第97話「さあ! こーい!」
大会1日目。府中市の球場。内野が土で外野が芝のグラウンドだ。
「あっっっつ!」
誰が言ったのか分からないくらい、誰もが暑い暑いと言っていた。
府中市、39度。岩手県でも39度になることはあるが、こんな朝早くから39度というのはあまりない。
「お前ら、暑い暑いうるさいぞ! ハウスの中で何時間もトマト採るほうが暑いわ!」
監督にそう言われると、もう誰も暑いと言えなくなった。
遠園シニアが先攻なので、球場内で練習できる順番が先だった。
友樹はセカンドの位置でボールを受け、ファーストの福山に投げる。頭の上から熱されるように暑いけど、ボールを追いかけている間だけは平気だ。
遠園シニアが練習を終え、大阪南シニアに場所を譲ろうとしたとき、大阪南シニアの1人が遠園シニアの皆の前に出てきた。動画でよく見た顔だ。確かピッチャーの赤川だ。
「女子より弱いんやろ?」
いきなり声をかけられたことと、その言葉に遠園シニアの皆は驚いた。赤川はさらに言う。
「女子がショートやるってことは、他の男はそれ以下。女子より弱い情けないやつらや」
この人はなんてことを言うのだろう、と友樹は怒りを感じた。遠園シニアへの侮辱であり、努力し続けてショートのポジションを掴み取った草薙への侮辱である。
「お前、ピッチャーだろ?」
新藤が赤川の正面に立った。
「そうですよ」
「なら、草薙に打たれるさ」
赤川に言ってやった。遠園シニアの皆の空気が強気になった。
「言うてくれるやないですか! そんな可愛い子に?」
そのとき。
「……そのくらいにしとき」
赤川を大阪南シニアの人が迎えに来た。
キャプテンの矢島だ。短く刈り込んだ髪で、サングラスをかけている。遠園シニアで最も背が高い坂崎が179センチだが、矢島はそれより少し高い181センチだ。
「はい! 矢島さん!」
赤川が姿勢を正した。矢島には威圧感がある。
矢島が草薙を見た。今度は草薙が姿勢を正す。
「遠園のお嬢。男の世界に飛び込んできた気骨は素晴らしい」
「ありがとうございます」
先輩に対しては草薙もそう言うしかない。
「でも、それだけや。力がなければ終わりだって、分かってて来てるんやろ?」
草薙が真剣な顔で頷いた。
「分かっているなら、ええんや。……新藤さん、お互い頑張りましょうや」
「ああ」
矢島が赤川の背を押して、遠園シニアに頭を軽く下げさせた。
「赤川が失礼したわ」
「すんませんしたっ」
「行くで」
「はいっ!」
矢島が赤川を連れて、大阪南シニアの元へ戻って行った。
矢島が去ると、友樹はほっとした。特に何かをするわけでなくても、場に緊張感を生む人だった。
監督の前に集まった。
「オーダーを発表する」
一番ショート草薙香梨。
二番セカンド井原友樹。
三番サード新藤晴馬。
四番レフト桜井星也。
五番ライト岡野葉月。
六番ピッチャー高見歩。
七番センター山口律。
八番キャッチャー坂崎愁一。
九番ファースト福山学。
また草薙が一番打者になった。前回は友樹が一番だったが、草薙が入江からランニングホームランを打ったのを監督が評価したのだろう。
また頑張って、草薙さんに勝ちたいなと友樹は思った。
いつか必ず、草薙さんが卒業する前にショートを奪うと、友樹は強く思っている。
大阪南シニアのキャプテン矢島は、四番キャッチャーだ。
さっき遠園シニアに絡んできた赤川は、一番手のピッチャーだった。打順は九番。
試合が始まる。新藤を中心に声出しをする。
「俺たちは勝ち上がってここに来た!」
「おすっ!」
「絶対勝つぞ!」
「おすっ!」
「行くぞぉ!」
「おうっ!」
グラウンドへ走り、ホームを境に大阪南シニアと向かい合う。キャプテン同士、新藤と矢島が堂々と睨み合う。
「お願いします!」
遠園が先攻なので、まずは大阪南が投球練習とボール回しをする。大阪南のボール回しは、突出したうまさを見せるわけではないものの、安定感があった。
一方、赤川矢島バッテリーの投球練習には、目を引くものがあった。
赤川は右投手。二年生。
掲示板に表示される球速表示は、最速140キロ。
遠園シニア最速の高見は、最高球速が132キロなので、赤川は速い。友樹がシニアに来てから出会った投手の中で1番速かった秋田鹿角の鎌田は135キロだった。
前回、鎌田と戦った遠園シニアはほとんど打てず、ダブルスチールで点を取って勝利した。
だけど今回は違う。最速150キロのピッチングマシンで、皆でとことん練習した。
赤川が足を大きく上げて、投げる。
矢島が立ち上がって捕った。他にも、矢島が構えた所の逆に投げられるときもあった。
赤川はコントロールがよくない。だけど、コントロールが悪いことは弱点とは言い切れない。果たして、勝負にどう出るか。
投球練習が終わり、草薙が右打席に立つ。
「一番ショート。草薙さん」
女子が一番打者であることに、観客がざわっとしたのが分かる。前にもそういうことはあった。
ネクストバッターサークルにいる友樹は、赤川がにやりとしたのに腹が立った。
「しまっていくぞ! おらぁ!」
矢島が赤川に声をかけ、赤川が頷いた。
赤川の第一球はストレートだったが、低めに投げようとしてホームベースの手前でワンバウンドした。打席の草薙も驚いている。
赤川の第二球は、カーブだった。
