第90話 草薙選手
入江が静かに草薙を睨みつける。
草薙も雄々しく睨み返す。
東教仙台の外野が、バックホームに備えてやや前進した。
そして、初球が投じられる。
入江の初球は、やっぱり三日月スライダーだった。
一塁からリードしつつも、友樹は草薙を見つめる。
草薙は大きく前に開いていた左足を、すり足気味にステップする。
三日月スライダーが草薙に食い込もうとする。
草薙は、当てにいくスイングをしなかった。
思いきり引っ張ったのだ。
カーン、と澄んだ金属音が響いて、誰もが打球を見つめる。
これは絶対にヒットになると、友樹は確信した。
友樹は一塁からスタートした。草薙もバットを放って走り出す。
強力な回転のかかった打球が、三遊間の上を飛んでいく。
レフトが全力で背走して追う。
決して打ち上げたわけではない。だが、東教仙台のレフトの一歩目が速かった。
レフトが落下点の予測位置――左中間の中央――に入って、足を止める。
フライになれば、友樹は一塁に戻らなければならないが、すでに二塁を回っていた。
嫌だ、戻りたくない、と友樹は心から思った。
そのとき、打球の強力な回転が、軌道に変化を起こす。
左中間で、打球はレフト側に曲がり始めた。
東教仙台のレフトが落下点を予想し直して、再び走りだして追う。
打球が伸びる。伸びる。
打球は、ライン際に飛んでいく。
東教仙台のレフトが全速力で走る。
「走れー!」
新藤が手をメガホン代わりにして叫ぶ。
誰にも言われなくたって、走る!
友樹は走る。地を踏みつけ、蹴り、少しでも速く。
「回れー!」
三塁コーチャー笹川が叫ぶ。
友樹は三塁を回った。初めからそのつもりだ。
ヒットかファールか、まだ分からない。
だけど、友樹は草薙を信じている。
仲間のために虚勢を張れる草薙香梨さんの打球だから。
三塁側内野席と、レフトスタンドが大きく盛り上がり、何人もが飛び跳ねた。
打球は、フェンスすれすれの、ファールライン上に落ちた。フェアだ。東教仙台のレフトが大慌てで掴み、投げる。
友樹はホームベースをどん、と踏んだ。
「やったああああ!」
遠園シニアの仲間たちが叫んだ。
友樹は皆にガッツポーズを返す前に、ダイヤモンドを振り返った。
東教仙台のレフトがショートへ中継する。
三塁コーチャーの笹川は、草薙を止めようとした。
草薙が三塁を回る。
やっぱり、回るんだな、と友樹は思った。思ったとおりだ。
ランニングホームランを狙う草薙に、球場は驚きと興奮に包まれる。
無難に三塁に止まれば安全なのに、あえて乗り込んでいく。
それが草薙選手だから。
草薙がホームベースへ走る。
東教仙台のショートがバックホームする。
友樹は、目を閉じたい、見るのが怖い、という思いも少しだけあった。
だけど、絶対に結末を見るのだと、瞬きすら我慢する。
草薙が土を跳ね上げて、走り、突っ込んでくる。
バックホームがついにキャッチャーに届く。
草薙のホームインと、キャッチャーの草薙へのタッチは、同時にしか見えなかった。
どっちが先だったか、人の目では分からない。
息を切らす草薙は苦しそうで、額に前髪が汗で張りついている。
球場が静まり返る。友樹は息をするのさえ苦しい。
審判が、拳を握ろうとした、そのときだった。
ぽろっと、キャッチャーのミットから掴み切れていなかった白球が落ちた。
「セーフ!」
試合終了。遠園シニアのサヨナラ勝利だ。
球場に一気に音が蘇る。
遠園シニアの誰もが叫んでいて、誰がなんと叫んでいるか、もう分からない。
力を使い果たした草薙は、ホームベースの上に横たわった。
遠園シニアの皆がホームに集まって、草薙を囲むと、彼女は上体を起こし、ゆっくりと立ち上がる。
三塁側内野席の遠園シニアの皆がはしゃいで飛び跳ねるせいで、球場が揺れているみたいだった。
「トモキー!」
哲浩が笑顔になっている。
これが勝利というものなんだな、と友樹は熱くなった頭で思った。
姫宮は涙を拭っている。
姫宮の涙を見た友樹は、まるで全てが夢のようだと思った。
北條のカメラはばっちりと勝利の瞬間を捉えていた。
水上や、鳥海たち青森山桜シニアの皆も盛り上がっている。
「俺たちの! 優勝だぁー!」
新藤の叫びが球場の空に響く。
新藤の叫びを聞いて、これは夢ではないと友樹は思い直した。
友樹は草薙を見た。
草薙は姫宮を見上げていた。
笑顔の横顔が美しい。
急に、草薙がこっちを向いた。そして友樹にも笑顔を向けた。
大輪の花のように眩しい笑顔の草薙を見つめていると、勝利した実感がますます沸きあがる。
「草薙さん!」
友樹は草薙に抱きついた。
女子に抱きついてしまったと気づいて、どうしようかなと思ったが、草薙の腕が友樹の背に回ったので、これでよかったのだと思った。
草薙さんと俺の腕の力は対して変わらないか、俺の方が強いんだなと友樹は分かった。
草薙の力が自分より無いと分かると、女子の草薙香梨さんが草薙選手になるためにどれほど努力をしたのか、感じ取った。
草薙選手に憧れたのは正解だった。
「そろそろいいでしょ」
草薙が友樹の肩を軽く掴んで、体を離した。
「抱きつくのが長い!」
「すみません!」
草薙はなんとも思っていない様子だ。
だけど友樹にとっては大切な瞬間だった。