第1章:色褪せた日常とノイズ混じりの空
「……また同じ一日が始まる。シナリオ通りの退屈な舞台。俺の役どころは、背景に溶け込むモブAってところか」
気怠いチャイムの音が、コンクリート打ちっぱなしの教室に虚しく反響する。
窓の外では、五月にしては強すぎる日差しがアスファルトを焼いていて、逃げ水が蜃気楼みたいに揺らめいていた。
そんな、どこにでもある、ありふれた日常の一コマ。
俺、成瀬蓮、十七歳、しがない高校二年生。
今日も今日とてこの退屈な世界の片隅で、息をしているだけの存在だ。
ペンを回す教師の抑揚のない声が、まるで遠い国の催眠術のように鼓膜を撫でる。
内容は、確か……なんだっけな、古典だったか?
ぶっちゃけどうでもいい。
教科書に並ぶ黒い文字の羅列は、俺にとっては解読不能な古代の呪文と大差ない。
そんなものより、窓の外を流れていく雲の形を追っている方が、よっぽど生産的な時間の使い方ってもんだろう。
ちらりと周囲を見渡せば、クラスメイトたちはそれぞれの役割を忠実に演じている。
熱心にノートを取る優等生、こっそりスマホをいじるチャラ男グループ、化粧直しに余念のない女子連中。
ああ、平和だ。
平和すぎて、欠伸が出る。
この、予定調和の世界で、俺だけが取り残されているような、そんな疎外感。
別に、それが嫌だってわけでもないんだけどな。
むしろ、面倒がなくて好都合だ。
昼休み。
喧騒から逃れるように、俺はいつもの場所へと向かう。
人気の少ない、屋上へ続く階段の踊り場。
カバンから取り出したのは、朝コンビニで買った焼きそばパン。
安っぽいソースの匂いが鼻腔をくすぐる。
行儀悪くパンを頬張りながら、ぼんやりと目の前の、固く閉ざされた屋上の扉を見上げる。
鉄製のそれは、まるで俺の心みたいに、錆びついて、もう何年も開かれたことがないんじゃないかってくらい、頑なな雰囲気を醸し出していた。
不意に、脳裏をノイズ混じりの映像がよぎる。
降りしきる雨、サイレンの音、誰かの悲鳴、そして――何もできなかった、ちっぽけな俺の姿。
「……馬鹿馬鹿しい。今更何を思い出したって、何も変わりゃしねえよ」
吐き捨てるように呟き、パンの最後の一口を無理やり飲み込む。
喉の奥が、妙に乾いていた。こんな感傷に浸っている暇があるなら、次の授業の睡眠計画でも立てていた方がマシだ。
立ち上がり、伸びをする。
踊り場の小さな窓から差し込む光が、埃っぽく宙を舞っていた。
ふと、その窓の外の空に、視線が吸い寄せられる。
真っ青な、どこまでも広がる五月の空。
その一点に、ほんの一瞬、銀色の線が走ったような、あるいはテレビの砂嵐みたいな細かいノイズが一瞬だけ混じったような……そんな気がした。
目を凝らす。
だが、そこにはいつも通りの、退屈な青空が広がっているだけだ。
「……気のせい、か。寝不足で目でもイカれたかな」
俺は小さく首を振り、階段を下り始めた。
これから始まる午後の授業も、きっと代わり映えのしない、退屈な時間の繰り返しだろう。
そう、この時はまだ、本気でそう思っていたんだ。
この数時間後には、このくだらない日常が、木っ端微塵に吹き飛ぶことになるなんて、欠片も想像せずに。
◇
「……さて、帰るか」
終わりのチャイムが鳴り、教師が教室から出ていくのとほぼ同時に、俺はカバンを掴んで席を立つ。
この退屈な箱から一刻も早く脱出して、家のベッドで惰眠を貪る。
それが今日の、そしてここ最近の俺のささやかな目標だ。
他のクラスメイトたちが部活だの、カラオケだの、色めき立っているのを横目に、俺はさっさと教室のドアに手を――。
ピリリリリリリッ! ピリリリリリリッ!
けたたましいアラーム音が、一斉に教室中に鳴り響いた。
なんだ? 火災報知器か?
いや、違う。
この音は……全員のスマホからだ。
俺も慌てて自分のスマホをポケットから取り出すと、画面には見慣れない、真っ赤な背景に黒いゴシック体で表示されたカウントダウンが映し出されていた。
【00:00:59】
【00:00:58】
【00:00:57】
「な、なんだこれ!? ウイルスか!?」
「おい、勝手に画面が……!」
クラス中が騒然となる。
誰かのイタズラか?
