第3章
ギルドホールは、絶対零度の空間と化していた。
俺が差し出した漆黒のニーハイソックスと、それを全力で拒絶するアリシアの絶叫。
その間に挟まれた空気は、もはや誰も呼吸することすら許さないほどに凍てついている。
冒険者たちの視線が痛い。
槍のように鋭く、氷のように冷たい。
受付嬢は顔面蒼白で、今にも卒倒しそうだ。
「あ、あの……アリシアさん、落ち着いて……こちらの、えーっと……」
受付嬢が俺の名前を思い出せずにおろおろしている。
そりゃそうだ、まだ登録も済んでいないのだから。
このままでは、俺は冒険者になる前に「ギルドで公然わいせつ未遂を犯した変態」として、この街の歴史に名を刻むことになってしまう。
その、誰もが動けなくなった膠着状態を破壊したのは、けたたましい鐘の音と、ギルドの扉が弾け飛ぶかのような轟音だった。
「緊急事態だ! ギルドの腕利きはいるか!?」
血相を変えて飛び込んできたのは、革鎧をまとった街の衛兵だった。
その肩には矢が刺さり、息も絶え絶えだ。
ただ事ではない。
「西の森の近く、開拓村が巨大なオークに襲われている! 応援を頼む! このままでは村が……!」
その言葉に、ギルドの空気が一変した。
さっきまでの好奇と侮蔑の視線が、瞬時に戦士の目つきに変わる。
「巨大オークだと!?」
「西の森のオークキングか!」
「やっかいだな、新人じゃ手に負えんぞ!」
屈強な冒険者たちが、次々に武器を手に立ち上がる。
その中に、アリシアもいた。
彼女はさっきまでの混乱を振り払うように顔を上げると、凛とした声で名乗りを上げた。
「私も行きます! 見習いとはいえ、ヴァルキリー家の騎士です!」
「おお、アリシア嬢! 助かる!」
衛兵が安堵の表情を浮かべる。
その時、俺も間髪入れずに叫んでいた。
「俺も行く!」
瞬間、その場の全員の視線が、再び俺に突き刺さった。
特に、アリシアの碧眼には、先ほどまでのドン引きに輪をかけて、強い拒絶の色が浮かんでいる。
「あなたは……来ないでください」
「なっ!?」
「これは実戦です。あなたのその……よく分からないふざけた行動で、皆さんの足を引っ張られては困ります」
きっぱりとした、冷たい声。
あまりの言い草に、俺は反論する。
「ふざけてなどいない! 俺のこのニーハイソックスへの愛は、いつだって真剣だ! そして、その力は必ず役に立つ!」
「……もう、何を言っているのか分かりません」
アリシアは心底うんざりしたようにため息をつくと、俺に背を向けた。
だが、受付嬢が慌てて声をかける。
「ま、待ってくださいアリシアさん! この方は、その……たぶん、強力な魔法の使い手です! さっき、無からあの靴下を……」
「靴下じゃなあああい! ニーハイソックスだ!」
俺の訂正は無視された。人手は一人でも多い方がいい。
ギルドマスターらしき髭面の男の鶴の一声で、俺の同行は半ば強制的に決まった。
アリシアは納得いかない顔で唇を噛んでいたが、緊急事態では逆らえないようだった。
◇
森の中を、俺たちは駆けていた。
先頭を行くアリシアは、俺のことなど存在しないかのように、一言も口を開かない。
俺と彼女の間には、物理的な距離以上に、心の万里の長城がそびえ立っているのを感じる。
やがて、木々の向こうから、人々の悲鳴と、獣の咆哮が聞こえてきた。
森を抜けた先、開拓村の入り口で、それは暴れていた。
「で……でけぇ……」
身の丈は三メートルを優に超えている。
醜く歪んだ緑色の肌は、そこらの剣など通さないほど分厚そうだ。
手には、大木を根こそぎ引っこ抜いて作ったとしか思えない、巨大なこん棒。
それが巨大オーク。その瞳は、憎悪と破壊衝動で真っ赤に染まっている。
「ひぃぃ!」
「誰か助けてくれ!」
村人たちが逃げ惑う中、アリシアは迷わず剣を抜いた。
「下がっていてください! ここは私が食い止めます!」
彼女は一人、巨大オークの前に立ちはだかる。
その小さな背中は、しかし、何よりも大きく見えた。
「はあああっ!」
アリシアが疾風のごとく駆け出し、オークの足元に鋭い斬撃を叩き込む。
金属がぶつかる甲高い音が響き、火花が散った。
だが、オークの分厚い皮膚は、彼女の剣を弾き返してしまう。
「くっ……硬い……!」
「グオオオオオオッ!」
オークが咆哮と共に、巨大なこん棒を振り下ろす。
アリシアはそれを俊敏な動きで回避し、反撃の隙をうかがう。
見事な剣技だ。だが、いかんせんパワーが違いすぎる。
じりじりと、アリシアが追い詰められていくのが分かった。
そして、ついにその瞬間が訪れる。
アリシアの剣をこん棒で弾き飛ばし、がら空きになった胴体に、オークの巨大な拳が叩き込まれた。
「きゃあっ!」
軽い悲鳴と共に、アリシアの体は木の葉のように吹き飛ばされ、地面に強く叩きつけられた。
「アリシア!」
俺は咄嗟に駆け寄る。
彼女は口の端から血を流し、苦しそうに息をしていた。
軽銀の鎧は大きくへこみ、もはや戦える状態ではない。
「このままじゃ……村の人たちが……」
「アリシア、立てるか!?」
「無理……です……。早く、あなたも、逃げて……」
オークが、倒れたアリシアにとどめを刺さんと、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
絶望的な状況。
だが、俺は諦めない。
こんな時のために、女神は俺に力を授けてくれたのだから!
