第89話 草薙香梨さん
「香梨ちゃあああん!」
レフトスタンドで姫宮が叫ぶ。草薙は姫宮を見て、軽く頷いた。
草薙はガラスの切っ先のような視線で入江を見る。
譲れない勝負がある。
打席に立った草薙の雰囲気はいつもより重々しい。友樹は声を出せずに、祈る。
二番ショート草薙香梨。
左ピッチャーの入江の三日月スライダーは、右バッターの草薙に食い込む軌道だ。
打ちたくても、三日月スライダーは空間を横に滑ってバットから逃れてしまう。
草薙のバットは綺麗に空を切った。
当てに行くという受け身ではなく、確固たるヒットを狙う強気なスイングは、全て三日月スライダーの前に敗れた。
草薙、空振り三振。
打席から出て行く草薙の表情は、渦巻くたくさんの物に無理やり蓋をしているみたいに険しかった。
「2人とも、大振りだぞ!」
監督が立ち上がって、友樹と草薙に言った。確かにそうだった。
「打ちたいのは分かるが、まずは当てにいくところから始めるんだ」
「はい」
友樹はすぐに返事をしたが、草薙は少し考えてから「はい」と返事をした。
三番サード新藤晴馬。左打者だ。
新藤の背中側から三日月スライダーが空を滑ってきて、新藤から逃げ延びてストライクゾーンの外いっぱいに決まる。
新藤は反応できないどころか、ボールをまともに見ることすらできていないようだ。
キャプテンの強さも、意思も、三日月スライダーが抉るように削り取ったみたいだった。
新藤、見逃し三振。
ネクストバッターサークルにいた四番桜井も、恐ろしいものを見る目をしていた。
遠園の監督の拭う汗は、暑さのためだけのものではないと、友樹にも分かった。
打撃コーチである潮コーチが落ち着かずに心配そうにしている。
スコアブックを書く浅見コーチの鉛筆を持つ手が力んでいる。
「大丈夫ですっ! 大丈夫! 大丈夫!」
西川がグラブを手にはめながら、大きな声で言った。
「いきなり大声出すなよー」
檜が西川を小突く。西川がにこにこしている。遠園シニアのベンチは少し元気になった。
二回表は、新藤がライン際の打球をうまく捉えて、スリーアウトにした。無失点に抑えた。
二回裏。
四番桜井が強気に打ちにいったが空振り三振。五番西川、六番高見共にタイミングを全く掴めず見逃し三振となった。
遠園シニアのベンチの空気が、固くなってきた。
三回表はライト西川が特大フライをキャッチして終了した。無失点だ。
西川が大喜びではしゃぎ、遠園シニアは僅かに元気になった。
しかし、三回裏で七番檜、八番坂崎、九番福山が、またしても三者連続三振を取られた。遠園シニアの一巡目の打順は全員三振だった。
こうして、試合は進んだ。
最終回である七回裏。
1対0で遠園シニアは1点ビハインドだ。
とうとう、遠園シニアは六回まで誰一人打てなかったのだ。
打順は一番友樹から。
「井原!」
「井原ー!」
「ともっちー!」
仲間たちが応援してくれるが、無理して元気を出している感じが漂ってしまっている。
スタンドの三塁側内野席で応援している遠園シニアの皆も、いつもより静かだ。
友樹は、哲浩のいる外野席に目を向ける勇気を出せなかった。
自分の情けなさを思い知る。
熱光線を放射していた太陽は少しだけ、傾いた。まだ暑いが、涼しい風が吹き始めている。
マウンドには、交代せずに入江が立っている。
東教仙台の内外野は、入江を信じていて、常に定位置だった。
弱気になりたくないが、強気にもなれない。
でも、それでも、打たなければならないんだ。
友樹が打席に足を踏み入れようとしたときだった。
「私は打つ」
不意に耳に届いた草薙の声に、友樹は驚いて振り返った。
ネクストバッターサークルに入る前の草薙が、友樹のすぐ傍まで来ていた。
「必ず打つ」
