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冬の雨  作者: 早能 せい
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冬の雨

 1章 冬の雨

 今でも血まみれになったスニーカーが、胸の真ん中に転がっている。

 救急車の赤色灯と、人混みを蹴散らそうとする大きな声。何度耳を塞いでも、鼓膜に跳ね返ってくるあの日の音は、繰り返し繰り返し、頭の中に響いてくる。


 肌寒い春の夜風が、優の背中を通り過ぎていく。信号待ちの間に、冷たくなった鼻の上で、両手に息を吹きかける。  

 今日は恋人の隆一の誕生日。

 急に会議が入り、帰りが遅くなってしまったけれど、部屋で待つ隆一の元へ、1分でも早くたどり着くために、高山優(たかやまゆう)は帰りを急いでいた。     

 隆一のアパートまであと少しの所で、優の携帯がなる。 課長からだ。

「もしもし。高山です。」

「今、どこにいるんだ? 明日の会議の資料、戻ってきて準備をしなさい。」

「資料なら、先ほど齋藤さんに渡しましたけど。データが必要なら、すぐに送信します。」

 優はそう言って、腕時計を見た。

「齋藤くんはもう帰っていないんだ。とにかく、早急に確認したい部分があるから、今すぐ会社に戻ってきなさい!」 

 電話の向こうの課長がイライラしているのがわかる。帰る直前に会った時は、あんなにも機嫌が良かったはずなのに。

「わかりました。」

 優は電話を握りながら白目をむいた。何よそれ! 今すぐに面と向かって話さなきゃならない事? 頭の中で浮かんだ言葉を、目をつぶって飲み込んだ。

「何分でこれる?」

 課長はそう言った。

「30分くらいです。」

「そんなに待つのか、まあいい。なるべく早く来てくれ。」  

 優は今来た道を戻っていく。 隆一に電話をし、会社でトラブルがあったから1時間くらい遅れると伝えた。

「仕方ないね。」

 隆一はそう言うと、

「コンビニで飲み物を買ってくる。」

 と電話を切った。  


 会社に着くと、課長は優のデスクに座り、資料ってこれだね、と優に見せた。

「そうです。良かった、見つかったんですね。」   

 優は課長の持っている資料に手を伸ばそうとした。

「高山くん。」  

 課長はそう言って資料を床に落とすと、優に拾えと合図をした。

  「えっ、あっ、すみません。」

 優は慌てて床に落ちた資料を拾って集めると、

「明日、人事異動の会議があるんだ。君は前から、総務部を希望していたね。俺の力があれば話しを通してやってもいい。」

  課長はそう言って、資料を集めて立ち上がった優の髪を撫でた。

「あの、」

 今度は戸惑っている優の首すじを触る。

「私は何も希望していません!」

 優はどんどん自分に近づいてくる課長から離れた。

「今日は彼氏の誕生日なんだってね。高山くんはこれから彼氏に抱かれるのかい? 君はキレイだから、彼氏が羨ましいよ。」

 課長は優を引き寄せた。

「すみません、帰ります。」

  優は資料を机の上に置くと、課長の腕を振り切った。

「黙って言う通りにすればいいだろう。馬鹿な女だな。」

 課長は優の肩を掴もうとしたが、ちょうど外勤から帰ってきた別の社員が、その様子を見ていた。

「優、まだ残ってたの?」

 彼女とすれ違いざまに、

「ごめん、急いでいるから。」

 優はそう言って玄関に向かった。


 駅まで向かう途中、優は髪をぐしゃぐしゃにし、課長が髪を触った感触を忘れようと必死だった。

 一刻も早く、隆一の元へ行きたい。

 地下鉄へ続く階段を急いで駆け下りると、生ぬるい人工の風が、優の肩を通り過ぎる。     

 明日、会社クビになるかも。もうクビになったっていい。  

 悔しくて涙が出る。隆一に電話し、今地下鉄に乗ったと伝えた。隆一は近くのコンビニまで来ていたから、このまま駅まで迎えにいくと言った。いつもと変わらない隆一の声に、優は涙が止まらなくなった。

「泣きたいのはこっち。」

  隆一が言う。

「せっかくの誕生日なのに、ごめんなさい。」

 優は鼻をすすると、涙を手で拭いた。

「そう思うならもっと走ってよ。なんで泣いてるのか知らないけど、1秒でも早くこっちにきて。ほら、ちゃんと走って。」

 隆一が電話の向こうで、優しく笑っているのがわかる。

  優は今来た電車に飛び乗った。

 待ってて、早く会いたい。


 電車から降りて駅の改札を通ると、外には救急車とパトカーが止まっていた。隆一はどこで持っているのか探していると、見慣れたスニーカーが道路に落ちていた。

 

 まさか、

 

 そう言って人集りの中をかき分け、優が見た光景は、血まみれになった隆一が、救急隊員に心臓マッサージされている姿だった。


「隆一!!!」  


 それからの事はまったく覚えていない。

 

 気がつくと、隆一がくれたピアノの楽譜に、涙がポロポロと落ちていた。

 隆一は本当に亡くなったのだろうか。

 隆一の家族とは、何かを話したのだろうか。あれから何を食べ、いつ眠り、いつ目覚めたのかも、まるで黒塗りされた資料の様に、思い出してはいけない記憶になっていた。

 時々、課長が自分の髪を触った感覚が蘇ってくると、優は頭をぐしゃぐしゃにして泣き崩れた。髪の毛を引きちぎろうとする度に、誰かがその手を、そっと握ってくれた。 


 隆一、どれだけ泣いても涙が溢れてくるよ。

 全部、私のせいだよね。

 あの日、駅に着くのがもう少し早ければ、今でも隆一の変わらない笑顔が隣りにあったはず。

 ねえ、隆一。

 私の髪を引きちぎってよ。全部、引きちぎって、それでも足りない?

 もう、何もかもいらないよ。

 私も早くそっちへ行きたい。

  

 優は自分の髪を、力一杯両手で握ると、バリバリという音とともに、無数の髪を抜いた。頭から血が流れる。

 やっと、何もなくなる。あの気持ち悪い感触も、忘れてしまいたいあの夜の事も。

  優は抜いた髪の毛で顔を覆った。

 血の匂いがする。隆一が流した血は、こんなもんじゃなかったよね。

「おい、何やってるんだ!!」

 兄の潤が優の手を掴んだ。

「やめろ!」


 どれぐらい眠っていたのだろう。

 目が覚めると、汚れた天井と目が合った。

 何も聞こえない。

 私は死んだのかな? 

 優は自分の手を、目の前に出して指を数えた。

 人差し指、中指、小指、親指、薬指……。

 自分の着ている服が、病衣に変わっていた。  

 私、病院にいるんだ。  

 潤が優の手を掴んで顔を覗き込む。

 ベッドの近くでは、母が泣いていた。  


 優は声を出そうとしたが言葉にならない。

 耳が聞こえなくなってる、潤はノートにそう書いて、それを優に見せた。

 優は自分の両耳を両手で塞いだ。何度も耳に手を当てても、空気の音すらわからない。

 悔しくて泣きそうになったが、優は汚れた天井を、ふと見て思った。

 隆一がいなくなり、誰かと話すことも、誰かの声を聞くことも、もうたくさんだと思うと、聞こえない世界にいたほうが、案外都合がいいのかもしれない。それに、耳が聞こえなくなった事は、自分という存在が、消えかけているようで、少しホッとした気持ちにさえなる。

 優が視線を床に落とすと、父の義之が優にノートを見せた。

 これから北海道で暮らす、ここから離れよう。義之はそう書いて優の目の前に置いた。  

 優は首を振り、ノートを床に捨てた。  

 耳を塞ぐ優を、母のより子が抱きしめる。

「辛いね。」

 より子はそう言って背中をさするけれど、その言葉は優には届かない。  

 潤が床に落ちたノートを拾い、義之からペンを奪って、文字を書き始めた。

 知り合いの牧場に頼んだから、そこでお世話になるんだ、その横に馬の絵を描いて、優に見せる。  

 優は首を振った。  

 北海道はこことは違う、きっと忘れていくから、義之はそう書いて優に見せた。

 優は母に抱きついたまま、泣き続けた。


 病院から退院すると、父は、”あかべい“という絵本を、優の部屋に置いていった。

 この本をどこで手に入れたのかわからないけど、自分はどうしても北海道に行かなくてはならないのかと思うと、家族までもが、耳の聞こえなくなった自分を厄介者扱いしていると思い、優は悲しくなった。  


 "あかべい“というその絵本は、はじめはパラパラとめくってみるだけだったが、優はその絵本を何度も何度も読み返すようになっていた。  

 力持ちで優しいあかべいという馬は、厳しい北海道の開拓で家族と一緒に働いてきた。機械化の時代になり、あかべいが家族の元を去っていくという話しは、何度読んでも理不尽な気持ちでいっぱいになった。

 優はあかべいの優しい瞳と、自分の帰りを待っていた隆一と重ねていた。    

 父は北海道の事を知らせたくて、この本を自分に渡したのかもしれないけれど、あかべいを捨てた時代も、隆一を殺してしまったような自分も、信じているものを裏切った、同じ罪人だと思うと優は悲しくなった。

 神様って本当にいじわるだ。

 満ち足りてる時の優越感よりも、なくした時の後悔のほうが、何百倍にもなって襲ってくる。

 一瞬だけの光を見せて、すぐに深い谷に落としてしまうなら、最初から光りなんか見せなければ良かったのに。  

 優は布団を被って涙をすすった。

 どれだけ泣いても泣いても、涙は枯れる事はないんだね。体のどこに、こんなにたくさんの涙を貯めておく場所があるんだろう。


 優に北海道へ行く事を勧めた兄の高山潤(たかやまじゅん)は、中央競馬で働いていた。

 運動がずば抜けてできたので、小さな頃から騎手になりたいと言っていたが、中学になると身長が急に伸びて、騎手を諦めた。 それでも、馬が好きだった潤は、有名な調教師のもとで、厩務員兼調教助手として働いている。  

 父はよく、なかなか万人にはできない仕事に就いたと、優に潤の事を自慢していたが、競馬には興味がない優にとっては、背が高く運動神経がいいのなら、それを活かして別の道に進む事もできたのに、いつもそう思っていた。

 優が北海道に行く事を勧めたのは、潤がお世話になっている伊藤調教師だった。 知り合いの牧場が人手不足で困っているので、リハビリのつもりで、妹をその牧場に預けてみないかと、潤に話しをした。人と会話することが難しくても、馬ならきっとわかり合えるはずだと、伊藤は潤に言った。    

 北海道に向う前の日、伊藤先生からの手紙だと、潤は優に水色の封筒を渡した。  


 優さんへ  

 

 高山君はいつもあなたの事を、よく笑い、よくおしゃべりする妹だと話していました。  

 この度は、とても辛くて悲しい出来事があったのでしょう。  

 僕は最近、塞ぎ込む事が増えた高山君に、馬は言葉は話せなくても、心が読める賢い動物だと伝えました。

 無理に話さなくても、無理に笑わなくても、みんなお見通しなんだと伝えました。

 競走馬というのは、人の力がなくては生きる事ができません。

 金儲けと道具だと揶揄する人もいますが、多くの人の心に一瞬を刻む事ができる素晴らしい仲間だと、僕は思います。    

 あなたがこれからお世話になる所は、夫婦2人が経営している小さな牧場です。

 廃業する予定であった夫婦に、あなたの事を話し、もう少しだけ牧場を続けてほしいと頼みました。

 あなたが僕の所へ、素敵な仲間を送ってくれる日を待っています。                                

             伊藤謙(いとうけん)  