いや、にしては規模がデカすぎる。
教師が慌てて何事かと叫んでいるが、それどころじゃない。
ズキンッ!
その時、強烈な頭痛が俺の脳天を直撃した。
まるで頭蓋骨の内側から、太い針でぐりぐりと抉られるような鋭い痛み。
「ぐ……っ!?」
思わず額を押さえて膝から崩れ落ちそうになるのを、なんとか机に手をついてこらえる。
周りを見渡せば、俺と同じように頭痛を訴えたり、急な発熱で顔を真っ赤にしたりしている生徒が何人もいた。
おいおい、マジかよ。
集団食中毒か何かか?
いや、それにしてはこのスマホのカウントダウンはなんだ?
【00:00:03】
【00:00:02】
【00:00:01】
そして――。
【00:00:00】
世界が、真っ暗になった。
いや、正確には、視界が、だ。
まるで停電みたいに、一瞬にして全ての光が失われる。
平衡感覚がおかしくなり、俺は今度こそ床に手をついた。
数十秒だったか、それとも数分だったか。
やがて、ゆっくりと視界に色が戻り始める。
だが、そこには、さっきまでとは決定的に違う光景が広がっていた。
「な……んだ、これ……?」
目の前に、半透明のウィンドウが表示されている。
まるでSF映画か、VRゲームのHUDみたいに。
そこには、無機質なフォントでこう書かれていた。
【成瀬 蓮】
【Lv.1】
【HP:100/100】
【MP:50/50】
【状態:勇者ウイルス感染(初期)】
は? 勇者? ウイルス? なんだその厨二病全開の設定は。
「きゃあああああっ!」
「なんなのよこれー!?」
教室のあちこちから、悲鳴と混乱の声が上がる。
誰もが、俺と同じように目の前に浮かぶ謎のウィンドウに戸惑い、恐怖していた。
俺も自分の頬をつねってみる。
痛い。夢じゃない。
再び、ズキン、と頭痛が走る。
今度はさっきよりも強烈だ。
同時に、視界のウィンドウに新たな文字が明滅し始める。
【スキルツリー解放】
【ユニークスキル:禁断レベルMAX】
【アクティブスキル:《魂喰らい(ソウルイーター)》Lv.1】
【パッシブスキル:???】
【パッシブスキル:???】
「禁断レベルMAX……魂喰らい……?」
なんだよ、それ。
冗談きついぜ、マジで。
身体が内側から燃えるように熱い。
立っているのもやっとだ。
廊下からは、雪崩を打ったように逃げ出す生徒たちの怒号と悲鳴、そして何かがぶつかったり壊れたりするような物騒な音が絶え間なく聞こえてくる。
教師の制止する声も、パニックに飲まれてほとんど意味をなしていない。
窓の外に目をやれば、街全体が異常事態に陥っているのが見て取れた。
鳴り響くクラクション、立ち上る黒煙、遠くから聞こえるサイレンの音。
それはまるで、出来の悪い終末映画のワンシーンだ。
「……おいおい、マジかよ……」
こんな非現実的な状況で、ただ一人、冷静にスマホの画面を睨みつけ、何かを高速で打ち込んでいる女子生徒の姿が、人混みの向こうにチラリと見えた。
あれは……確か、同じクラスの朝霧玲奈。
学年トップの才媛で、クールビューティーなんて呼ばれてるやつだ。
彼女の視界にも、同じものが見えているはず。
なのに、あの落ち着き払った態度はなんだ?
まるで、この状況を予測していた、とでも言うような……。
俺がそんなことを考えている間にも、事態は刻一刻と悪化していく。
もはや学校全体がパニックのるつぼだ。
このままここにいても危険なだけだ。
俺は壁に手をつきながら、ふらつく足取りで教室のドアへと向かう。
「……っ!」
校門の近くで、信じられない光景が目に飛び込んできた。
一人の男子生徒が、別の生徒に馬乗りになって、獣のように唸りながら何度も殴りつけている。
殴られている方はぐったりとして、もう抵抗する様子もない。
だが、異常なのは殴っている方だ。
目が、血のように真っ赤に充血し、口からは涎を垂らし、人間とは思えない甲高い奇声を発している。
その姿は、まるで……狂犬だ。
「あれは……人間、なのか?」
背筋を、猛烈な悪寒が駆け抜ける。
そして、俺自身の身体にも、確かな異変が起こり始めていた。
さっきから続く高熱と頭痛に加えて、首筋のあたりが、まるで焼印でも押されたかのように、ズキズキと疼き始めている。
これは、間違いなく、悪夢の始まりだった。