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第87話 三日月スライダー

 監督が気を取り直して、というふうに皆を見た。


「今からもう1つの準決勝、滝岡たきおかシニアさん対東教(とうきょう)仙台シニアさんの試合だ。観に行くぞ」


 姫宮や哲浩たちがいる滝岡シニアと対戦するのは『東北教育仙台シニア』。『東北教育大学』の附属チームだ。通称『東教仙台』。


 先攻の東教仙台が一塁側で、後攻の滝岡が三塁側だ。

 遠園シニアは球場の三塁側に来た。内野席の滝岡シニアの邪魔にならないように素早く外野席まで歩く。


 滝岡シニアの客席にいる部員と保護者たちが、わーっと盛り上がった。

 四回裏で滝岡が1点先制したのだ。

 これなら滝岡が勝てそうだ、と友樹は笑顔になった。


 外野席に座り、ショートの姫宮を見る。セカンドは哲浩あきひろだ。


「頑張れー!」


 友樹が叫ぶと、哲浩がこっちを向いてにこっとした。


 五回表は姫宮と哲浩がしっかりと防いで守りきった。友樹は姫宮の守備にいつも通りに見惚れて、福山と檜に笑われた。


 五回裏で東教仙台のピッチャーが交代する。


 女子だ。

 エースナンバーを身に着けている。

 草薙さん以外の男子に混ざって野球をする女子だ、と友樹は驚いて彼女を見つめた。

 彼女が投球練習を開始すると、驚きの種類が変わった。


「なんなんですか、あれ……」


 呟いた友樹に、浅見コーチが答えたが、


「俺もあんなの初めて見た……」


 答えにならなかった。友樹も浅見コーチも言葉を失ってしまう。


 ピッチャープレートの左端に立ち、左にステップするように踏み込んで投げる、左のサイドスロー。投げ終えた後に左側に体勢を崩すほどの勢いだ。


 放たれる投球は外野席から見ても分かるほどに変化する。

 落ちるのではない。

 横に曲がるのだ。


 左打者のストライクゾーンより内側のボールゾーンから、ほぼ真横に逃げるように曲がった投球が、ストライクゾーンの外側へ出ていく。

 ストライクゾーンの横幅の長さ以上に曲がるのだ。


 これが絶望の始まりだった。


 五回裏の滝岡シニアは三者連続、三球三振。

 六回表は守りきったが、六回裏はまたしても三者連続三振。

 試合を見下ろしながら、友樹は哲浩が心配になってきた。


「あの人は?」


 友樹は浅見コーチに聞いた。


「東教仙台のエース、入江あいらさんだよ」


「あれが噂の『三日月スライダー』か」


 監督がぼそっと言った。


「ご存じでしたか」


 浅見コーチに、監督が頷いた。


「『侍JAPAN女子代表』から視察が来ている人だ」


 女子野球の日本代表は世界大会で七連覇している。

 これは友樹たち選手は知らないことだが、監督は草薙の育成方法を女子硬式野球の指導者に相談したのがきっかけで、一般的な野球の指導者よりは女子野球の世界を知っている。


「他にも、7つの高校の女子硬式野球部が入江を欲しがっている」


「凄いですね」


 監督と浅見コーチが原石を見る目で入江を見る。

 まだ15才の入江に多くの大人たちが見入っている異様な光景に、友樹は息をのむばかりだ。

 しかし、そんなことはどうでもよくなった。

 七回表で東教仙台が5点入れたのだ。

 なんと入江が2打点をあげた。

 滝岡シニアに本格的な絶望感が満ちていくのが、友樹にもはっきりと分かった。


 七回裏。


 打順は一番、姫宮から。

 姫宮が右打席に立つ。

 左ピッチャーである入江のスライダーは右打者の姫宮に食い込む軌道となる。


 一球目は、まるで暴投かと思った。

 右打者の姫宮が相手なのに、左打者の背中に相当する位置に投げたのだ。

 しかし、ボールはそこから横に曲がりだす。


 左打者の背中側から空間を移動するかのように、ボールが右打者の外いっぱいに入った。


「ストライク!」


 姫宮の唇に浮かんだ微笑は楽しいからではなく、絶望して笑っているのだと、見ていて分かる。

 あの姫宮さんにあんな顔をさせるなんて、入江さんはとんでもない人だ、と友樹は思った。


 二球目は外角高めより外側に投じられた。ボールの位置だ。

 そこから曲がる。

 姫宮は振らなかった。


「ボール!」


 よくあれを振らなかったものだ。

 外角高めより外に投げられたスライダーは、内角高めより内側のボールになった。

 しかし、残念だが姫宮はボールになると読んだわけではないらしい。

 ただ手を出せなかっただけだったと、誰が見ても分かった。


 草薙が椅子から立ち上がり、フェンスを両手で掴んだ。息を大きく吸い込み、叫ぶ。


「ひめみやあ! しっかりしろ!」


 草薙の叫び声は打席の姫宮にしっかりと届いた。

 姫宮が外野席を見上げた。そして草薙に軽く手を振る。

 姫宮の表情が変わった。

 友樹はぎゅっと手を握って祈る。


 三球目が投げられる。


 姫宮は振る直前で、バットを止めた。