草薙は「打てる」と確信していないのが、固い顔と少し震える声から伝わってくる。
打てる確信なんて持てない。
自信などない。
希望は僅か。
それでも、打つと言葉にしている。
これが草薙香梨さんなんだなと友樹は思った。
仲間のために虚勢を張れる人なのだ。
今まで草薙選手ばかりを追っていた。
草薙選手に勝ってほしいけど、それだけではない。
草薙香梨さんに勝ってほしい。
「俺も打ちます!」
友樹の弱気を消し去ったのは草薙選手ではなく、草薙香梨さんだった。
友樹は顔を上げ、外野席の哲浩に大きく手を振った。哲浩に手を振り返されて、友樹は猫目を細めてにっこりと笑顔になった。
打席に入った友樹の瞳はきらきらして、三日月スライダーを迎え打つ覚悟ができている。
入江は1度頬の汗を拭うと、呼吸を整え、セットポジションに入った。
三日月スライダーが来る。
尖った三日月を友樹に突き刺そうとするかのように、食い込む軌道でボールが宙を滑る。
草薙香梨さんが勝つためには、どうしたらいい。
まずは、俺が勝つことだ。
友樹は腹に力を入れた。
カン、とバットの金属音が球場に響いた。
遠園シニアの攻撃で打撃音がしたのは、これが初めてだった。
バットのヘッドに当たった打球は、一塁線の向こうへぼてっと転がった。
友樹は、バットに球が当たったときの手の感触を、久々だと思った。前の青森山桜との試合では何度も感じていたけど、この試合では初めてだ。バットを脇に挟んで、バッティンググローブをはめている両手をじっと見た。
この感触を、もっと確かなものにしたい。次は、ヒットにしてみせる。
バットの音が、遠園シニアを包む空気に響いたみたいだった。
遠園シニアのベンチに元気が出て、三塁側内野席の皆も活気を取り戻した。
友樹はネクストバッターサークルを振り返った。
草薙選手の勇ましい笑顔を見た。
「しゃああー!」
友樹は叫んで、バットを回転させると、構えた。
草薙選手に勝機を与える!
入江が丸い目をきつく細め、綺麗な唇を歪めて歯を食いしばる。
入江は今までずっと打席の友樹をただ見つめているだけだった。
今、初めて睨みつけられている。
友樹は入江を睨み返しながら、面白くて少し笑った。
外のボールゾーンに投げられた。三日月スライダーならストライクゾーン内に入って来るが、友樹はバットを止めた。
「ボール!」
ストレートだった。
危なかった。
三日月スライダーと球速がほぼ同じだった。
「さあ来い!」
叫び、構え直した友樹に、入江も少し笑った。
友樹は入江のリリースポイントになるだろうという位置に、視線を向ける。
入江が右脚を上げると、友樹も左足を軽く上げる。
入江の背中側から左腕がしなる鞭のように出てくる。友樹の構えがトップに入る。
輝く友樹の瞳は、三日月スライダーの変化を諦めずに追う。
左足を踏み込む。全身の体重を移動させる。腰の回転に応じて、上半身が回って、黒のバットが綺麗に弧を描いた。
バットの描く弧が、空を滑る三日月スライダーと綺麗に衝突した。
カーン、と音を鳴らし、投球は打球に変わる。
目を見開く入江の頭上を軽々と超えて、二遊間のど真ん中を抜けるセンター前ヒットとなる。
流れ落ちる星のような、綺麗な弧を描いた弾道だった。
遠園シニアの喜びはベンチに収まらないくらいで、大騒ぎだ。
「トモキー!」
哲浩の叫びに、友樹はガッツポーズで応えた。
やったよ、哲浩。
草薙が打席の土をならす。
友樹は一塁から大きく腕を振って、草薙に叫んだ。
「俺のほうが! 先に! 打ちましたあー!」
草薙は笑っている。
いつもは涼しそうな切れ長の瞳は、どこか熱をはらんでいる。
草薙選手の笑顔なのか、草薙香梨さんの笑顔なのか。友樹には分からなかったけど、分からなくて構わない。
「今そっちに行くよ!」
草薙の言葉に、友樹は頷いた。