 優はその手紙をあかべいの本に挟み、旅立つ前に、隆一にお別れがしたいと、父に頼んだ。


 両親と優は、隆一の家に向かった。

 

 義之が玄関先で、隆一の母と何かを話していたようだが、優が持ってきた花も受け取ってもらえず、そのまま車に戻るように、優を振り向かせた。  

 優は振り返り、隆一の母と姉に頭を下げた。

 父は優の肩を強く掴んで、車まで連れて行った。

 車に乗り込む直前で、優は持っていた花を玄関の前に置き、隆一のいない家のドアに頭を下げた。  


 2章 仔馬の誕生

 北海道までは、潤が一緒だった。伊藤調教師が自分の代わりに御夫婦に挨拶して来るよう、潤を付き添わせたのだ。  

 新千歳空港に着き、そこからレンタカーを借りて、新冠町という所まで向かった。  


 どこまでもどこまでもまっすぐな広い道。

 空も土も、新鮮でまるで冷蔵庫の中にいるようだ。  

 優は車の窓をあけ、冷たい空気を深く吸った。

 吐き出した息も、冷たいままで澄んでいる。

 潤が優の肩を叩き、寒いと身震いする仕草を見せたが、優は窓を閉めなかった。  


 3月の北海道は、ところどころ、土が混じった雪が残っていた。吐き出した息がまだ白くなる。  

 潤はもう一度優の肩を叩き、窓を閉めるように、窓を指した指を上に向けた。  


 新冠町にたどり着くと、松本牧場という看板があった。先が霞んで見えないくらい広い緑のジュータンが敷かれた上には、数頭の馬が草を食べていた。

 

「ごめんください。」


 潤が呼んでも返事がない。


「ごめんください。」  

 

 もう一度呼んでも返事がないので、裏の厩舎の方をまわってみると、


「あー、もしかして伊藤さんとこの人? 今、ちょうど仔馬が生まれそうで、ごめんね、家開いてるから入って休んでて。」    

 日に焼けて真っ黒顔の男性が、家の方を指さし、厩舎の中に走っていった。


 潤は荷物を厩舎の入口に置くと、人が集まっている方へ走って行った。優もとりあえず、潤の後をついて行く。   

 一頭の馬の前には、獣医らしき人が来ていて、さっきの男性と話し、何度も首をかしげ、腕を組んでいた。  


 聞こえない優にも、大変な事態が起きていることを感じた。

 どれくらい時間が経ったのか、母馬が暴れ、皆が一斉に離れると、細くて小さな足と仔馬の顔が出てくた。

 白い袋のようなものに包まれているので、優はまるでプレゼントが出てきたようだと思った。

 ようやく、後ろの足が出てきた時、母馬はその場には倒れ動かなくなった。  

 若い男性と、さっきの日に焼けた男性が、産まれた仔馬の体を一生懸命にタオルで拭いていた。隣りでは動かなくなった母馬にすがり、女性が泣いている。  

 仔馬を拭いていた若い男性は、潤に何かを話していた。男性が話し終えると、潤も仔馬をタオルで拭き、今度は仔馬に何か話しているようだ。  

 仔馬の首が持ち上がり、必死で立とうと踏ん張り始める。何度かよろけているうちに、仔馬はしっかりと立ち上がり、動かなくなった母馬に寄っていった。

 泣いていた女性が、仔馬の頭を撫でる。  


 家に入ると、潤はあらためて、この牧場のご夫婦と、さっき仔馬を拭いていた若い男性に、頭を下げて挨拶をした。優も同じように、3人に頭を下げた。

 泣いていた女性が、潤の持っているノートに、

<これからよろしく>

  そう書いて優に見せる。

 優はもう一度、女性に頭を下げた。  

 女性は優が自分で髪の毛を抜いてかさぶたになっている頭を、優しく触った。  

 あの晩、課長が自分の髪を撫でた事を思い出し、とっさに女性の手から体を引いた。

<ごめんなさい。少し気になって。痛くはないの?  >    

 女性はそう書いて優に見せた。

 優は首を振った。

 日に焼けた顔の男性は、女性を指さし、松本優子(まつもとゆうこ)、自分を指さし、松本辰夫(まつもとたつお)、タオルの男性を指さし、従業員の高田稜(たかだりょう)とゆっくり口を動かして紹介した。

 優は自分の耳を指し、首を振る。  

「そうだったな、すまない。」

 男性はノートに3人の名前を書いて、それぞれを指さした。そして続けて、

<大丈夫だ。>

 そう大きく書いた。

 優は気になっていた母馬の事が知りたくなり、

<さっきのお母さん馬は? > 

  ノート書いて男性に

<仔馬はあなたが世話をしなさい。>

 そう書いて優に見せた。

 優が不安そうな顔をすると、

「稜が教えてくれるから、そう伝えてほしい。」

 辰夫は潤に頼んだ。  

 2人が何かを言っているか優にはわからず、潤の顔を覗き込んだ。

<大丈夫、稜さんが教えてくれるから。>

 潤はそう書いて、稜の方を指さした。  


 稜は黙って居間にあるピアノを見ている。

「稜、馬の世話どころか、草も水も触った事のない人だ。一から教えてやりなさい。」  

 辰夫が稜に言った。

「わかりました。だけど、俺はそんなに気を使えない人間なんで……。」

 稜は辰夫にそう言うと、潤の前にきて、

「俺もこちらの親父さんと奥さんには言い尽くせない恩があります。事情があって素人の妹さんがここに来ることになったのは聞きましたが、ひとつの判断が危険な事に繋がるこの仕事は、はっきり言って、そちらの事情は関係ありません。一度手をつけた事は、逃げるなんて許されないし、泣いてる隙なんか一つもないです。お兄さんも同じ商売やってるからわかると思います。それでも妹さんは、ここで暮らしていこうと思ってるんですか?」   

 稜は潤の目をまっすぐ見ている。

「稜くん、そんな事言わなくても、これからみんなで仲良くやっていきましょうよ。優さんだって、今はまだ気持ちが整理つかない状態でしょうけれど、きっといい仲間になってくれるはずよ。」  

 優子はそう言って優の手を握り、優に大丈夫と言って笑った。  

 どんな話しがされているのか、優にはわからなかったが、稜という人が、自分をよく思っていないという事は感じていた。  

  

 潤は明日、朝早い飛行機に乗るからと、これから千歳へ向かう事を辰夫に伝えた。

<頑張れよ。>

 優にそう書いたノートを渡し、松本夫婦に頭を下げている。潤は最後に稜に何かを話してから、車に乗って、優に手を振った。  


 とうとう、本当に1人になった。

  優は潤の車が消えて行くのを見ながら、冷たいが吹く中、1人、外に立ち尽くしていた。  


 3章 干し草

 潤が帰った後、稜がこっちと手招きをした。優が案内されたのは、松本家の離れにある部屋だった。

 凌は壁に張ってある、スケジュール表を指さした。

 今度は床に置いてある、作業着を手に取ると、優に渡した。

 外で待ってると合図された優は、頷いて服を着替え始める。 女性用のつなぎだったが、使い古されたものだった。優子さんのものだったのかと思ったが、小柄な優子さんのサイズではなかった。    


 厩舎の前で待っていた稜は、優がくるのを確認したあと、草を食べている馬に向かって歩き始める。

 優は遅れを取らないように走り出すと、稜は急に振り返って、怒った様に何かを優に言っている。  

 優が稜の口元を見ると、走るな、そう言っているように感じてたので、頷いて、凌の後ろをゆっくり歩き始めた。   

 牧場につくと、1頭の仔馬の手綱を優に握らせた。草を喰んでいた仔馬は、素直に優の横に体並べる。稜はその仔馬の母馬らしい大きな馬の手綱を持つと、ついてくるように優に合図した。優は母馬の手綱をもつ凌の後を、自分と同じ背丈の仔馬の手綱を引きながら、ゆっくりと歩いていく。

 冷たい風が優の頬を通っていく。きっと草が揺れる音や、馬が草の上を歩く音が、聞こえているに違いない。 サラサラと揺れている鬣を見ると、空いている片方の手で、髪の毛の抜けた自分の頭を触った。


 次に生まれてくる時は、馬の方がいいかもしれない。 

 

 10頭程の馬をすべて厩舎に戻すと、稜はこっちと手招きをし、今度は馬のエサについて説明した。  

 優は稜の肩に触れ、自分の耳を指差した。凌は何かを言っているようだが、優にはわからないので、仕方なく稜がエサを作る様子を、ただ黙って見つめていた。今度は優が作るように合図されると、わからないと首を振った。凌は目の前のあるホワイトボードを指さし、優に計量カップを持たせた。

 優が顔を近づけてホワイトボードの文字を見ると、1頭ずつ、餌の作り方が違っている。凌はもう一度、餌を作り始めた。優は壁にぶら下がるホワイトボードと凌を見比べてながら、餌を作っていく様子を、なんとか覚えようと、視線を行ったり来たりさせた。


「あんたが、聞こえなくても、俺にも馬にも関係ない。かわいそうだとか、気の毒だとか、そんな感情がほしいのなら、とっとと東京へ帰ればいい。」

 稜はそう言うと、優の顔を見た。不思議な表情を浮かべた優と目が合うと、凌は視線をそらした。

 計量カップを握る優のきれいな手を見た時、凌は優の事を自分とは違う世界にいる人だと感じた。

 節がゴツゴツした自分の手も、ガサガサに荒れていた好きだった優美の手も、ここで生きてきた紛れもない証だ。冷たい水さえ触った事のなさそうな優の手を見ていると、ここにはそう長くはいないだろうと、凌は思った。 

 優子は娘の優美(ゆみ)に、小さい頃からピアノを習わせていた。優美は傷だらけの手を見られるのが恥ずかしいと言って、中学を卒業する頃には、教室に行くのをやめた。人前で弾くのをやめても、優美は覚えている曲を、家でよく弾いていた。

 厩舎での作業中、ピアノの音が聞こえはじめると、優美が学校から帰ってきたのだと、凌は感じる。

 風と共に駆ける優美のピアノの音色は、稜の凍ったも少しずつ溶かしていった。


 稜は優にバケツを渡す。

 優は稜がやっていたようにエサを作り始めた。

 稜は優が少しでも多かったり少なかったりすると、優の手を止め、ホワイトボードを見せ、何度も確認させた。  

 優と稜の様子を見ていた辰夫が、  

「もう少し、優しくしてやれよ。」

 凌にそう言った。

「聞こえないって事で、みんなから腫れ物みたいにされてる方が気の毒ですよ。」

 凌は辰夫に言い返すと

「稜、本当は千歳に就職が決まってたのに、無理に引き止めて悪かったな。」

 そう言って辰夫は凌の顔を見た。

「俺がここにいるって決めたんですから、この人がきた事とは関係ありません。それより、優子さんのリウマチの具合はだいぶ悪いんでしょう?」

「ああ、朝は特に辛いみたいでね。医者からは、今さら本格的な治療をしたところで、せいぜい痛みが少し軽くなるだけだって言われてさ。本人はだましだましやってるみたいけど、だんだん指の変形も強くなってね。」