俺は懐から、先ほどギルドで創造した漆黒のニーハイソックスを取り出した。
「アリシア! これを履いてくれ! これを履けば、君はきっともっと強くなる!」
「……は?」
瀕死のアリシアが、信じられないものを見る目で俺を見つめた。
「こ、この状況で……まだそんな変態的なことを……言っているのですか……?」
「変態で結構! だが、この力は本物だ! 俺を信じろ!」
「グオオオッ!」
オークが目の前まで迫り、こん棒を大きく振りかぶった。もう時間がない。
アリシアは、迫りくる死の恐怖と、俺の差し出すニーハイソックスを交互に見比べ、そして、全てを諦めたかのように、か細い声で呟いた。
「……わかりました。履きます……。でも……絶対に変な目で、見ないでください……!」
「約束する!」
俺は力強く頷くと、彼女のブーツを脱がせ、その白い脚に、そっとニーハイソックスを履かせ始めた。
(おおお……! アリシアの、なま……いや、神聖なる御御足に、俺の創造したニーハイが……!)
すべすべとした肌の感触が、指先から伝わってくる。
そして、漆黒の生地が彼女のふくらはぎを包み、太ももへと到達する。
俺がニーハイソックスを履かせ終えた、その瞬間だった。
「――!?」
アリシアの全身が、まばゆい聖なる光に包まれた。
傷だらけだった彼女の体が癒え、瞳に力が戻ってくる。
「な……なに、これ……体が、軽い……力が、みなぎって……!」
オークのこん棒が、まさに俺たちの頭上に振り下ろされる。
だが、アリシアは光の中から飛び出すと、落ちていた自分の剣を拾い、その一撃を片手で受け止めていた。
「なっ……!」
信じられない光景に、俺だけでなく、オーク自身も驚いているようだ。
「見ないでください!」
アリシアが、顔を真っ赤にして叫ぶ。
彼女の視線の先には、恍惚の表情で彼女の絶対領域を見つめている俺の姿があった。
「す、すまん! だが、あまりにも美しくて……!」
パワーアップしたアリシアは、先ほどとは比べ物にならないスピードとパワーでオークを圧倒し始めた。
だが、それでもまだ決定打に欠ける。
オークのタフネスは異常だった。
「まだ……このままじゃ、倒しきれない……!」
息を切らしながら、アリシアが呟く。
その言葉を聞いて、俺は最後の切り札を使う決意を固めた。
「アリシア!」
俺は叫ぶ。
「君の絶対領域に……その太ももに、触れさせてくれ!」
「はああああっ!?」
アリシアが、戦闘中にもかかわらず、素っ頓狂な声を上げた。
「な、何を言ってるんですか、このド変態! さっき見ないって約束したのに、今度は触るですって!?」
「違うんだ! これは俺のもう一つの能力、『絶対領域ゲート』を発動させるために必要な儀式なんだ! 君の絶対領域に触れることで、俺は強力なアイテムを取り出せる!」
「そんな都合のいい変態能力があるわけないでしょう!」
「あるんだよ! 信じてくれ!」
オークの攻撃が、再びアリシアを襲う。
彼女はそれを必死に防ぎながら、葛藤に顔を歪ませていた。
村人の命、自分の命、そして、変態に太ももを触られるという耐えがたい羞恥。
究極の選択の末、彼女は涙目で叫んだ。
「……わ、わかりました! 一瞬だけですからね! 本当に、一瞬だけですよ!」
「サンキュー、アリシア!」
俺は彼女の背後に回り込むと、深呼吸を一つ。
そして、震える右手で、ゆっくりと、彼女の右の太もも……スカートの裾と、ニーハイソックスの履き口の間に広がる、聖なる空間へと、手を伸ばした。
指先が、彼女の柔らかな肌に触れる。
「うおおおおおおおおおっ!」
俺の脳天を、経験したことのない衝撃が貫いた。
温かい! 柔らかい! そして、生命力に満ちている!
これが……これが、アリシア・ヴァルキリーの絶対領域!
この感触、この神聖さ! 俺は今、宇宙の真理に触れている!
俺の手が触れた場所を中心に、空間が金色に輝き、渦を巻き始めた。
きらめく光のゲートが、アリシアの太ももの横に出現する。
「な、なにこれ……!?」
アリシアが驚きの声を上げる。
ゲートの中から、ゆっくりと姿を現したのは、眩いばかりの光を放つ、荘厳な一振りの剣だった。
「こ、これは……神話に出てくる、聖剣エクスカリバー……!?」
俺はゲートから聖剣を引き抜くと、アリシアに手渡した。
「行け、アリシア! それを使え!」
彼女は聖剣を手に取ると、その圧倒的な力に目を見開いた。
そして、オークに向き直り、一閃。
光の斬撃が、巨大オークの胴体を真っ二つに切り裂いた。
断末魔の叫びを上げる間もなく、オークは光の粒子となって消滅していく。
戦いは、終わった。
静寂の中、アリシアは呆然と、手の中の聖剣と、オークがいた場所を見つめていた。
やがて、我に返った彼女は、自分の格好と、さっきまでの出来事を思い出し、顔を羞恥で沸騰させた。
俺は、そんな彼女に駆け寄ると、感動で震える声で言った。
「ありがとう、アリシア! 君の絶対領域は、本当に最高だった!」
俺は感極まって、涙を流していた。
純粋な感動の涙だ。
その俺の顔を見て、アリシアはありったけの声で絶叫した。
「二度と触らないでくださいっっ!!」
変態行為が世界を救い、そして、最高に嫌われた瞬間だった。