第85話 勝ちたいと思ったから
三番の鈴木、四番の長屋の連打で、水上がホームに還る。
遠園シニアのリードは3点になった。
青森山桜の先輩たちにもみくちゃにされて水上は嬉しそうだ。
五番がセンター前ヒットで続く。無死満塁となる。
六番が三遊間への内野安打を打つ。
草薙はヒットを潰そうと必死にダイビングキャッチをしたが、あとグラブ1つ分の距離に届かなかったのだ。遠園のリードは2点になった。
「いいプレーだったぞ!」
サードの新藤が草薙を励ます。
無死満塁で、七番に代打が出された。
代打がとても嬉しそうにベンチから出てくる。選手層の厚い青森山桜の中にいて、耐え忍び続けてきた人なのだろう。
ライトにツーベースを打たれてしまい、青森山桜が2得点した。同点にされてしまった。
青森山桜の代打は嬉しそうに飛び跳ねた。こんな強豪にいる人でも、試合に出る喜びや野球を楽しむ心は同じなのかもしれない。
高見が八番に四球を出してしまった。無死満塁となる。
内野の皆でマウンドに集まった。
「皆、俺がわ――」
言いかけた高見の腹を新藤がグラブでどつく。多分痛い。高見が少し顔を歪めた。
「謝るな!」
高見が唇を噛んだのは、きっと腹をどつかれた痛みのせいではない。
「いいじゃねえか」
新藤が何を言おうとしているのか分からず、友樹たちは彼をじっと見つめた。
「もともと格上のチームなんだからさ。このくらいのピンチがちょうどいいんだよ」
力んでいた高見の表情が緩む。
「きっと大丈夫だ」
新藤はいつも、特別なことを言うわけではない。
新藤がにっこり笑った。
「正直に言えば、俺、今めちゃくちゃ楽しいよ」
高見と坂崎が少し驚いた顔をする。
「こんな状況が1番楽しいだろう!」
頭で何かを考える前に、友樹の心がぱっと動いた。
「はい! 楽しいです!」
先輩たちを差し置いてとても大きな声で答えてから、また大志や茜一郎に「危なっかしい」と言われるだろうかと思ったが、まあいいかとも思った。
「草薙も楽しいだろ?」
新藤の問いかけに草薙がしっかりと大きく頷く。
「私は常に自分より強い人たちと戦っていますから」
草薙が新藤に、先輩へ向ける笑みを見せた。
「俺は怖いですけど、新藤さんがそう言うなら」
福山が素直に答えた。
「高見と坂崎は俺たちを信じてくれ」
新藤は作り込んだ言葉を使わない。素直な言葉で仲間を励ます。
高見と坂崎が和らいだ表情で頷いた。
九番はエース崎山だ。
無死満塁のエース対決で、崎山は執念を見せた。
ライト前ヒットを打たれて、さらに1点取られた。逆転されてしまった。
「大丈夫だ! 高見!」
新藤が叫ぶ。
「高見さんも打てばいいんですよー!」
福山も叫ぶ。
「ショートの位置に打たせてください!」
草薙の言葉に、友樹は惚れそうになった。だけど負けちゃいられない。
「セカンドの位置にも打たせてください!」
高見が内野の皆に笑顔を見せた。
打順が還り、一番が出てきて、二番の水上がネクストバッターサークルに入る。七回の表で打順が一巡しようとしている。
草薙と友樹は顔を見合わせて頷いた。ここに打たせれば、俺たちがいるのだと。
と、思ったのだが高見が三振に切って取ったので、友樹と草薙は顔を見合わせてにこっと笑った。
そして、水上が左打席に立つ。
一死満塁。
監督の指示を受け、坂崎が内野に『中間守備』と指示した。
監督はダブルプレーを狙っているのだ。七回表を終わらせるカギを任されている。監督に信じられている。
「井原!」
草薙に呼ばれた。
「はい!」
草薙はにこりとしただけで、それ以上何も言わなかった。だけどそれでいい。友樹は元気が出た。
友樹は一二塁間の中央、やや後ろに構える。
打席に視線を戻した友樹と、水上の目が合った。きっと水上は打つ。そんな予感がする。
高見が水上に投げた。
打たせるための、ツーシームだ。
水上が打つ。
痛烈な金属音が青空に響き、球場が湧く。
打球は二塁ベースの右で土を跳ね上げてバウンドした。
バウンドしても打球の勢いが死なない。
友樹は足を踏み出して加速し、全力疾走で追いかける。
二塁ベースの後方で、ワンバウンドの打球をダッシュしながらグラブで掴み取った。
あとは送球に移ればいい――しかし、最大に加速して走った足が止まってくれない。
勢いがついて止まれない。
捕っただけでは駄目なのに。
このままではアウトにできない。
頭の中が真っ白になる。
一塁ランナーのスタートがよかった。二塁ベースに攻め込んでくる。
「グラブトス!」
草薙が叫ぶ。
止まる必要は無かった。
草薙が落とすのはあり得ない。
友樹は駆け抜けながら、グラブから二塁の草薙にトスした。
二塁審が「アウト」だと拳を握る。
走りながらのグラブトスを受けた草薙が、素早く右手にボールを持ちかえる。握りかえにかかった時間は一瞬だった。
福山がぎりぎりまで体を前に伸ばして送球を受け取ると、一塁の審判も拳を握った。