「こっちは、俺と辰夫さんでなんとかやっていけますし、この人に家の事をやってもらった方がいいと思いますよ。優子さんも助かると思いますし。」

 凌は優の方を見た。

「優子もそれはありがたいだろうけど、ここへ来たなら、馬の仕事もやってもらわんと。」  

  2人の会話がわからない優は、黙々とエサを作っていた。     

 稜はバケツに水を入れて運ぶよう優に伝えた。

 優は10頭いる馬の前にひとつずつ運ぶと、息を切らして、壁に寄りかかった。 ヘトヘトになっている優に、稜がまた何かを言っている。 優はもうできないと伝えようと、顔の前では手を横に振った。

 甘えるな、稜の口元がそう言っているようだった。


 優は馬がいなくなった放牧地を見つめて、夕暮れにも染まらず、どこまでも続く緑の先に、都会の灰色が見えないか探していた。    

 自分だって、好きでここに来たわけじゃないのに、優はそう思っていた。  

 稜は優の目の前に立つと、優に何かを言った。そして、松本家に向かって、1人で足早に歩いて行った。優はその後を、仕方なくついていく。  


 松本家に着くと、優子が優の姿を見て急に泣き出した。

「優美がきたかと思ったねえ。稜くん、優美が帰ってきたみたいね。」

 優の腕を掴んで泣き始めた優子を見て、

「この人と優美ちゃんは違います。」

 凌はそう言ったが、

「人が増えるって、いいものね。」  

 優子は優を抱きしめた。  


  優は居間にあるピアノを見ていた。

「優さん、ピアノ、弾けるの?」  

 優子が優にピアノを弾くジェスチャーをする。

 優は少しと、指で伝えると、優子は嬉しそうに、ピアノの前に座らせた。

 静かにピアノの蓋を開けると、鍵盤に指を置く。

 何かを引きかけたところで、優はピアノの突然、蓋を閉じた。  


 音のない世界で暮らしていくということは、こういうことなんだ。


 優は優子に、ごめんなさいと手をあわせる。

 優子は涙ぐみながら、優のきれいな手を、優しく変形したした自分の手で包みこんだ。  


 食卓に先についた隆一は、優子を呼んでいた。

 優子は稜の隣りに優を座らせると、辰夫はいただきますと、言っているのか、手を合わせた。  

 凌が優に醤油を渡す。優は小さく頭を下げると、優子は何かを言って笑った。

「あら、そんな稜くん、久しぶりに見た。」  

 優子はそう言っていた。 優には皆が何を言っているのかわからないけど、稜は少し照れているようだったと感じた。


  食事が終わると、辰夫は優にお風呂に入るようジェスチャーしたが、稜は優に台所を指さした。

 台所に行くと、優子が食器を洗っている。時々、食器を落とし、泡のついたスポンジを何度も持ち直している。優は優子の曲がった指を両手で包んだ。そしてスポンジを持ち、食器を次々に洗っていった。

「ありがとう。」  

 優子がそう言っているのがわかる。  

 優は優子を見て、小さく頷いた。  

 

 部屋に戻ってから、優は東京では見ることのできない紺色の空から、星がこぼれてこないかと、ずっと窓を見ていた。  

 聞こえないはずなのに、冷たい空気のせいで、星の光がぶつかり合う金属音が聞こえるようだった。  

 

 隆一が待っていた夜。

 課長の電話に出なければ、何もかもを失わずに済んだ。

 1人で駅に向かっていた隆一の上には、どんな星が広がっていたんだろう。  

 これから、自分は誰とも話すことはない。

 なんの音も聞こえない。

 隆一からすべてを奪った罰が当たったのだろう。  

 優は布団に入ると、背中をうずめて眠った。    


 4章 聞こえない目覚まし

「おい! 何時だと思ってる!」

 稜はぐっすり寝ている優を起こしに部屋に入ってきた。  

 そうだった、稜は優の布団を叩き、優を起こした。  

 昨日、優子が触って、優が後ずさりした頭にある傷が目に入ったけど、飛び起きた優に、凌は体を飛ばされ、尻もちをついた。

  稜はスケジュール表を指さして、枕元にある6時過ぎの時計を見せた。優は急いで布団を上げ、着替えを始めた。稜は慌てて部屋を出ていった。


「俺がいても、どうでもいいのかよ。」

 

 遅れてきた優に、辰夫は笑って、こっちこっちと手招きをする。

 辰夫は馬を部屋の外に出し、敷いてある牧草を手際よく、新しい牧草に替えていく。優はフォークのような形をした器具をうまく使えず、辰夫の数倍時間がかかったが、なんとか1部屋、キレイになった。  

 今度は稜が手招きし、ブラシを優に渡した。優は稜がやっているように、馬の体をキレイにとかす。

 両手が鬣をとかしていた時、課長の事を思い出し、優は後ずさりした。 

 稜は不思議そうに優の方を見たが、そのまま慌ただしく、馬をひいて放牧地へ向かった。  

 辰夫が優を呼びに来た。昨日生まれた仔馬に、ミルクを飲ませるように優に合図する。ミルクを作り、馬房まで運ぶと、バケツを抱えて仔馬にミルクを飲ませた。ミルクを飲み終えると、仔馬は優に甘えるようにくっついてきた。

 この子は昨日生まれたばかりだったよね。

 本当なら今頃、母馬に甘えていただろうに。

  大好きなものを失ったもの同士、なんとか生きて行くしかないんだよ。

 優はそう思って仔馬の鼻を撫でた。  

 優は辰夫の肩をつつくと、左手の親指と小指を見せ、右手で親指と小指を指した。  

 辰夫はああ、と言ったようで、親指を指さした。  

 この仔馬は男の子か、優はそう思った。  

 " アカマル " 辰夫は馬房の前に書いてある名前を指さした。      


 ひと通り作業を終えると、優は優子の待つ台所に向かった。 優子は優を見るなり、エプロンを渡した。それは優子のエプロンではなさそうで、少し使い古したものだった。  

 稜はそのエプロンを見て、一瞬、固まった。  

 ピアノといい、エプロンといい、きっとこの家には、自分と同じくらいの女性がいたのだろう。

 そっか、あの写真の女の子か。  

 台所では、優が優子の顔を覗き込む度に、切ったり、盛ったり合図をしながら、食事の支度をした。

 手が変形した優子に代わって、優はテキパキと料理をこなしていると、優子の声が明るくなる。

「なんか、楽しそうだな。」  

 辰夫が言った。

「あの人は東京で何をやっていたんですか?」  

 稜が聞いた。

「大きな会社に勤めていたらしいけど、なんでも、大切な人を交通事故で亡くして以来、耳が聞こえなくなったみたいだわ。」

「あの、頭の傷は?」

「昨日きた兄さんが言ってたけど、自分で髪の毛をむしっだらしい。 それにしても、なんだか俺も、優美が帰ってきたみたいな気持ちになって、預かった娘さんだけど、ついつい、色んな事を思い出してね。このまましばらく、ここにいてくれればいいのにな。」

 嬉しそうな辰夫に向かって、

「耳が聞こえないから、この仕事は危ないんじゃないですか?」  

 稜は言った。

「そうかもしれんけど……。今日はへこたれないで、よくついてきたと思うぞ。」

 優子は朝ご飯ができたと、2人を呼びにきた。

 優は稜の茶碗にご飯をよそおうとして、大盛りの合図をした。

 稜はそれ以上に大盛りの合図をすると、優は笑った。


 牧場の一日は、何かをゆっくり考える暇もないほどに、あっという間に過ぎていった。  

<明日の朝は遅れないように起こしてください>

 優は稜にノートを見せた。

「ちょっと、待てよ。俺は男だし、あんたの部屋には行けないよ。」  

 稜はそう言ったが、優は稜の目の前に、


<蹴飛ばしもいいから起こしてください>

 そう書いて、凌にまた見せた。

「わかった。蹴飛ばしたりしないけど、1回で起きろよ。」   

 優は、わかった、という稜の口の動きを読んで、お願いいたします、と両手を顔の前であわせた。


「なんだよ、まったく。」  

 稜はそう言うと、早く寝ろ、と腕時計を指すジェスチャーをした。


 5章 過去の窓

 優の部屋の前に立つ稜は、深呼吸をすると、入るぞ、そう言って、優が寝ている布団に近づいた。  

 

 凌が大学を卒業し、札幌の乗馬クラブで働いて2年目の暮れに、両親が経営していた牧場が倒産した。

 稜と父と親しかった辰夫は、残された馬達と共に、従業員も引き取った。体を悪くしていた両親の近くにいるため、凌は仕事をやめ、従業員として、松本家にやってきた。 辰夫の娘の優美が中学3年の頃だった。

 まもなく、凌の父は腎不全で亡くなり、後を追うように母は乳がんを患い亡くなった。稜は天涯孤独の身となったが、辰夫夫婦が家族同然の様に扱ってくれた。 


 辰夫達もまた、ひとり娘の優美を交通事故で亡くしていた。

 優美の高校の卒業式の翌日、友人と札幌まで遊びに行き、ホテルに帰る途中の横断歩道で、信号無視した車にはねられて亡くなった。  

 娘を亡くしてから、辰夫も優子も、生きる希望をなくし、少しずつ牧場を縮小し、たくさんいた従業員も、皆、別の牧場へ移っていった。  


 去年、そろそろこの牧場を閉めると、辰夫は凌に伝えた。そして最後まで残っていた稜には、ここを出て大きな育成牧場に行く事を勧めた。   

 辰夫は優美が稜を慕っていた事も、稜も優美を好きだった事も知っていた。いつまでも、もういない優美を思うより、新しい道を進んでほしい、そう願っていた。  


  稜は眠っている優を見ながら、あんたが来なければ、自分はここにはもういなかったのかと、心の中で呟いた。

 眠っている優を見てどうしていいか、わからなくなった稜は、蹴飛ばしたり起こしてください、と書いてあるノートを、優の顔に落とした。      

 顔をしかめた優は、稜が来ている事に気づき、急いで布団を上げ始めた。


 稜は優の部屋のドアを閉め、厩舎へ向かった。  

   