驚いた。140キロの直球との落差が抜群の、100キロだ。これは、凄まじい武器だ。……ストライクゾーンに入るなら、の話だが。
「ボール!」
ストライクゾーンよりも大分外側だった。
草薙が大きく息を吸い込んで、赤川に叫んだ。
「こーい!」
草薙さんは度胸があり過ぎる、と友樹は思った。赤川さんが怒ったらどうしよう、と友樹は思ったが、赤川は怒るどころか、にやにやしていた。それはそれでとても怖い。
「言われとんぞ、われ!」
矢島が叫ぶ。
「言わせておきましょうや!」
赤川が矢島に応えた。このバッテリー怖いな、と友樹はびびった。
そして三球目、またしてもストライクゾーンを大きく外れる、高く浮いたストレートだった。
この感じなら四球になりそうだ。友樹は、打席に入るのに備えて屈伸し始めた。
四球目、138キロが内角高めを抉った。
「ストライク!」
草薙は手を出せないどころか、体をのけぞらせた。
「バッターびびってるー!」
「女子はソフトボールしときー!」
「一番は一番弱いの一番やー!」
大阪南から野次が飛んでくる。友樹は怖さを忘れ、むかついて大阪南のベンチを睨んだが、
「なんやチビ! ちっとも怖くないわ!」
「どうせバントするような奴だから二番なんやろー!」
大阪南の人たちは友樹までからかってきた。
そのとき、矢島が立ち上がって、大阪南のベンチに顔を向けた。
「勝者に言葉はいらんのや!」
友樹は驚いて、矢島の背を見た。遠園の皆も、矢島を凝視する。
「はい!」
大阪南のベンチの全員が、矢島に応えて静かになった。遠園はあまりの侮辱に返す言葉をすぐに出せないでいる。
両ベンチが静かになったところで、赤川が第五球目を投げようと、振りかぶった。
草薙の銀のバットが回り、137キロの白球を捉えた。
バットが衝撃を受ける。球威に力負けして、一塁側にぼてっと転がった。草薙は悔しそうに地に転がるファールボールに視線を落とした。
草薙がバットに当てただけで赤川は驚いている。にやにやしていた顔が引き締まった。
草薙も男子たちと同じように150キロのピッチングマシンで練習していたのだから、遠園の皆は驚かない。
「いけええ! 打て!」
遠園の皆が草薙に声を送る。友樹もネクストバッターサークルから草薙の名を呼んだ。草薙が頷いた。
六球目、力で負けないように草薙は思い切って引っ張っていく。バットが弧を描いて、ボールを弾き返す。カン! といい音がした。
低い弧を描いた打球は三遊間の間を抜けて、外野に弾むように落ちた。
「やったあああ!」
「どうだ!」
遠園のベンチは総立ちで盛り上がり、対照的に大阪南のベンチは言葉を失っていた。
「二番セカンド。井原君」
友樹が打席に立つと、赤川が再びにやっとして見下ろしてきた。後ろからくる矢島の圧力も凄い。だけど友樹は軽く息を整え、赤川を睨み返した。
一球目の内角高めは、まるで顔に当てられるかと思う勢いで、友樹はのけぞり、足も一歩下がった。勢いがあっただけで、実際は顔に当たるような球ではなかったと後で気がついた。
「どうや? 怖いか?」
矢島がマスクの奥から鋭い眼光で友樹を見てきた。
「怖くありません」
ほんの少し怖かったけど、それでも怖くないと口にするのが勝負だ。
「そうか」
矢島の声に含まれた僅かな笑いが、何を意味するか友樹には分からなかった。
二球目の低めのカーブを、これはゾーンを出て行くだろうと見送ったが、
「ストライク!」
ぎりぎり入っていた。驚いた。
三球目は暴投で、矢島が体を伸ばして捕った。これでツーボールワンストライク。
四球目、甘い球だと思い、友樹は落ち着いてスイングをした。股関節をうまく使い、腰が綺麗に回り、脚も腕も開かない。友樹にできうる最高のスイングだ。
伸びのある直球は最高のスイングの上を行った。友樹のバットは投球の下を振っていた。
あれだけ練習したのに、まだ届かないというのか。一回戦で、これほどの相手と当たったのか。今までやってきたのは、果たして通用するのか。
だけど、背筋がぞくぞくしたのは恐怖ではない。友樹の笑みを見て赤川の顔が引き締まる。草薙が友樹を見て、満足そうに頷いている。
少しだけ怖いことすら楽しい。
赤川が暴投と好投を繰り返し、狙いにくい。友樹はバットを短く握り直す。
「怖いか?」
またしても矢島が聞いてきた。友樹は首を横に振る。
「楽しいです」
マスクの中で矢島の口角が上がったようだった。友樹は赤川に向き直った。
「さあ! こーい!」
興奮して、声を出さないとおさまらなかった。友樹の叫び声が炎天下の空気を揺らす。一塁から大きなリードを取る草薙と目が合った。『大丈夫です』と友樹から草薙に頷いてみせた。草薙の微笑みは僅かだが、友樹には彼女が楽しそうだと分かった。
五球目。ボールを見送った際に草薙が盗塁した。華麗な走りを見て、友樹の鼓動が高鳴る。無死二塁となった。
六球目、外角に伸びのいい直球が来る。ストライクかどうか、もはや分からない。分からないなら迷いを捨てて振ってしまえ。ただ力任せに打ってはいけない。赤川の球威を利用するように打つ。手にいい痺れを感じる。打球は真正面へ行く。
赤川が反応できず、ボールがまっすぐにセンターへ抜けた。遠園の皆が明るく騒ぎだす。一塁に立つ友樹を見つめる赤川は悔しそうにしている。
勝負は始まったばかりだ。