いない、ドラゴンだ。
「行くぞ、変態。足手まといになるなよ」
「だから変態じゃ……いや、今はいい。俺のことは領也と呼んでくれ」
「興味ない」
バッサリだ。こいつとのコミュニケーションは、アリシア以上に前途多難らしい。
通路を抜けると、ドーム状の開けた空間に出た。
そして、その中央に、奴はいた。
全長は十メートルを超えるだろうか。濡れて鈍色に光る鱗は、鋼鉄のような硬度を誇っているのが一目でわかる。
鋭い牙が並んだ顎からは、時折、灼熱の炎が漏れ出していた。
巨大オークなど、赤子同然。格が違う。
「グオオオオオッ!」
ドラゴンが俺たちに気づき、威嚇の咆哮を上げた。
その風圧だけで、体がよろめきそうになる。
だが、ルナは怯まない。
彼女は音もなく腰の短剣を抜くと、その姿がすっと影の中に溶けた。
「えっ!?」
消えた!? いや、違う。
影から影へと、常人には捉えられない速度で移動しているのだ。
ドラゴンが首を巡らせてルナの姿を探している隙に、彼女はドラゴンの背後に回り込み、その首筋目掛けて垂直の壁を駆け上がった。
「シャアッ!」
鋭い気合と共に、ドラゴンの鱗の隙間に短剣を突き立てる。しかし、
キィン!
甲高い音を立てて、短剣は弾かれてしまった。
ドラゴンの鱗は、ルナの攻撃さえも通さない。
「くそっ……予想以上に強い……!」
体勢を崩したルナに、ドラゴンの巨大な尻尾が薙ぎ払うように襲いかかる。
ルナは咄嗟に後方へ跳んでそれを回避するが、ドラゴンは即座に次の攻撃に移っていた。
「ゴオオオオオッ!」
口から放たれたのは、灼熱のブレス。
地下水道全体を焼き尽くさんばかりの炎が、ルナに殺到する。
「しまっ……!」
ルナは全力で横に跳んで回避したが、炎の余波が彼女の体を捉えた。
「ぐっ……あぁっ!」
ルナは壁に叩きつけられ、地面に崩れ落ちる。
その肩は黒く焼け焦げ、苦痛に顔を歪めていた。
「ルナ!」
俺は彼女に駆け寄る。
ドラゴンが、動けないルナにとどめを刺そうと、ゆっくりと近づいてくる。
「ここまでか……」
ルナは朦朧とする意識の中、悔しそうに呟いた。
「諦めるな!」
俺は叫び、懐から先ほど生成したニーハイソックスを取り出した。
「ルナ! 俺のニーハイソックスを履け!」
「……断る」
意識が遠のきかけているというのに、拒絶の言葉だけははっきりしている。
「このままじゃ君が死ぬぞ! つまらないプライドより、命の方が大事だろうが!」
「うるさい……変態に、助けられるくらいなら……」
「俺が変態なのは認める! だが、この力は本物なんだ!」
俺の必死の説得に、ルナはしばらく沈黙した。
そして、目の前に迫るドラゴンの姿と、俺の差し出すニーハイソックスを見比べ、長い、長い葛藤の末に、か細い声で言った。
「…………一回だけだ。絶対に変な目で見るな。見たら殺す」
「分かった!」
俺は彼女のブーツと、破れたズボンの裾を脱がせ、その引き締まった脚に、漆黒のニーハイソックスを履かせる。
(おお……! アリシアの脚とはまた違う、このアスリートのような筋肉の張り! 無駄のない、研ぎ澄まされた機能美! この脚にニーハイソックスが合わさると、可憐さと凶暴さが同居した、新たな魅力が生まれる……!)
鼻血が出そうになるのを、必死でこらえる。
ルナの殺す気満々の視線が、俺に突き刺さっているからだ。
装着が完了した、その瞬間。
ルナの全身から、黒い影のようなオーラが噴き出した。
焼け焦げていた肩の傷が、みるみるうちに塞がっていく。
「この力……」
ルナは自分の掌を見つめ、信じられないといった表情を浮かべていた。
「見るな変態」
俺が彼女の絶対領域をガン見していることに気づき、即座に鋭いツッコミが入る。
パワーアップしたルナは、再びドラゴンに挑みかかった。
動きは先ほどよりも遥かに速く、鋭い。
影から影へと跳び、ドラゴンの攻撃を紙一重でかわしていく。
だが、それでもまだ、あの鋼鉄の鱗を貫くには至らない。
「まだ足りない……!」
ルナが悔しそうに歯噛みする。
そうだ、まだ足りない。俺の力の、真骨頂はここからだ!
「ルナ! 君の絶対領域に触れさせてくれ! そうすれば、もっと強力な武器を取り出せる!」
「は? ふざけるな!」
「本当なんだ! 君の命がかかってる!」
ルナの動きが一瞬止まる。
その隙を、ドラゴンは見逃さない。
再び放たれたブレス。
ルナはそれを回避しながら、極限の葛藤に顔を歪ませていた。
そして、ついに覚悟を決めたように、叫んだ。
「……一瞬だけだぞ!」
「それでいい!」
俺はルナの背後に回り込むと、意を決して、彼女の左の太もも……黒い革のホットパンツと、ニーハイソックスの間に広がる、聖なる領域へと手を伸ばした。
指先が、その引き締まった肌に触れる。
「うおおおおおっ! これがルナの絶対領域! アリシアの柔らかさとは違う、この弾力! この反発力! まるで最高級のスプリングのようだ! 素晴らしい!」
俺の感動に呼応するように、ルナの太ももの横に、今度は漆黒の闇が渦を巻くゲートが出現した。
その中から現れたのは、闇よりも黒い、五本の短剣だった。
それぞれが異なる形状をしており、不気味なオーラを放っている。
「これは……!?」
ルナは驚きながらも、その短剣を手に取ると、その使い方を本能で理解したようだった。
彼女の姿が、完全に影の中に消える。
ドラゴンが戸惑っていると、その巨大な体の、五つの急所――両目、喉元、心臓、翼の付け根――に、同時に黒い短剣が突き刺さっていた。
「ギ……イィィィィィアアアアアッ!」
ドラゴンは、人生最後の断末魔を上げると、巨体を維持できずに崩れ落ち、やがて塵となって消えていった。
静まり返った地下水道。
ルナは、手にした『影の短剣』を見つめ、そして、俺に向き直った。
その表情は、相変わらず無表情だ。
「……効果は認める」
彼女は、事実と感情を完全に切り離して、そう言った。
「でも、二度と触るな」
「ありがとう、ルナ! 君の絶対領域も、最高にクールだったぜ!」
俺が感動の涙と共にサムズアップすると、彼女は氷点下の声で、ただ一言だけ、こう返した。
「死ね」
こうして、俺はまたしても変態行為で街の危機を救い、そして、新たな仲間(仮)から、最大級の殺意を向けられることになったのだった。