 昨日、覚えた仕事を事細かくノートに書いていた優は、ひとつひとつ確かめながら、仕事をしていた。

 力を仕事などしたことのない優にとって、どんな作業にも時間がかかった。 

 辰夫も稜も、黙々と作業をしている。

 優は、2人が何を話しているのか気になったが、相変わらず、大きなフォークで草を扱うのに手間取り、なかなか2人に、仕事の事を見る事ができないでいた。  


 稜がさっと馬に乗り、牧場へ向かった。

 朝日に吸い込まれるように、あっという間にその光りの中に消えていった稜を見ながら、優はこんな世界があったのかと、しばらくその後ろ姿を見ていた。  

 辰夫が優の肩を叩く。

 馬房を指さして、馬が待ってると、頭に2本の指を立てた。優はごめんなさいと頭をさげると、馬房へ走って行った。

 優の肩を掴んだ辰夫は、走ってはダメとジェスチャーをした。


 お昼を食べてから、夕方までは休憩がある。

 優は牧場の柵に腰掛け、馬が草をはむ様子を眺めていた。 

 音は聞こえなくても、風の匂いを感じた。

 草がサラサラとなる音が、優にはわかった。  

 ここは課長に呼ばれる事も、メールを見る事もない。パソコンを開く事も、給湯室で愛想笑いをする事もない。

 初めは取り残された気分でいた優も、慣れない仕事を必死で覚えていくうちに、1日を生きていく事が、こんなにも大変なのかと感じるようになっていた。

 稜は牧場を眺める優の様子を、自分の部屋の窓から眺めていた。         

 そろそろ嫌になって帰ろうとしているのか。

 凌はそう思うと、なんだか少し淋しくなった。


 6章 馬の背中

 生まれた仔馬のアカマルは、優の背を超えるほどに大きくなった。    

 稜はアカマルの背中に布を掛ける。 

 それは何? 優は凌に背中の布を指さした。   

 優の作業着をつまんだ凌の口元が「服」と言っている。     

 寒いからなのかと、優が震えてみせると、稜は自分の髪の毛を触り「伸びるから」そう言った。

 はあ、と頷いた優に、

「ほんとにわかったのか?」

 と稜は顔を覗き込む。

 優は壁に掛けてあった、馬の服を手に取り、もう一頭の馬を指さした。  

「あの馬にも着せろって事か。わかったよ。」

 凌は優から服を取ると、優が指差す馬に向かって歩いていった。

 チラッと見えた優の頭の傷が、きれいになっていて、凌は少し安心をした。   

 ここの澄んだ風に吹かれて、傷が早く治ったんだな、凌はそう感じていた。    

 

 最近は稜が起こさなくても、優は自分で起きて、厩舎にやってきた。

 フォークの使い方も少し上達し、辰夫や稜が手招きしなくても、仕事を順番を覚えていた。

 

  稜は馬の背中を指し、乗る? と優に言ってみた。

 優は首を振り、耳が聞こえないと、稜に伝える。

「都合のいい時だけ、聴こえないっていうんだな。」  

 稜が優に向かって言ったが、優は何を言われてるかわからず、稜にノートを出した。  

 稜はノートを優に押し返すと、ご飯を食べる真似をして、馬の背中を指さした。そして、優をゆっくり指さした。  

 その様子を見た辰夫が稜に何かを言っている。

「まだ、無理なんじゃないか?」

「ここで教えられる事は、みんな教えてやりたいんです。」

「だからって、厩舎の仕事をやっと覚えてきたばかりなのに。」

「この人は、いつ東京へ帰るかわからないじゃないですか。」

 凌は顔を曇らせた。

「向こうへいつ戻るかは、まだ何も決めてはいないよ。」

 辰夫が言う。

「俺はこの人が東京へ帰っても、今みたいに笑って暮らせるように、ここで教えられることは、みんな教えてやりたいんです。」

 優は辰夫と稜が真剣にしている話しは、自分の事だと感じていた。  

 

 昼ご飯を食べている時、優は優子に、

 <二人が何を話していたか教えてほしい>

 ノートに書くと、優子は稜を指さした。 優子に肩をたたかれた凌は、優の方をむいた。

 稜は時計を見せて、指を2本立てる。

 それから牧場のほうを指さして、馬に乗るジェスチャーをした。

 これから馬に乗る練習をするのだと感じた優は、自分の耳を指さして、バツを作った。  

 優子は優の作ったバツを優の頭の上で丸に作り直し、大丈夫、そう言って、稜を指さした。  


 2時。

 牧場の前で待っていた稜は、優を連れて草を食べていたアカマルのそばまで歩いた。優に何度も、歩くように声を掛ける。

 辰夫が馬はいつも走りたがっているから、人が走ると刺激され、急に走り出してしまう事があると、優に教えていた。  

 大人しく厩舎まで歩いてきたアカマルに、凌は手際よく鞍をつけると、その背中にさっと乗って見せる。今度はゆっくりと降りて、優にアカマルを乗るよう伝えた。  

 怖がっている優の足を支えて、稜は優をひょいと優をアカマルに乗せた。

 馬の背中はとてもあたたかくて、鬣が揺れていた。  

 視線が高くなり、優はびっくりして稜を見た。

 稜は優に前に向く様に伝えると、手綱を持って牧場まで歩き始める。  

 馬を止める方法、馬を歩かせる方法を、足を使って合図するんだと教えてくれた。  

 稜の言葉はわからないが、稜が伝えたい事は、はっきりとわかった。  

 様子を見ていた優子は、  

「優ちゃんも、立ち直ってくれればいいね。」  

 辰夫にそう言った。

「稜くんは、優しい子だからね。私達もどれだけあの子に助けられた事か。本当は優美と一緒になれたら、良かったんだけど、それはもう無理な話しだから。せめて好きな人ができて、当たり前に幸せになってほしいって、そればっかり。」

 優子はそのまま2人を見つめていた。  

 乗馬の練習を終えた優は、両手が持ってきたニンジンを、アカマルに食べさせる。

 ごめん、重かったね。

 優はアカマルの鼻を撫でた。


 7章 ピアノの音

 9月のある日、松本牧場に立派な車が止まった。

 馬主さんが仔馬を見に来る事があり、田舎の道には合わない外車が走っているのを、たまに見かけた。

 だいたいの馬主達は大手の牧場に行くので、松本牧場に車が止まった時、辰夫は何事かと驚いた。    


 馬主と一緒に細くて若い男性が車から降りて、優が引いているアカマルを指さしていた。  

 辰夫は稜に、アカマルと優を連れて来るのように言うと、稜は優の元へ向かった。  

 アカマルのそばにいた優は、稜には見せたことのない笑顔になっていた。  

 稜は馬主と話す辰夫を指さし、アカマルの手綱を引き始めた。  

「この馬は、いつもこの人がお世話をしてるんですか?」  

 細身の男性、騎手の浅尾脩(あさおしゅう)が、辰夫に聞く。

「浅尾くんがね、どうしてもこの馬が気になって見たいっていうんでね、もう入厩は決まっているのかね。」

 今度は馬主の丸岡(まるおか)が、辰夫に訪ねる。

「いいえ、セリもまだです。」  

 辰夫は丸岡から渡された名刺を見て、驚いた。

「あなたは、マルコの馬主さんでしたか。」

「馬主になって、15年になります。初めは馬主も、道楽で始めたと言われてましたが、やってみたらどうしてもダービーを獲りたくってね。今一番期待されている浅尾くんを連れて、牧場を回っていたわけですよ。」

 辰夫と丸岡が話している間、浅尾は優にいろいろ話しをしていたけれど、返事をしない優に、だんだんとイライラしてきた。

「その人は、耳が聞こえないんだ。」  

 稜が伝える。

「この人はここの家族? 君はこの人のお兄さんとか?」

「いいや、違うよ。俺もこの人も、ここの従業員。」

「ふ~ん。」   

 辰夫が浅尾に、

「この子のお兄さんは、伊藤先生の所で働いているんだ。伊藤先生には、いろいろとお世話になっててね。」

 そう言った。


 稜はアカマルにニンジンを食べさせると、1人厩舎へ向かった。


「オーナー、この人のお兄さんが伊藤先生の所にいるらしいですよ。」  

 浅尾は優を指さしてそう言った。  

 丸岡と浅尾は、アカマルを見ると、浅尾はアカマルにさっと飛び乗り、牧場の中を走った。

 辰夫と丸岡が何か話していたが、優はいつもと違うアカマルの姿が、とても不安になった。   

 アカマルと戻ってきた浅尾は、優に向かって微笑んだ。      

 

 夕食の時、辰夫がめずらしく、優と筆談した。  

<アカマルを売りに出す。これからは、伊藤先生の所で競走馬として育ててもらう。 >

 辰夫はノートにそう書いた。

 涙を浮かべた優に、辰夫は付け加える。

<これが牧場の仕事なんだよ。優さんが一生懸命やってれたから、アカマルはすごい人の目に止まったんだ。  >

 優は稜を見た。辰夫は続けて、

<あの人は有名な騎手で、お兄さんのこともよく知ってた。 アカマルはこれから立派になるよ。 >

 優はもう一度稜を見て、稜の手を握った。

 きれいだった優の手は、あかぎれだらけになっている。稜は何も言わず、優の手を離した。   

 皆、優の気持ちが痛いほどわかった。

 大事にしていたものが遠くへ行ってしまう事は、なかなか受け入れるのは難しい。    

 優もそれがどうしようもないことだということは、よくわかっていた。


 だけどどうして、自分の周りにある大切なものは、いつも突然別れがくるのか。


 優は辰夫の顔を見ると、小さく頷いて、台所に向かった。    

 

 その夜、優はなかなか寝付けずに、部屋の窓を開けて、夜の匂いを嗅ぐ。

 優の髪の毛が、風に揺れる。

 頭の傷はすっかり良くなっているはずなのに、生えてきた髪の毛は、自分のものではないように感じていた。


 隆一が今の自分を見たら、なんて思うだろう。  

 2人で過ごした時間が、ページをめくるように思い出となって蘇る。

 優はガサガサになった手に、優子がくれたハンドクリームを塗った。

 切れている所が少し滲みる。

 隆一ともう一度、手を繋ぎたい。

 優は布団に包まり、泣きながら眠った。  


 優がすすり泣く声が、部屋の前から聞こえた。

 凌はドアを開けようとしたが、その手を止めた。


 次の日、なかなか厩舎に来ない優を、辰夫は呼んで来るように稜に頼んだ。  

「俺だって、本当は女の部屋に入るの嫌なんですよ。」

 凌はそう言ったが、辰夫に早く行けと言われ、優の部屋の前にきた。

 夕べは自分も眠れなかった。

 久しぶりに優の部屋に入ろうとすると、今まで意識しなかった感情が湧いてくる。

 稜は大きく深呼吸をすると、寝ている優の顔を覗き込んだ。  

 大きな哀しみから逃げるように言葉を失った彼女は、知らない土地で、毎日ボロボロになるまで働いている。

 優しい言葉もなぐさめの言葉も、彼女の耳に届くことはない。このまま、消えてしまいそうな優の事を、稜は初めて意識をした。    

 稜は優の枕をそっと取った。気がついた優は、時計を見て、急いで布団をたたみ始めた。

 ぐちゃぐちゃになった優の髪を、稜は後ろからそっと撫でると、そのまま部屋を出ていった。


 久しぶりの寝坊に、辰夫は鬼の真似をした。何度も頭を下げる優に、アカマルの馬房に行くように、指をさす。  

 優は稜をちらっと見たが、稜はいつもと変わらず作業をしていた。  


 その3日後、浅尾から優に手紙がきた。


 優さんへ  

 お元気ですか?   