一塁を駆け抜けた直後の水上が驚いた顔で友樹と草薙を見ている。
純粋に驚いている水上の瞳は、周りからの期待を考えるようになる前――初めて野球と出会ったときのようにきらめいている。
ようやく止まることができた友樹は、草薙の元へまた走った。
「ありがとうございます。声をかけてくれなかったら、どうしたらいいか分かりませんでした」
草薙がにやりとした。
「前は声をかけなくても勝手にグラブトスしてきたくせに」
「あのときは必死だったので……。今回は本当に頭が真っ白でした」
「私はいつグラブトスされてもいいように覚悟してたよ。だから、いつでもしていいよ」
「はい!」
「まあ、グラブトスしなくてもアウトにできるのが一番なんだろうけど」
草薙が切れ長の目を細めて楽しそうに笑ったので、友樹も笑った。
七回裏を前に、円陣を組む。
「2点だ!」
「おう!」
2点取れれば、サヨナラだ。
打順は六番岡野から。
六番岡野、七番山口が凡退した。
遠園シニアのベンチの全員が総立ちになる。
八番福山が今試合初ヒットで出塁した。
九番高見が打たれた雪辱を晴らすようにヒットを打った。
二死からのチャンス到来に、遠園シニアの誰もが叫んでいる。
二死一二塁で草薙の出番だ。
「行ってくる」
草薙が右打席に入る。
友樹はネクストバッターサークルへ。
最終回で二死。前と同じだ。
だけどどうしてか、不思議なくらい恐れはなかった。
ツーストライクに追い込まれてからも草薙は焦らない。
5回のカットを経て、四球を選んだ。
友樹は打席に立つ。
二死満塁というのも、前と同じだ。
ふと、パシャパシャと鳴るカメラの音が気になったが、
「とーもーきー!」
「てんさあーい!」
スタンドから茜一郎や大志たちの声が聞こえると、カメラはどうでもよくなった。
周りからの期待に応え続けた水上は凄いやつだけど、俺だって期待に応えてみせるよと、友樹は茜一郎や大志たちに笑顔で手を振った。
真後ろのキャッチャーと崎山、7人の野手たち――青森山桜の選手たちから、圧を感じる。
「井原ー!」
「打て打て!」
「ともっちー!」
だけど、ベンチとスタンドの声で平気になった。
球場にいる人は青森山桜の関係者とスカウトが多く、遠園シニア側の人の方が少ないが、1人1人が友樹に力をくれる。
人からの期待に応えようとすることが、力になる。
遠園シニアに来てよかった。
青森山桜シニアと戦えてよかった。
友樹の力と心を一身に受け取ったバットは、強豪のエースの投球にも負けなかった。
白球が青空の下を飛ぶ。
水上が諦めずに食らいつこうとジャンプするが、捕れない。
センター後方に落ちた打球が大きく弾んだ。
三塁ランナー福山がホームに還る。
二塁ランナーの高見が三塁を回る。
青森山桜のセンターの大遠投を、水上が中継する。
キャッチャーが待ち構える。
水上がバックホームする。
キャッチャーがボールを受ける前に、高見の右手がホームにしっかりとタッチした。
「セーフ!」
「俺たちの勝ちだー!」
高見に抱きつきながら、新藤が叫ぶ。
友樹もホームへ走る。
すると、先輩たちが友樹を取り囲み、もみくちゃにしてきた。
「やったなー!」
「前と違うな!」
「井原が決めたんだ!」
「ともっち! すごおーい!」
「藤井とは大違いだな!」
「俺だって活躍しただろぉ?」
体の大きな先輩たちに強く抱き着かれると、息をするのも大変だったが、嬉しかった。
前と違う。
その通りだ。
勝ちたいと何度も思った水上に勝てた。
だけど、友樹の心は変わっていて、単なる『勝ちたい』だけの思いではなくなっている。
試合後の整列が解けた後、友樹は水上の肩を叩いて振り向かせた。
「なんだよ」
「ありがとう」
「は?」
敗北の疲れを顔に滲ませていた水上だが、友樹に感謝されて驚いた顔に変わった。
「お前に勝ちたいと思ったから俺は頑張れたんだよ」
水上が何も言わずに友樹の瞳を見つめてきた。
友樹は続ける。
「周りからの期待とか、考えてこなかった。できることをやってきただけだった。だけどそれでも、俺も野球が好きなんだよ」
友樹はにっこり笑った。
水上の顔には怒りも、友樹を馬鹿にしている感情も、見えなかった。
「あんなこと言って、ごめん」
「うん」
「北條さんがお前のことを凄いって言ってたのが分かっ……あ、いや、えっと……北條さんがお前の取材をしたいって言ってたけど……一番は俺だからな」
水上の意地が面白くて笑った友樹に、水上は唇を尖らせた。
友樹は少し迷ったが、言うことにした。
「俺らどっちもベスト4だから、日本選手権でも試合できるよね」
「ああ」
友樹は、言葉にしようと思った。
「そのときは俺がショートになる」
「草薙さんに勝つんだな?」
「うん」
水上が三白眼の目を細めて、八重歯が覗く笑みを見せた。
「次は俺たちが勝つからな!」
友樹もぱっちりしている猫目をにっこりと細めた。
戦い終えたばかりなのに、すぐにまた試合をしたい気持ちになった。