「ボール!」


 姫宮は、しっかりと投球を見ることができたのだ。草薙がほっとしているのが、友樹にも分かった。

 マウンドの入江が綺麗な唇を舐めた。


 四球目、サイドスローの鞭のような腕の振りから、三日月スライダーが放たれる。


 姫宮は左足をほんの少しあげて、構えのトップに入り、狙いをつけて全力でスイングした。


 頼む、当たってくれ、と友樹は願う。


 球場に響いたのは打撃音ではなく、キャッチャーミットの革の音だった。

 球1つ分、届かなかった。

 アウトになった姫宮は両手で顔を覆っている。

 姫宮の三振に、友樹は体の力が抜けるくらい驚いた。


 滝岡の二番は三球連続三振。

 七回裏で4点ビハインドで二死。

 滝岡シニアに絶望が広がっていく。


 三番は哲浩。左打者だ。


「アキヒロォー!」


 先ほどの草薙みたいに友樹は椅子から立って叫ぶ。

 こんな暗い空気に飲まれないでくれよ、と友樹は思う。

 敵チームにいるのに、こんなに心から応援できるのは哲浩だけだ。どうか打ってほしい。


 だが哲浩は緊張してガチガチのようで、友樹の叫びは聞こえていないらしかった。


 哲浩は三日月スライダーを目で追うことすらできていない。バットは球を捉えなかったどころか、見当違いの軌道を描いた。

 見逃し三振で、試合終了。

 

 哲浩の負けかたに衝撃を受けた友樹は、まだ心臓がばくばくする。

 こんなに、呆気ないのか?

 

 泣いて崩れる哲浩をよそに、マウンドに立つ入江に仲間たちが群がる。

 入江以外に女子はいない。


 入江は勝利したというのに、大喜びをしていない。落ち着いて、勝利を単なる事実として受け止めている様子だ。

 哲浩があんなに泣いているのに。

 友樹はやり場のない感情を抱えた。本当は、負けのない試合なんてないと分かっているけど、それでも。

 友樹はふと、横の草薙を見た。

 そして、びびる。


 草薙の機嫌が悪い。

 眉間に皺が寄っている。普段は涼しげで綺麗な切れ長の目が、今は鋭利に細められている。淡い色の唇がぎゅっと結ばれている。

 姫宮が負けたせいだと聞かなくてもわかるので、聞かない。

 友樹はそーっと草薙から距離を取った。


 球場の外に出て、自由時間になると、草薙は滝岡シニアが集まっているところに歩いて行く。

 普段の友樹なら草薙について行くが、今の草薙にはついて行きたくない。

 だが、哲浩が泣いてしゃがみ込み、立てなくなっているのを見つけて、友樹は哲浩の元に駆け寄った。


 友樹が駆け寄ると、哲浩はますます泣いた。友樹は何も言えず、しゃがみ込む哲浩の背に手を置いた。


 友樹は、哲浩に何も言えない自分が情けなかった。何か言ってあげたいのに、何を言ってもいけない気がした。


 草薙と姫宮が向かい合う。滝岡の人たちが草薙と姫宮を喋らせてやろうと少し距離を取ったので、2人の声は友樹にも聞こえてくる。


「自分が情けない」


 先に口を開いたのは姫宮だった。


「香梨ちゃんに、あんなに野球をするなと言ったのに、野球をする女子に負けて、俺は……」


 姫宮の言葉が途切れる。うっ、と嗚咽が聞こえた。


「姫宮は入江さんに負けたと思ったの?」


 あんなに怒っていたのに、草薙は感情的に大きな声を出すわけではなく淡々と話した。


「負けたよ」


 姫宮の涙声を聞くのは、ただ会話を聞いているだけの友樹にも辛いことだった。


「私には負けていると思ってないの?」


「え?」


 話の転換に姫宮は純粋に驚いたみたいで、声から涙の気配が消えた。

 草薙は目つきこそいつもよりきついが、僅かに微笑んでいる。


「野球をする女子に負けたって入江さんには思ったのに。私だって野球をする女子だよ。私とはしょっちゅう戦っているのに。入江さんに負けて泣くってことは、私には負けてないと思ってるんだね?」


 姫宮は言葉を失っている。


「私が入江さんから打ったら、姫宮は私に負けたって思う?」


 姫宮の涙が止まる。

 絶望の色は消え失せた。


「打てたらね」


 姫宮が笑顔になる。

 草薙も姫宮の笑顔を見て笑顔になった。

 草薙さんは凄いな、と友樹は思った。

 一年生の頃から互いを知っている草薙と姫宮だからこそ、こんな励ましができる。

 友樹と哲浩は、まだ友達になったばかりだから、あんなに強い言葉をかけることはできない。


 それでも、何か言葉をかけてあげたい。

 友樹はまだ泣いている哲浩の背をとんとん、と優しく叩いた。


「俺たちが勝つよ」


 そんなことくらいしか言えないけれど。

 友樹は哲浩が泣き止むまで待った。


「トモキ、勝ってくれよ」


 哲浩は涙を拭いながらそう言った。


 入江は侍JAPAN女子代表に認められている原石。

 勝てるだろうか。


「うん」


 それでも友樹は頷いた。

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