 あなたの事を、お兄さんから聞きました。  

 牧場の仕事はとても大変だと思います。  

 次の木曜日、そちらに迎えに行きますので、あけておいてください。                   

                  浅尾脩  


 優は優子にその手紙を見せると、自分の耳を指さして、首を振った。

 優子は優のポケットに入っているノートとペンを出して、

<浅尾さんはあなたの耳の事を知ってるよ。たまにはお化粧して、遊んでおいで、>

 そうノートに書いた。

 優子は不安そうな顔をした優の両腕をぎゅっと掴むと、ニッコリ笑った。

 

 木曜日。

 浅尾は優を迎えにきた。  

 優は浅尾に頭を下げると、助手席のドアをあけて、浅尾がどうぞと言っているのが見えた。

 優は浅尾に頭を下げると、助手席に乗り、シートベルトを締めた。

 浅尾はダッシュボードからノートを取り出し、

<これから海に行く。>

 そう書いて優に渡した。

 走り出した車の中で、優は魚の絵を描いていた。信号待ちで止まった浅尾は、優の絵にはなまるをつけた。

 浅尾は優にペンを返して、微笑みかける。

 優はカーナビを見て、目的地まであと1時間という表示を指さした。

 浅尾は人差し指を、優に向ける。

 優は1時間かかるということを理解して、うんと頷いた。   

 

 夏の終わりの北海道の海は、東京の空のように灰色だった。    

 磯の香りがする浜で、優は蝶の形の貝を見つけて浅尾に見せた。浅尾はその貝を手に取ると、優の髪に飾る仕草を見せた。

 優は不意に課長が優の髪を触ってきた事を思い出し、浅尾から離れた。驚いた浅岡は、優の顔を覗き込む。優は少し笑いながら、首を振って、ごめんなさいと顔の前で両手をあわせた。  

 浅尾は傷だらけの優の手を両手で包むと、車を指さし、優の手を繋いで車に戻った。  


<牧場の仕事は大変? >

 そう書いて優に見せる。  

<大変だけど、好きな仕事。>

 優はそう書いて、笑顔を見せた。

<騎手は大変ですか? >  

<好きな仕事だから、大変だけど、楽しい。 > 

<アカマルは、浅尾さんが乗るの?  >

<乗りたいね、すごくいい馬だよ。 > 

<アカマルはいつ東京に行くの?  >

<もうすぐ東京に引っ越しだね。今度は、伊藤先生やお兄さんや、他にもいろんな人がアカマルを育てて行くんだよ。優さんも、一度東京にきて、アカマルが走る姿をみたいだろ? >

 優は浅尾の書いた言葉に大きく頷いた。  

 優と浅尾は、ノートがなくなるほどおしゃべりをした。  

 松本牧場の近くまでくると浅尾が車を止め、ページがなくなったノートの表紙に、

<次の木曜日にまた会いたいな。>

 そう書いた。

 優は浅尾の文字の上に、はなまるをつけて微笑んだ。

 笑顔を見せた優の肩を抱き寄せ、浅尾は優にキスをした。  

 優は張りつめていた気持ちが、砕けていくのを感じる。誰か好きになる事はもうないと思ったけど、こうして、もう一度、キスをする日が来るなんて、信じられなかった。

 浅尾が優の髪を撫でた時、優は血まみれの隆一を思い出し、浅尾から離れた。

 ノートの余白に、

<ありがとう、また、>

 と書いて浅尾に見せる。

「好きだよ。」

 浅尾はそう言って軽くキスし、優を抱きしめた。  


 優ら部屋へ戻る途中、廊下で稜と会った。

 稜は優をちらっと見たが、すぐに自分の部屋に入っていった。

 

 優は部屋の床に座ると、机に置いてあるノートに、笑っている太陽と、起きろ、と書いてある稜の文字を見つけた。

 稜がノートに文字を書いていたなんて、今までぜんぜん気がつなかった。ゴツゴツとした凌の手が、こんなにもキレイな字を書くなんて。

 そういえば、ここへきた頃、稜は毎日、自分の顔にノートを落として起こしてくれた。

 優が次のページを開くと、太陽は笑って優を包んでいる絵が描いてあった。次のページには、傘をさして泣いてる太陽が描いてある。

 さっきまで浅尾と一緒にいて、あんなに楽しかったはずなのに、頭の中が稜の事でいっぱいになる。

   今日も変わらず、馬達の世話をしていた稜の事を思うと、胸が締めつけられた。  

 稜は自分の耳が聞こえなくても、いつも特別扱いせずに接してくれた。同じ時間を過ごして、稜の仕草や、稜の顔を覗きながら、たくさんの事を感じた。  

 起きろ、と書いてある稜のキレイな文字とかわいい太陽を見て、稜の不器用な優しさを感じ、優はポロポロと涙が流れてきた。


 次の木曜日。

 浅尾は優を迎えにきた。

 優子は、いってらっしゃい、と優を送り出した。  

 浮かない顔の優に、

<どうしたの? >

 浅尾はそうノートに書いた。

 優は稜の姿を探していた。今日も変わらず、馬達と話しているのだろうか。

 <なんでもない。>

  優はノートに書くと、浅尾が迎えにきた車に乗った。  

<今日は千歳まで行くからね。>

  浅尾は優にノートを見せた。  

<千歳には何があるの? >

 優が書くと、

<大きな牧場がある。>

  浅尾は優に笑顔を見せる。  


 車が走り出すと、優は窓から外ばかりを見ていた。  

 兄ときたこの道。あの時は、まだ雪が残っていたけど、今は草が生い茂っている。  

 

 千歳には松本牧場の数倍広い牧場がいくつもあった。その中でも、一番大きな牧場に、浅尾は車を止めた。

 浅尾の後をついて歩くと、幾人かの同じポロシャツを着た人達が、浅尾に声をかけてきて、浅尾はそのたびに、優の方を見て何かを言っていた。優に何かを話しかけてくる人もいたが、その度に浅尾は優の耳を指さし、耳が聞こえない事を伝えているようだった。  

 浅尾に案内された部屋に入ると、以前、辰夫を訪ねた丸岡オーナーと、牧場の社長らしき男性が、浅尾と優を迎えた。

「浅尾くん、この子は松本さんところの?」  

 男性が浅尾に尋ねる。

「そうです。丸岡社長と牧場を回っていた時、この人が引いていた馬がどうしても気になって、丸岡社長に頼みました。」   

 牧場の社長、柏代(かしわだい)は、

「オーナー、そんなにいい馬だったのかい?」

 そう丸岡に聞いた。

「線は少し細いが、いい馬だよ。浅尾くんが、どうしても、そう言うんでね。」

「血はどうなの?」

「昔、あの牧場から出た、ユキマルという馬がいただろう。秋華賞を獲った栗毛の。その子供だよ。中距離路線が、いいんじゃないかと思ってね。」

「入厩はどこに?」    

「伊藤くんの所に。この子の兄がいるらしくってね。」

 丸岡は優を指さした。

「伊藤さんの所かぁ。最近、いい馬が集まってるらしいから、それは楽しみだわ。うちは、もっといい血の馬が揃ってるんですけどね。小さな牧場の馬が、まさか浅尾くんの目に止まるとはね。」  

 浅尾達3人は、楽しそうに話しをしていたが、何を話しているかわからない優は、ただ3人の顔を時々見ながら、愛想笑いをしていた。

「浅尾くんは、馬よりもこの子が目に止まったってわけか。」  

 柏代が浅尾に聞く。

「遠くからでしたけど、優さんを見た時、キレイな人だなってそう思いました。」  

 浅尾はそう言って優を見た。

「キレイな奥さんでも、浅尾くんとは、離れて暮らす時間も多い。まして、マスコミから注目されている君の隣りにいるのは、きっと苦労すると思うけど。」 

 丸岡は続けて、

「浅尾くんなら、女優さんでも、アナウンサーでも、女性はたくさん寄ってくるだろうに。ある程度、嘘を許したり、自分も嘘をつける子じゃないと、女房は務まらんよ。 この前、一緒にご飯食べに行ったっていうあの子は、どうしたの?」

「あの子はただの友達ですよ。僕は優さんと一緒になりたいと思っています。」  

 浅尾がそう言って優に微笑むと、丸岡は優に向かって 、

「あんたは幸せものだなぁ。」  

 そう言った。優は浅尾に、みんなが何を言っているのか、顔を覗く。

<幸せものだって。>

 浅尾はそう書いて優に渡した。それを見た優は3人に向かって、また愛想笑いをした。  

 

 牧場から出たあと、浅尾と優は近くのレストランに来ていた。

<疲れた?>

 浅尾がノートに書いて優に見せると、優はゆっくり首を振った。  

 食事の途中で手を止めた優は、レストランにあるピアノをずっと見ていた。


 隆一と優の出会いは、龍一がバイトしていた楽器店で、優がピアノを弾きにきたがきっかけだった。

 ピアノに気持ちをぶつける様に弾く高校生の優に、「もう少し優しく弾いたら?」

 大学生だった隆一は話しかけた。

 優にとって、親に無理矢理習わされたピアノは、本当は大キライだった。発表会や進級テストが来るたびに憂鬱な気持ちになって、学校のピアノや、楽器店のピアノの前で、その鬱憤を晴らすように、激しいロックの曲を即興で弾いた。

