第1話:紅蓮の竜殺し、戸惑う
ったく、最近はろくな依頼もないし、剣の手入れもサボりがちだったからな
久しぶりにアッシュのじいさんのところにでも行くか。
そう思って、キサラエレブの街にある鍛冶屋の戸を叩いた。赤く染まった夕陽が石畳に長く影を落とす中、いつもの重厚な木の扉が少しだけ開いていたから、そのまま中へ足を踏み入れた。
「じいさん、いるか? 紅蓮の竜殺し様のお成……」
いつもの威勢の良い挨拶が、喉の奥で詰まった。
ガラン、と音を立てて戸が完全に開いた瞬間に飛び込んできた光景に、私の翡翠色の瞳は驚きに見開かれる。
いや、驚きなんて生易しいもんじゃない。脳味噌がぐにゃり、と歪んだような感覚。
だって、そこにいたのは、アッシュのじいさんじゃない。
若い。いや、若すぎる。
私よりはるかに背が低く、華奢な体つき。褐色の髪が柔らかな光を帯びていて、作業着の袖から覗く腕は細い。鍛冶職人にしては信じられないくらいだ。
顔を見れば、これがまた困ったことに、まるでお伽噺に出てくるような童顔じゃないか。
私が見上げてしまうような男ばかりの世界で生きてきたから、正直、その小ささには面食らった。
彼は、私が入ってきたことに全く気づいていないようだった。顔を伏せ、鈍い光を放つ刃物をじっと見つめている。火床の熱と、金属が持つ独特の匂い。そこだけはいつものアッシュの店と同じなのに、そこにいる男の姿はあまりにも違っていた。
「……あの」
気づけば、私の口から小さな声が漏れていた。
普段の私からは想像もつかない、か細い声だったと思う。
Sランク冒険者として、数々の死線を乗り越え、ドラゴンすら一人で仕留めてきた「紅蓮の竜殺し」ロレッタが、まさかこんな声を出せるなんて。自分でも驚いた。
すると、彼はびくりと肩を震わせて顔を上げた。
その瞬間、私の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。翡翠色の瞳に映ったのは、少しだけ開いた唇と、戸惑いに揺れる大きな瞳。いや、なんでそんなに驚いてるんだ、こっちが驚いてるっつーの! と、普段なら怒鳴り散らすところだ。だが、言葉が出てこない。
「あ、あの……いらっしゃいませ……」
蚊の鳴くような声だった。しかも、その声はなんだか幼く聞こえる。
29歳の私の前で、そんなか弱い声を出すな!
と、またもや心の中で毒づきかけたが、彼の瞳の奥に宿る真剣な光に、私の感情は釘付けになった。
彼は手に持っていた剣をゆっくりと作業台に置くと、所在なさげに目を泳がせる。
「あの、もし、何か、ご用でしょうか?」
「いや、私は……アッシュのじいさんに、剣の修理を頼みに来たんだが……」
ようやく、私がこの店に来た目的を口にできた。
我ながら情けない。どうした、ロレッタ。
いつもならもっとこう、胸を張って、堂々と話すだろうが。
すると、彼の顔に暗い影が落ちた。
「アッシュさんは……ひと月ほど前に、急に亡くなりまして……」
「え……?」
頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。アッシュのじいさんが? あの頑固で、いつも元気なじいさんが? まさか。
「信じられない……」
私の声は震えていた。アッシュのじいさんには、冒険者になって以来、ずっと世話になってきた。
初めて手にした鋼の剣も、竜殺しの二つ名で呼ばれるきっかけになったあの剣も、全てじいさんが鍛えてくれたものだ。まるで身内を失ったような喪失感が、胸を締め付ける。
「それで……貴様は、誰だ?」
思わず、いつもの口調に戻ってしまった。だが、彼も私の威圧感に気圧されたのか、小さく身を縮める。
「僕は、ユーイと申します。アッシュさんの知り合いで……この店を、借りて開きました」
ユーイ。
そうか、ユーイか。
名前まで可愛いじゃないか。
いや、可愛いってなんだ。
私は男に対してそんな風に思ったことなんて一度もないぞ。
「ふん。私はロレッタだ。この店の、アッシュのじいさんの昔馴染みってところだな」
私が名乗ると、ユーイの顔からさっと血の気が引いた。
その瞳が、驚きと、信じられないものを見たかのように見開かれる。
「ロ、ロレッタ……まさか、あの、紅蓮の竜殺しの……ロレッタさん、ですか……!?」
ユーイは明らかに動揺し、さらに身を縮めた。顔は真っ青になり、まるで小動物が威嚇されたかのように、全身がこわばっている。
その姿は、あまりにも予想通りで、そして、可愛かった。
普段、誰もが私を恐れ、畏敬の念を抱く中で、こんなにも露骨に怯える姿を目にするのは、どこか新鮮で、そして、どうしようもなく胸をくすぐるものがあった。
