第4章
討伐後、アリシアからは一言も口を利いてもらえていない。
ギルドへの帰り道、彼女は俺から常に半径五メートル以上の距離を保ち、その碧眼は「汚物を見る目」から「存在しないものを見る目」へと進化していた。
無視される方が、いっそきつい。
ギルドに戻って正式に冒険者登録を済ませると、俺のランクは実績を考慮されてブロンズから始まった。
報酬の金貨を受け取り、当面の生活には困らない。
だが、俺の評判は最悪だった。
「昨日は見事だったな、太ももから剣を出すとこ」
ギルドの荒くれ者どもは、面白半分に俺をからかってくる。
完全に「頭のネジが数本どころか全部吹っ飛んでいるヤバい変態」という認識で固まってしまったようだ。
不本意だが、訂正する気力もない。
「……これじゃない」
俺は報酬の金貨袋を揺らしながら、独りごちる。
俺が求めるのは、まだ見ぬ至高の絶対領域。
そして、俺のこの崇高なる愛を理解してくれる(かもしれない)パートナーだ。
アリシアは……うん、まあ、長い目で見よう。
新たな可能性を求め、俺は街の裏通りへと足を踏み入れた。
表通りの陽気な雰囲気とは打って変わって、狭い路地には薄暗い影が落ち、そこかしこから怪しげな視線を感じる。
得体の知れない薬草の匂いと、安酒の酸っぱい匂いが混じり合って、独特の空気を醸し出していた。
こういう場所には、表には出てこない情報が集まる。
そして、表の世界では生きられない、尖った奴らがいるはずだ。
しばらく歩くと、ひときわ古びた木製の扉が目に入った。
看板には「影猫のねぐら」とだけ書かれている。
中からは人の気配はするが、ギルドのような喧騒はない。
直感が告げている。ここだと。
俺は扉を押し開け、中へと入った。
店内は薄暗く、ヤニで燻された壁と天井が歴史を物語っている。
カウンターでは無口そうなマスターがグラスを磨き、数人の客が、互いに干渉することなく静かに酒を飲んでいた。
冒険者ギルドとは違う、プロの仕事人が集う場所。
いわゆる、盗賊ギルドというやつだろう。
俺が店の中を見回していると、ふと、一番奥の影になったテーブル席に座る一人の少女に目が留まった。
小柄だ。だが、その全身から発せられる存在感は、店内の誰よりも鋭く、張り詰めている。
影に溶け込むような黒い革の服をまとい、腰には何本もの短剣。短く切りそろえられた黒髪が、その小さな顔の輪郭を際立たせていた。
そして、全てを見透かすかのような、冷たい光を宿した瞳。
アリシアが太陽の光なら、彼女は月光だ。
それも、雲間に隠れた、鋭い三日月の光。
だが、俺の視線は、そんな詩的な感想を抱くよりも早く、テーブルの下へと吸い寄せられていた。
すらりと伸びた、引き締まった脚。
贅肉が一切なく、しなやかな筋肉のラインが浮かび上がっている。
それはアリシアの健康的で柔らかな脚とはまた違う、狩人のような機能美に満ちていた。
(うおおおお! なんだあの美脚は! アリシアの脚が「至高の芸術品」なら、こっちの脚は「究極の機能美」! この引き締まった太ももに、ニーハイソックスを履かせたらどうなる!? きっと、布地が筋肉のラインに沿って、完璧な張りを生み出すに違いない! 小柄な体躯だからこそ生まれる、可憐さと鋭さが同居した絶対領域……! 見てみたい! 今すぐこの目で見たい!)