 母に反抗した優は、大学に入ると同時に、ピアノをやめて、隆一からギターを教えてもらった。

 優が弾いていた家のピアノは、この10年、誰にも触れられる事なく、居間で眠っている。

 ピアノはなんにも悪くない。

 母は毎年、調律を頼み、優がピアノを弾いてくれる日を待っていた。   

 優子が優をピアノの前に座らせた時、最後の進級テストの課題曲だった、クラッシックの曲が頭の中に流れてきた。

 隆一との思い出の曲ではなく、逃げ出したかったあの頃の自分が、今もピアノの前で、鍵盤に指を乗せているような気がした。  


 優は店の人を呼び止め、

<ピアノを弾いていいですか、>

 そうノートに書いた。

 店の人は、「どうぞ。」と優を案内すると、ピアノの蓋を開けて、赤い被布をとった。    

 優は静かにピアノを弾き始めた。

 その音色は優の耳には届く事はないけれど、何度も何度も練習をした曲は、優の両手がまだ覚えていた。 

 優のピアノの近くまできた浅尾は、ガサガサになっている優の手が奏でる曲を、切ない気持ちで聞いていた。

 曲が終わると、レストランの客のあちこちから拍手が上がったが、優はそれに気づかず、席に戻った。  

 食事が終わり、優がレストランの窓を眺めていると、浅尾が、優にノートを見せる。

<ピアノ、ずっとやってたの? >

<幼稚園の時から。>

<そんな特技あったんだね。>

 優は浅尾を見て静かに笑った。  

<牧場で働くと、せっかくの手がボロボロだ。>  

 そう書いた浅尾は、優の手をとって、優しく撫でた。  

<松本さんが牧場をやめたら、一緒に東京で暮らそうよ。>  

 浅尾はノートにそう書いた。

 驚いた優の顔を見て、

<高田くんは、来年からさっきの牧場で働く事になっているんだ。彼は乗馬が上手いからね。 > 

 さらに続けて書いた。

 優はうつむいたまま、浅尾の顔を見ようとしなかった。      

 車に戻ると、浅尾は優の髪の毛を撫でた。

 優はあの日の課長の手と、隆一の血まみれになった手が、点滅する青信号のように優の目の前に浮かんできた。

 課長が電話で自分を呼び出した声と、救急車のサイレンの音が頭の中で大きく響いてきて、たまらず耳を塞いだ。

 浅尾はそんな優をどうしていいかわからず、優の体に触れる事も、声を掛けるもできなかった。  


 しばらくして、顔をあげた優は、浅尾を見て、ごめんなさいと、両手をあわせた。  

<大丈夫? > 

 浅尾はノートにそう書いて優の顔を覗いた。

<私、髪の毛、だめなんだ。>

 優は浅尾に気持ちを伝えた。

<前にもそんな事、あったね。>

<そうだった? > 

<なんとなく気になってたけど、髪の毛以外は大丈夫なの?>   

 優は首を振ると、涙が優の手にこぼれた。

 また耳を押さえて、塞ぎ込んだ優に、

<今日は少し疲れたでしょ。明日の朝、送っていくから、泊まろうか。>

 浅尾はそうノートに書いた。

 優は首を振り、

<大丈夫、ごめんなさい、帰らないと。> 

 浅尾に文字を見せる。  

 浅尾は優の頭を撫でようとした手を止めて、

<無理しなくていいからね。>

 そうノートに書いた。文字を読んで微笑んだ優を、浅尾はたまらず抱きしめた。

 優は浅尾の肩を、わかった、そう伝えるようにポンポンと叩く。浅尾は優から離れようとせず、そのまま優にキスしようと顔を近づけた。  

 優は浅尾から離れると、

<びっくりした。>

 そうノートに書いて笑ってみせた。

 浅尾は優の腕を掴み、

<帰ろうか。帰りは約束だからね。なんか飲まない?> 

 そう書いて、優に見せる。

<ちょっと待ってて。>

 浅尾は車から、レストランに向かって歩いて行った。

 優は車で浅尾を待っている間、絵本で見た"あかべい"を描いていた。  

 コーヒーを持って戻ってきた浅尾は、優の描いたあかべいを見て、

<ばん馬知ってるの? >

 そう書いた。

 優はあかべいを指さして、ばん馬と書いた浅尾の文字を指さした。  

 浅尾もばん馬の文字を指さして、2人は見つめ合った。

 帯広にばん馬のレースをする競馬場があって、優が書いた絵のように、馬がソリを挽いてレースがあると、浅尾は教えてくれた。  

< 今度、連れて行ってあげるよ。>

 浅尾がそう書くと、優の目は明るくパッと開いた。


 松本牧場に着く頃には、少し笑顔が戻った優に、浅尾は軽くキスをした。

 ノートに、

<帰りに約束。>

 そう書いてある文字を見せて、今度は優が離れないように、きつく体を抱いてキスをした。

 浅尾はこんなにも自分を大切にしてくれているのに、何を考えてるかわからない稜の事で、優の心がいっぱいになる。


 車から降りて、浅尾に手を振る優を、稜は窓から見ていた。  

 振り返った優は、稜がこっちを見ている事に気がつくと、稜の所へ走って向かった。

 稜は優が走ってくるのがわかると、窓の戸を閉めた。  

 少ししてから優が部屋のドアを何度も叩く。

 

 やっぱり、来たか。

 浅尾とのデートを見てた事、そんなに怒っているのかよ! 

 こっちだって、見たくて見てたわけじゃないこのに。

「なに!」  

 稜はドアを開けた。  

 優は稜がノートに描いた太陽を見せる。

「だから、なに?」  

<大きな牧場に行くのは本当? >

 そう大きく書いて、優は稜に問い詰める。

 あいつか、と稜は浅尾を思い浮かべると、優を指さし、左手の薬指に指輪をはめる仕草をした。

 優は稜の腕を掴むと、稜の体を押しながら、何度も何度も首を振った。どんどん押してくる優の予想以上の力に負けて、稜は倒れそうになり、前にのめりそうになった優を優しく支えた。  

 優は稜に自分の気持ちを伝えられず、落ちているノートを拾い、胸に抱きしめると、静かに部屋に戻っていった。  

   

 稜は優の体を受け止めた時の感覚が腕に残り、自分の気持ちを素直に伝えられないもどかしさに苦しんでいた。

 浅尾のように、自分も華やかな世界にいたら、優の事を、すぐにでも抱きしめてやれるのに。


 8章 渡せなかった指輪

 アカマルが東京へ出発する日、稜はポケットからニンジンを出して、怪我をするなよ、そう言って鬣をなでていた。

 優はアカマルの横に立ったまま、涙が止まらなかった。   

 馬運車へ乗り込む手前で、アカマルは優の顔に鼻を近づけた。そして、優の頭をかぶっと噛んで、馬運車に乗り込んだ。 

 頭を押さえている優に、その場にいた皆が笑った。  

 

 松本牧場には、母馬の5頭だけが残されていたが、アカマルと一緒に生まれた馬達は、それぞれセリにかけられて、牧場を出ていった。  


 母馬達は、今年は1頭も身ごもってはいない。  


 浅尾は夏競馬が終わり、札幌から東京へ戻っていった。

 

 本格的な秋競馬が始まると、浅尾がここへ来ることはなくたった。

 優に東京に来てほしいというラインが、毎日のようにきていた。     


 12月のある日。

 辰夫は稜と優に、来年の2月で牧場を閉めると伝えた。

 母馬達は、それぞれ買い手がついて、来月にもここからいなくなる。

 自分達はアカマルが売れたお金で、これからの生活は心配がなくなったし、稜には千歳の大きな牧場に来月から行く手配をつけたからと、伝えた。

  ここの厩舎の片付けは、優と自分達でやるといい、稜には来月から千歳の牧場に行くよう話しをした。  

 優には、浅尾さんと結婚して、東京に戻りなさいと、辰夫は伝えた。  

 稜は何も言わず辰夫の話しを聞いていたが、優は優子の手をとり、嫌だと首を振った。

「どうして……。これから、幸せになれっていうのに、こんな所にいたらダメよ。」  

 優子は聞こえないとわかっていても、優に諭すように言った。


「そうだ、稜。厩舎は俺だけで十分だ。優ちゃんを連れて、アカマルの新馬戦を見に行ってくればいい。」  

 辰夫は丸岡オーナーから送られてきた飛行機のチケットを稜に渡す。

「辰夫さんと優子さんで行ってくればいいじゃないですか。」   

 稜がそう言うと、

「親バカなんだよな、俺も優子も。稜、優ちゃんに立派になったアカマルを見せてやってくれ。」

 辰夫は、稜にそう言った。

 

「ごめんください。」  

 玄関で声がして、あわてて優子が出ていくと、優にお客さんだと、泣いている優を玄関に向かわせた。

   

 玄関には隆一の母と姉が立っていた。

 後から玄関にきた優子が、上がってくださいと2人に伝えると、隆一の母と姉は、それじゃあといい、居間のソファに静かに座った。  


 お茶を用意しようとして、手をすべらせた優子に代わって、優が手際よくお茶を入れた。

 辰夫と優子の湯呑み茶碗にも入れると、それぞれにお茶を配り、最後に稜にお茶を渡した。  

 

 優は隆一の母と姉に、床に頭をつけて謝った。

 顔を上げようとしない優を、隆一の姉はそっと起こした。  

 耳が聞こえないんでしたよね、隆一の母は、優子にそう言うと、優子はノートを2人の前に出した。  

 隆一の母は、ありがとうございます、手紙にしてきたので、とノートをテーブルに置き、持ってきた手紙を優に渡した。

 そして、小さな箱を、優の手に包ませた。 

 隆一の姉が手紙を読むように、両手を揃えて広げたので、優はその手紙を開けて読み始めた。


 優さん   

 隆一が事故にあった時、どんなにあなたを責めたかわかりません。どうして、私達の大切な息子が、自分の誕生日に、最後を迎えなければならなかったのかと思うと、息子を奪ったあなたが憎くてたまりませんでした。  

 骨納が終ってから、隆一の部屋を片付けに行った時、机の中からこの指輪と、優さんが楽譜の裏に描いた落書きを見つけました。

 そして、隆一を失って悲しんでるのは、優さんも同じだと気がつきました。     

 辛い思いをしている優さんを、あんなふうに追い返してしまって、申し訳なく思います。  

 だけど、あの時の私には、あなたを責めることでしか生きられなかったの、許してください。   

 あれから、あなたの家を訪ねた時、今は北海道の牧場で働いていると聞きました。あの日以来、耳が聞こえなくなって、すっかり塞ぎ込んでしまった話しも、ご両親から聞きました。   

 隆一の事は、どうか、あなたの中でいい思い出にして、優さんには優さんの、歩んでいく道を進んでください。                                           

                  真理子    


 手紙を読み終えた頃、隆一の母は、優に箱を開けるように伝えた。

 優は静かに箱を開くと、そこには婚約指輪が入っていた。

  優は箱を閉じ、隆一の母にそれを渡す。  

<私は隆一さんから、たくさんの思い出をもらいました。大切な隆一さんを奪ってしまった事は、どんなに謝っても償いきれません。>

 そうノートに書くと、優はまた頭を下げた。

<もういいの。隆一はそういう運命だったんだから。>

  真理子はノートにそう書くと、優を抱きしめた。

<ここの生活は馴れた? >

 <毎日があっという間です。>

 優はそう書いて、真理子に見せた。 あかぎれだらけで、ガサガサになった優の手を見て、真理子は言葉を失った。優子は涙ぐみながら

「冷めないうちに、どうぞ。」 

 そう言ってお茶を勧めた。  

 隆一の姉が目をやった先には、優美の写真があった。

「娘さんですか?」

「そうです。うちも、事故で娘を亡くしてね。ひょんなご縁で優ちゃんが家に来てくれた時は、娘が戻ってきたみたいで、やっと、この家に明かりが灯ったと、お父さんと喜びました。この男の子は、ここの従業員なんだけど、私達とは家族同然で、優ちゃんと一緒になってくれればいいなぁ、なんて思ったりしてますよ、バカみたいでしょう。息子さんを亡くされたそちらの気持ちも考えないで、ごめんなさいね。 さっき、優ちゃんの手を見て、私もびっくりしました。毎日、黙々と馬のお世話をして、キレイだった手が、こんなに荒れても、ここへきて、泣き言ひとつも言わかったのよ。 優ちゃんは幸せになってもらいたいわね。」

 真理子は凌の方を見た。

「あなたは、馬に乗れるの?」

「はい。」

 凌は答えた。

「優さんは、馬に乗れるの?」

「乗れますよ。」

「聞こえない優さんには、どうやって話すの?」

「普通に、」

「書いたりとか?」

「書いて話す事は、あまりありません。」

「そう。」

 真理子は凌を見て微笑んだ。

「優さんはいろんな事をすぐに覚えるの。だから忘れられなくて、辛いでしょうね。」

「奥さん、亡くなった人の代わりはいません。生まれ変わりなんて、映画の中だけでしょう。私達も、悔んだり、誰かに寄りかかってばかりじゃなくて、それを乗り越えなきゃね。自分の娘が戻ってきたみたいに思ったけど、もう、優ちゃんを開放してやらなきゃなって、そう思いました。」

 優子は2人にそう言うと、隆一の母と姉は、泣いていた。   

 <優さん、もうあなたの人生を生きて。こんなにいい人達と会えて、本当に良かったわね。 > 

 隆一の母がそう書いたノートを見ると、優の目からポロポロと涙が溢れた。

 優子は稜の方を見たが、稜はうつむいたまま動かなかった。     


 二人が去った後、優はずっと、ここにいてもいいかと、辰夫と優子に尋ねた。

<自分で決めたらいい。>

 辰夫はノートにそう書いた。明るい表情になった優を見ていた稜は、優子を見て軽く頭を下げた。


 9章 アカマル

 朝早く、羽田空港に着いた稜と優は、中山競馬場までの道を急いでいた。進んでも進んでも、人が途切れない濁った空気の中、人混みの経験があまりない稜は、正直うんざりしていた。