「そうだが。それがどうした」
私はユーイを見ながら敢えて素っ気なく答えたが、内心はざわついていた。
この男は、私の威名に怯えている。
それはいつものことだ。
だが、なぜだろう、今は、その怯えが、まるで幼い子供がするような仕草に見えて、私の口元が緩みそうになるのを必死で堪えた。
ユーイは、私の視線に耐えかねたように、再び伏し目がちになった。その仕草が、またなんとも言えず、私の胸の奥をざわつかせた。
「あの、もし、僕でよろしければ、剣の修理……承りますが」
消え入りそうな声で、ユーイが提案した。
「……ふむ」
私はしばし考え込んだ。アッシュのじいさん以外に、自分の剣を触らせるなんて考えたこともなかった。私の剣は、もはや体の一部であり、最高の相棒だ。それを、こんな、年端も行かないような男に預けるなんて……。
だが、ユーイは私に背を向け、作業台の上の鈍い刃物をじっと見つめていた。
その横顔は、童顔とは裏腹に、驚くほど真剣で、そして……情熱に満ちていた。火床の炎が、彼の瞳の中で揺らめいているように見えた。
その真剣な姿に、気づけば私は、無言で愛用の剣を彼に差し出していた。ユーイは戸惑いながらも、私の手から剣を受け取った。
その瞬間、彼の指先が私の指に触れた。ひんやりとした感触が、全身を駆け抜ける。
「……これは、素晴らしい剣ですね」
剣を受け取ったユーイの表情が、一瞬にして変わった。
瞳の奥に宿っていた怯えが消え、まるで宝物を見つけた子供のように、輝きを増している。彼の小さな指が、私の剣の刀身を優しくなぞる。
まるで、何よりも大切なものを慈しむかのように。
「……ふん」
私の口から、不器用な鼻息が漏れた。彼が私の剣をそんなにも大切に扱ってくれることに、なぜか、ひどく胸が温かくなった。
「この剣は、アッシュさんが打ったものですか?」
ユーイが顔を上げて、私に尋ねた。その瞳は、もはや私への怯えではなく、純粋な好奇心と、鍛冶への探究心に満ちていたように感じた。
「ああ、そうだ。私の剣は、全てアッシュのじいさんが打ってくれた」
私は、少しだけ得意げに答えた。私の言葉に、ユーイは目を輝かせた。
「やはり……。この、打跡……それに、この鋼の質。アッシュさんの……鍛冶の技が、よくわかる……。すごい……」
ユーイは、興奮したように、しかしどもりがちに、私の剣について語り始めた。
その言葉は、まるで音楽のように、私の耳に心地よく響く。
普段の口下手な彼からは想像もできないほどの饒舌さで、彼は剣の構造、素材、そしてアッシュのじいさんの技術について、たどたどしくも熱く語った。
彼の瞳は、もはや私を映しておらず、ただただ、剣と鍛冶への情熱だけが宿っていた。
その姿を見た時、私の心は、わけのわからない感情でいっぱいになった。
これまで一度も感じたことのない、胸の高鳴り。全身を駆け巡る熱い血潮。
そして、このどうしようもないくらいの戸惑いと、切なさ。
これが何なのか、私にはさっぱりわからない。
ただ、確かなのは、この男から目が離せないということ。
そして、この胸のドキドキが止まらないということだ。
「この剣をぜひ僕に修理させてください。かなり傷みが激しいので、修理には三日ほどかかります。その間、もしよろしければ、僕の予備の剣をお貸します」
ユーイは、剣を検分し終えると、恐る恐る私に提案した。予備の剣。この私が、他人の剣など使うものか。普段なら即座に断るところだ。しかし、彼の気遣いが、なぜか私の胸をくすぐった。
「……ふん。ならば、借りてやる。あまり、変な剣を寄越すなよ」
私は、不器用ながらも、彼の申し出を受けた。彼の顔に、安堵と、かすかな喜びの色が浮かんだのが見えた。
「もちろんです! ロレッタさんの邪魔にならないよう、僕が手入れした中では一番良いものですから!」
ユーイは、そう言って、奥からシンプルな片手剣を持ってきてくれた。彼の言った通り、刃こぼれ一つなく、しっかりと手入れがされている。私の愛剣ほどではないが、並の剣よりははるかに質が良いだろう。
私の心は、混乱と、そして、どうしようもないほどの高揚に満ちていた。
剣の修理どころじゃない。
私の人生の、とんでもない修理が、今、始まったのかもしれない。
ユーイはまだ、私の剣を愛おしそうに見つめながら、アッシュのじいさんの鍛冶の技について語っている。
私の耳には、彼の言葉がほとんど入ってこない。ただ、彼を見つめることしかできない。
こんなにも、一人の男が、気になるなんて。
私は、このわけのわからない気持ちに、どう立ち向かえばいいのだろうか。