俺の脳内で、またしても変態的な妄想がフルスロットルで駆け巡る。
視線が、自然と熱を帯びていく。
その時だった。
「何の用だ」
冷たく、刃物のような声が飛んできた。
俺はハッとして顔を上げたが、もう遅い。
彼女の視線が、俺の目を正確に射抜いていた。
「……何その気持ち悪い目」
「えっ」
ドン引き、ではない。そこに含まれているのは、純度百パーセントの軽蔑と、わずかな殺気。
アリシアの反応とは、明らかに質が違う。
だが、俺はここで引き下がる男ではない。
むしろ、この出会いこそ運命だと感じていた。
「君!」
俺はテーブルに近づき、情熱を込めて語りかけた。
「君の脚も素晴らしい! アリシア・ヴァルキリーの脚が太陽の輝きなら、君の脚は月光の鋭さを持っている! ぜひ俺のニーハイソックスを……」
言葉は、途中で途切れた。
カキン、という無機質な音と共に、俺の喉元に冷たい感触が押し当てられていたからだ。
いつの間に抜いたのか、少女が投げた短剣の切っ先が、俺の喉仏に寸分違わず突きつけられていた。
「変態死ね」
「ご、誤解だ!」
俺は冷や汗を流しながら、両手を上げて降参のポーズを取る。
「俺はただ、純粋に絶対領域を愛しているだけで……」
「絶対領域?」
少女は顔を上げた。
その無表情な顔に、初めて怪訝な色が浮かぶ。
「何それ、新手の痴漢用語?」
「違う! 断じて違う! 絶対領域とは、太ももとニーハイソックスが作り出す、神聖にして不可侵の空間のことだ! それは芸術なんだ! 君のその引き締まった太ももと、俺の創造するニーハイソックスが融合した時に生まれる、唯一無二の神聖な空間を、俺に見せてほしい!」
俺の熱弁を聞き終えると、少女は心底うんざりしたように、ふぅ、と息を吐いた。
「……完全に変態確定。死ね」
「だーかーらー!」
俺がさらに食い下がろうとした時、カウンターの中から、ニヤニヤとした笑みを浮かべたマスターが声をかけてきた。
「おいおい、ルナ。そいつが誰だか知ってんのか? 昨日、巨大オークを討伐したっていう噂の新人だぜ。太ももから聖剣を出しやがったっていう、あの変態様だ」
「知ってる。だから変態だと言ってる」
ルナと呼ばれた少女は、マスターを一瞥すると、再び俺に視線を戻した。
その瞳の冷たさは変わらない。
「この変態の相手をする気はない」
「そう言うなよ。話くらい聞いてやれ」
「時間の無駄」
ダメだ。全く聞く耳を持たない。
アリシアはまだ困惑してくれただけマシだった。
こいつには、俺の言葉は一ミリも届いていない。
こうなれば、実物を見せるしかない。
俺は再び、あの奇跡の能力を発動させようと、右手に意識を集中させた。
「せめて、このニーハイソックスだけでも見てくれ。君に似合うように、クールなデザインのものを……」
俺の手のひらが、淡く光り始める。
だが、その光は、次の瞬間にはかき消されていた。
ルナが、俺が何かをする前に、電光石火の速さで距離を詰め、俺の右腕を掴んで捻り上げていたからだ。
「痛てて……!?」
関節が軋む。速すぎる。
いつの間に動いたのか、全く見えなかった。
ルナは俺の耳元で、凍てつくような声で囁いた。三つの、簡潔な言葉を。
「消えろ」
それは、アリシアの絶叫とは全く違う、静かだが、心の底からの完全な拒絶だった。
俺は腕の痛みと、心のダメージに耐えながら、それでも最後の望みをかけて口を開く。
「ぜ、絶対領域の美しさを……その素晴らしさを、理解してもらえれば、きっと……」
瞬間、喉元に突きつけられた短剣の圧が、さらに強まった。
皮膚がわずかに切れ、血が一筋流れる。
ルナの目が、本気の光を宿していた。
それは、冗談でも脅しでもない、純粋な殺意の光。
「しつこい」
彼女は、吐き捨てるように言った。
「次喋ったら、殺す」
シン、と酒場が静まり返る。
カウンターのマスターだけが、面白そうにニヤニヤしながら、ことの成り行きを見守っていた。
アリシアのドン引きとは、次元が違う。
これは、物理的な、命の危機だ。
俺の崇高なる絶対領域への愛は、この街の影の中で、殺意という名の完全拒絶という、あまりにも分厚い壁にぶち当たってしまったのだった。