 優は遅れ出した稜の前まで戻ると、稜の手に優の上着の裾を握らせた。

「俺はあんたの子供か。」

 優はどんどん進んでいった。凌は優を追いかけると置いていくな、優の手を握り微笑んだ。  


 暮れの中山競馬は、人でごった返していた。

 丸岡オーナーから馬主席に招待されていたが、優はどうしても近くで見たいと 、スタンドから離れなかった。  

 稜が上の窓からみている丸岡オーナーに気づき、優に手を降るように伝えた。丸岡オーナーは双眼鏡で、稜と優を確認すると、ゆっくり右手にあげる。  

 稜は競馬新聞を優に見せると、マルコレッドと書いてある馬に赤く丸をつけた。

 

 第4レース

 12頭立ての新馬戦


  馬券を買いに、稜は席を離れる。

  優は稜が丸をつけた競馬新聞に、松本牧場、伊藤厩舎の文字を見つける。アカマルが、マルコレッドなんて名前で競争馬になったなんて、夢を見ているみたいだ。  


  戻ってきた稜が、マルコレッドと書いた馬券を優に渡す。

  稜は新聞の8番人気のところを優に教えた。

 8を手のひらに書いて、稜も優の手のひらに8を書いた。

「アカマル、そんなに人気ないのかぁ。頑張ってくれよ。」

  稜は優の手を繋ぎ、パドックへ向かった。  

  12頭の馬がゆっくり歩く中、稜は優に、あれがアカマルだと指を指して教えた。

  優が2番と書いた馬に目をやると、ピカピカになったアカマルが、兄が手綱を引かれて歩いている。

  アカマルは優の前を、悠然と通り過ぎた。  

 おもちゃの様なキレイな服を着た人達が、一列に並ぶと、一斉に馬に跨った。

  アカマルの上には浅尾が乗っていた。

 浅尾は優の知っているいつも笑っている浅尾ではなく、近寄り難い空気を放っていた。一瞬、優の方をチラッと見たように感じがしたけれど、優はすぐに、気のせいだと思い、アカマルが歩く足音を想像した。

 馬達が地下馬道へ消えていくと、稜は優の手を握り、またスタンドへと急いだ。

 ふかふかの芝の上を、馬が一頭ずつ走り出す。  

 アカマルの番がきた。

 浅尾は姿勢を低くすると、風に溶けるのようにアカマルを走らせた。

 馬が去った後に舞う芝は、まるでスローモーションのように、優の心の中に落ちてくる。

 

 ゲートが開く様子がターフビジョンに映された。

 馬が走っている様子は、映画のワンシーンのように見える。本当にこんな景色が現実にあるんだ。

 一頭一頭のゼッケンが映される中、アカマルは真ん中より後ろを走っていた。  

 稜は近づいてくる馬の足音にぞくぞくしていた。

 4コーナーを曲がり、坂を上がった所で、アカマルの顔が見えた時、

「アカマル! アカマル!」

 大声をあげた。

 アカマルは、そのまま後ろの馬に大差をつけゴールをした。

「やったぞ! アカマル、よくやったな! 優、見てみろ、アカマルが1着だよ。優!」  

 稜は優の肩を抱き寄せると、アカマルを指さした。

 優は稜の顔とアカマルを交互に見ると、自然とポロ涙が流れてきた。

「また、泣くのかよ。」

 稜は優の顔を覗き込む。  

 ゴールしたあと、ゆっくりターフを走っていたアカマルは、地下馬道の入口の前で、急に脚を止めた。

 浅尾が首を撫でたり、手綱を挽いて行くぞと、言っているようだが、アカマルはぜんぜん動かなかった。

 稜がアカマルの視線先を追うと、なんとなく優の方を見ているような感じがしたので、

「アカマルー! わかったよー!」  

 そう声をあげると、アカマルはやっと歩き出し、地下馬道へ消えていった。  

 稜は涙がこぼれた優の髪をぐちゃぐちゃにすると、そのまま自分の胸に優を包んだ。


 その様子を見ていた丸岡オーナーは、見上げた凌にこっちにくるように手招きをした。    

 馬主席に稜と優に入っていくと、丸岡オーナーから固い握手をされた。

「レッドはこれからどんどん強くなるよ。」

 オーナーは稜にそう言った。

「松本さんのところは、もう廃業するんだろう。外国馬が入ってきて、大きい牧場が小さい牧場を食っていくっていうか、確かに競馬は道楽なのかもしれないけど、地域の大切な産業だからね。淋しい限りだよ。 レッドには、そんな小さな牧場で生まれた希望の星として、とても期待しているんだよ。」

 オーナーは凌の肩を叩いた。

「オーナーには、いい名前をつけて頂いて、いい環境で可愛がられて、アカマルは本当に幸せものです。」  

 稜がそういうと、オーナーは優の方を見た。

 優はオーナーに両手をあわせると、深く頭を下げた。

「浅尾くんは、馬よりも君が気に入ったみたいだが、浅尾くんより、君のほうが、この人は幸せになれるような気がするな。」    

 オーナーは凌にそう呟くと、優の手と稜の手に重ねた。そして最後に自分の手を乗せると、

「松本さんに、よろしく伝えておきなさい。生産者は引退したかもしれないけど、これから、楽しみができたとね。レッドはいずれ、君の働く牧場に行くことになる。それまで、腕を磨いて、仕事に精進しなさい。」   

 そう言った。


 馬主席を出ると、優はもう少し競馬が見たいと、稜を誘った。稜は競馬新聞に書き込みながら、優にいろいろな事を教えた。 全部のレースが終って、中山競馬場をあとにすると、優はノートに、優の実家までの簡単な地図を書いて稜に見せる。

「斬新過ぎて、ぜんぜんわかんないわ。」  

 稜は優にそう言うと、優は稜の手を握り歩き始めた。

 電車の中で眠ろうとしている稜の顔を、ノートで軽く叩いて起こした。混んできた電車の社内で、優は稜と離れないように、凌の体に近づいた。         


 10章 小さな星

 優の家に着くと、より子と義之が2人を待っていた。

「おかえり。さあ、上がって。」

 より子は2人を食卓に案内した。

 朝からたくさんの料理を用意したより子は、優が好きたったものを一つ一つ凌に説明していた。

「母さん、もういいだろう。早く食べようよ。」

「そうね。」


 食事が終わると、今晩から明日の朝にかけては北海道が猛吹雪になると天気予報が流れた。

 凌は辰夫に電話を掛けた。

「いやぁ、凌、アカマルはすごかったなぁ。」

「辰夫さんは、雪は大丈夫ですか?」

「いつもの事さ。」

「明日の夕方にはそっちにつきますから、雪かきは程々にしてください。」

「凌、明日の汽車もバスもみんな運休だ。東京から千歳まで帰ってこれても、ここまで帰ってくるのは無理だろうな。千歳に宿をとってあるから、泊まって来なさい。」

 義之が電話を変わってほしいと凌に言った。

「松本さん、雪、大丈夫ですか?」

 義之が辰夫に話している。

「大丈夫ですよ。雪が晴れたら、ブルが入って雪かきしてくれますから。」

「そうでしたか。今日は本当におめでとうございます。すごく強い馬でしたね。」

「ありがとうございます。みんなのおかげですよ。」

「優の事も、いろいろありがとうございます。」

「優ちゃん、こっちの図書館に就職する事になってね、私達も喜んでるんですよ。優さんがいなくなると、淋しくなるなぁって話していんたけど、またここで暮してくれるって言うんで、お父さんには申し訳ないですけど、とっても嬉しいんです。」

「そうでしたか。わがままに育ててしまったから、ご迷惑掛けてんじゃないかと心配してました。」

「いえいえ、女房も優ちゃんに助けられておりますよ。お二人もこっちに一度遊びに来てください。」

「そうですね、ぜひ。」

「明日は千歳の牧場の社長が宿を取ってくれているんで、2人はそこに泊まるように言ってください。凌には、必ずお礼をするように言ってください。」

「わかりました。それじゃあ、おやすみなさい。」

「おやすみなさい。」


 凌がお風呂に入っている間、

<浅尾さんの事は? >

 より子がノートにそう書いた。

<ちゃんと断る。>

 優はそう書いた。

<すごい人なんでしょう? 潤が言ってたよ。>

<そうみたいだね。>

<本当にいいの? >

<何が?>

「ちょっと、優。」

 より子は少し呆れた。

<ピアノ弾いてもいい? >

 優はそうノートに書くとピアノの前に座った。

 お風呂から上がってきた凌は、優のピアノを初めて聞いた。

「本当に弾けたんですね。」

  凌は義之に言った。

「えっ?」

 より子はびっくりした。

「前にピアノの前に座って、少しだけ触ってやめた事があるんです。」

「母さんと優のケンカは、すごかったからな。俺はピアノのほうが2人から逃げ出したと思っていたよ。」

 義之は笑った。

「失礼ね、お父さん。凌さん、何か飲む?」

「水、もらいます。」

 凌が言った。

「あら、お酒でもいいんですよ。」

「せっかくだし、一緒に飲もうよ。」

 義之は凌にビールを注いだ。

「優はずいぶん変わったな。」

「耳はずっと治らないんですか?」

「そうだな、たぶん。向こうではいろいろと困っただろう、生き物を扱っているんだしな。」

「馬とは話せるみたいですよ。自分も話してみたかったです。いろんな事。」

 凌はそう言った。

「元々おしゃべりな子だったんだよ。」

 義之が言うと、

「そうなんですか。」

 凌は優の方を見た。

 優はピアノを弾き終えると、お風呂場へ向かった。

「凌さん、優は騎手の方とお付き合いをしてるって聞いたんだけど。」

 より子が凌に聞いた。

「そうですよ。今日、勝った馬に乗っていたあの人です。」

「優はどういうつもりでいるのかしらね。」

「それはわかりません。」

 凌はそう言った。

 

 凌が潤の部屋で窓を見ていると、優が入ってきた。

 凌の隣りに座ると、何か言いたそうに下を向いていた。窓の方を見て、カーテンを開けると、針の先で穴を開けたような小さくて消えそうな星を指さした。

 凌が優の指を指す方を向くと、優は窓を開けた。

 冷たい風が一気に部屋を冷やす。凌は慌てて窓を閉めた。

「もう、寝なよ。」

 凌は優にそう言った。

「?」

 <もう、寝なよ。>

 凌は優の手のひらにそう書いた。

 優は首を振ると、凌の肩に寄り掛かった。

 凌は優の持っているノートを手に取ると、

<浅尾さんが怒るよ。>

 そう書いた。優はまた首を振ると、凌の肩にもう一度寄り掛かった。

<大事な事なんだよ。>

 凌はノートに書いて、左手の薬指に指輪をはめる仕草をした。

 優はノートを凌から奪うと、

 <好き。>

 と書いて、凌を指さした。

<ダメだ。>

<どうして? >

 優は泣いているフリをした。

「おい、バレてるよ。」

 凌は優の手を掴んだ。

 優は嬉しそうに笑うと、凌の胸に飛び込んだ。

 何度離そうとしても離れない優に、凌は向き合った。

「優、俺は何も持ってない。助けてくれる家族も、優が遊んで暮らせるだけのお金も、浅尾さんの様な世間からの期待も希望も、何もない。だから、俺の所へ来たらダメだ。」

 凌がゆっくり優に言うと、優は凌の右腕を軽く叩いた。

「なんだよ。」

<この手があれば、引っ張ってくれる。>

 優はノートにそう書いて、抱きしめる仕草をした。

「本当にしつこいなぁ。」

 凌はそう言って優を抱きしめた。

 目があった2人は口づけを交わした。


 11章 静かな時間

 潤に案内され、アカマルの馬房の前に来ていた。

 凌を見るなり、前足を蹴り始めたアカマルに、今日はニンジン持ってないんだと、稜が言った。

 アカマルは優の頭をかぶっと噛むと、今度は優の髪の毛に鼻をこすりつけた。

「優さんは、レッドには髪の毛を触らせるんだね。」  

 浅尾が立っている。

 潤は持っている板に目を通すと、浅尾に何か話している。

 浅尾はレッドを馬房から出し、ひょいと跨った。

 アカマルに乗って颯爽と消えていく浅尾を見ていると、 

「あなたが高山くんの妹さん?」

 誰かの声がして、稜は振り向いた。

 稜は優の肩を叩くと、優は後ろを振り返らせた。

「伊藤です。」  

 そう言って、稜と優に握手した。

<伊藤先生だよ。>

 凌はノートにそう書くと、優はそれを見て、伊藤に深々とお辞儀をした。 

「本当にこんなに早く、いい馬が来るとは思ってませんでしたよ。」  

 伊藤は優に向かってそう言った。

 稜は、その言葉をノートに書いて、優に見せる。

 優は先生の前でもう一度両手をあわせると、また深く頭を下げた。  

 伊藤は、

「調教、見ていかないか。」

 と稜に話しかけた。稜はぜひ、とその後をついて行った。稜は優にこっちと手招きをした。

 厩舎の外に出て、馬がトレーニングしている様子を凌は見ていた。  

 浅尾がアカマルを一定のリズムで速歩させている。

 稜は初めて見る光景に、言葉を失った。

「君は今度、柏代ファームに入るんだったね。」

「そうです。」 

「今は激しい調教よりも、こうして馬の心肺能力を鍛えるんだ。柏代ファームでも、同じ事をしてるだろう。君の事は、柏代のオーナーからいろいろ聞いてるよ。乗馬の腕前はたいしたものだってね。」

 伊藤は稜を連れていろいろ説明しているようだった。 優はしばらく、調教の様子を眺めていたが、話し込む稜を置いて、アカマルの厩舎の前に来ていた。  

 少しして、浅尾とアカマルが馬房に戻って来た。

 優は浅尾の顔をまっすぐ見ることができなくて、アカマルの鼻を触っていた。  

 浅尾が優の肩を叩く。

 優はノートを出して、

<おめでとうございます>。

 そう書いて浅尾に見せる。

<昨日、パドックで君を見た。>

 浅尾はそう書いて優にノートを見せる。

<どんなに人がたくさんいても、俺にはわかるから。>   

 続けてそう書いた。  

<アカマルも見つけてくれたのかな?>

  優がノートに書く。

<動かなくなって本当に困った。>

 浅尾は笑った。

<次は、いつレースがあるの?>

<2月の初めくらい、それから、5月には大きなレースに出る予定。>

 浅尾はノートに書いた。  

 優は馬房のマルコレッドという名前を指さして、

<もうアカマルではないんだね>

  そうノートに書く。

<優さんは?>

  浅尾が書いた意味がわからず、浅尾を不思議そうに優は見つめた。

 浅尾は優の髪をそっと撫でる。優はビクッとして後ろに下がった。

 浅尾は優の思いを察したが、優の答えを持った。

<私は北海道にいる。>

 そう書いて優は浅尾に見せた。

<俺は?>

 浅尾が書くと、両手をあわせて優は謝った。

 少し間があいた後、

<わかった。レッドの事は俺に任せなさい。>

  浅尾はそう書いて優に見せた。  

 浅尾の優しさが、優には痛いほど伝わった。

 アカマルが優の頭をまた噛んだ。

 浅尾がゲラゲラと笑うと、伊藤と稜や潤達がアカマルの所に集まってきた。  

 浅尾は稜の腕をポンっと叩き、

「これでも、けっこうショック受けてるんだからな。」  

 そう言った。

「飛行機は何時?」  

 伊藤先生が聞く。

「14時半です。」

「ここからなら、結構かかるから、高山くん、車で送ってやりなさい。」

  伊藤が言った。

「いいんですか?」   

 潤が言うと、

「今日は有名な浅尾騎手が来てるから、調教は君がいなくても大丈夫だよ。」

  そう言って伊藤は浅尾の肩を掴んだ。

「サラブレッドの俺が道産子に負けるなんてさ。潤の妹さんはどうかしちゃってるよ。」  

 浅尾はそう言って笑った。  

 

 稜と優を乗せ、潤の車は空港へ向かって走り出す。

「あの馬がここにくるなんてね。」  

 潤は稜にそう言った。

「本当ですね。」

「優は相変わらずかい。」

「誰かと何かを話していても、いつも自分の世界にいます。」

「兄の俺が言うのもなんだけど、優は大変な暴れ馬だと思うよ。髪に印をつけた方がいいかもね。」  

 2人の会話をよそに、優は窓を開けて風を吸っていた。コンクリートから吹き上げる風は、なんとなく錆びた匂いがする。

 

  千歳空港には1時遅れで飛行機が到着した。

 あたりはすっかり暗くなり 雪で踏み固められた道を、2人で歩いて宿までやってきた。   

 優は外を歩きながら、東京で見た星とは比べものにならない空の星を見ていた。

 稜がそっと優の手を繋ぐ。

「一緒の部屋でいい? 起きれないだろうし。」

 稜は優を見ると、同じ部屋と、ゆっくり言った。

 優は頷いて稜にもたれた。

「おい、甘えるなって。」  

 稜はそういって、優の手をぎゅっと握った。   


 部屋に入り、ベッドに座っている優の隣りに稜は座った。  

 凌は優の手のひらに、好きだ、そう書いた。

 優は凌が好きだと書いた手のひらを、自分の胸に大切そうに押しあてると、涙が溢れた。

「また、泣くのか?」  

 凌はそう言うと、優をそのまま胸に抱いた。 

 静かな時間が流れているばすなのに、2人の心臓の音が聞こえるほど、部屋の中は張りつめている。  

 稜は自分の胸に顔を埋めている優を、きつく抱きしめる。

 大切なものは、ある日突然消えてなくなるんだ。思い出の欠片を集めて暮らすくらいなら、その温もりを体に刻んで忘れない様にすればいい。

 稜は優の髪に顔をうずめた。

 優は稜の呼吸が、優の髪を揺らすのを感じていた。

 稜の顔を見ようと、優が少し顔をあげた時、稜は優にキスをした。

 稜は離さないように、優の体を包むと、ゆっくりベッドに優を寝かせた。

     

 12章 優駿

 5月の日曜日。 

 馬主席に招待されていた、辰夫と優子はベランダから、アカマルの様子見ていた。

「夢みたいね、お父さん。」  

  優子が言う。

「僕もね、夢を見ているみたいなんです。NHKマイルを勝って、ダービーにも出るとはね。 あの時、浅尾くんがお宅の娘さんを気に留めなければ、こんな出会いはなかったですよ。」

 丸岡はそう言って笑った。

「本当ですね。」

 辰夫は双眼鏡を除きこんだ。

「さすが、どれもいい馬ですね。」

「そりゃそうでしょうよ。今日はダービーですからね。」  

 

  図書館の休憩室では、優がテレビを見ていた。

  柏代ファームの事務所では、従業員が集まってテレビを見ていた。

 優の実家では、両親が座ってテレビを見ていた。 

 隆一の家では、母と姉がテレビを見ていた。

 伊藤厩舎の調教小屋では、潤と多くのスタッフが息を殺して、テレビを見ていた。  


「松本さん、ダービーは勝つべき馬が勝つんですよ。運がいいとか、展開が味方するのではなく、勝つべき馬が勝つんです。レッドは、きっと勝ちますよ。」    

 丸岡はそう言った。

 ファンファーレがなり、バンっと一斉にゲートが開く。

 

  マルコレッドは、いつもの様に中断より後ろにいた。

  10馬身以上の差をつけて、1頭が独走していた。

  4コーナーを回り、独走していた逃げ馬のスピードが遅くなってきた時、馬群の間を抜けて、1頭の馬がスピードを上げてくる。マルコレッドは1番外を回り、頭が抜けた1頭と、逃げていた馬を、あっという間に一気に抜き去った。  

 

  ゴールはした瞬間、見ている者の時を止めたマルコレッドは、3歳の春に、たった一頭しか獲る事のできないダービー馬になった。

 

 丸岡と辰夫と優子は、抱き合って泣いていた。  

  関係者控室で待つ伊藤調教師は、厩務員達と抱き合って泣いていた。  

  優の両親は、こぼしたお茶にも気づかず、2人で手を取って泣いていた。  

  隆一の家族は、優さん、すごいわと言って抱き合って泣いていた。  

  柏代ファームでは、一斉に稜に拍手が向けられた。

  図書館の休憩室では、両手をあわせた優が、そのまま手を握りあわせ泣いていた。  

  マルコレッドと共に、ダービージョッキーになった浅尾は、鞭を落としたのも気づかず、馬上で泣いていた。  

  多くの競馬ファンが、浅尾とマルコレッドに拍手を送った。  

  アカマルが運んできた幸せの瞬間は、いろんな形で、人々の心に届いていく。


 その夜、稜は優が1人で留守番をする、伊藤宅に来ていた。

「辰夫さん、嬉しいだろうな。」

 そう言うと、優に辰夫と優子の食卓の席を指さした。

  優はノートにアカマルを描いていた。  

 

  稜達が生活していた宿舎は取り壊され、優は優美の部屋で生活している。

  凌はなんにもない、殺風景な部屋に案内されると、優はこっちと手招きをし、押し入れの中を見せた。

 押し入れの壁には、稜の写真が1枚貼ってあった。  

  優美が貼ったものと思われるその写真は、優も大切にしている。

<優美さんは稜が大好きだったんだね。>

 優はノートに書いた。

 稜は黙って頷いだ。

 優に怒っているのかと、頭に角を作ると、

<私も大好き、同じ。>

 そうノートに書いた。  

<俺は優より先には死なないよ。>

 凌はそう書いて優にノートを見せた。  

 不器用な稜の愛し方は、優を優のままでいさせてくれる。

 稜もまた、優の持つ深い感情の底に、自分の思いを素直に置いてくる事ができる。


 俺は死なないという文字をなぞると、優は小指を立てた。稜は優の小指に自分の小指をからませ、優を引き寄せた。  


 ベッドに入ると、優はあかべいの絵本をめくっていた。

 本の途中には、伊藤先生が書いた手紙や隆一の母が書いた手紙が挟まっていた。

 浅尾が書いた手紙を見つけた稜は、これは投げなさい、と優に言った。

 優はあかべいの絵本にまた閉じると、今度はノートに開き、起きろと書いた、稜の字を見せた。

 優はそのノートを顔にぶつける真似をして、稜を指さした。凌は笑った。

 凌の描いた太陽が優を包んでいる絵を見せて、優は凌に包み込む仕草を見せた。

 稜はわかったよ、そう言うと、優を抱きしめ、優の髪に顔をうずめた。  


 静かな時間が2人の周りを包んでいく。

 さわさわと聞こえる草の音が、夜の空気に溶けていった。

 それぞれの思いが、星空を下に詰まっている。

 

 優は稜の力強い腕の中で静かに目を閉じた。  


 終

 

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