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第72話 あとひとつ!

 友樹は頷いた。


 二死二塁。


 もう、自分で試合を終わらせたりはしない。

 最後の打者にはならない。

 次に繋げてみせる。

 山口さんをホームに還してみせる。


 伊藤との対決は初めてだが、ストレートを狙う。

 友樹は素振りをして、打席に入ると土をならした。そしてしっかり地を踏む。

 勝つために、ここに来た。


 伊藤の内角高めのストレートを全力でスイングしたが、バットは空を切っただけだった。


 友樹の背に冷や汗が流れた。

 狙いを定めた上で、思いきり振れたのに。

 当てることさえできないとは思わなかった。


「あとひとつ!」


 人差し指を立てて広瀬シニアのスタンドがはしゃぐ。

 広瀬シニアの大歓声に、頭の上から押さえつけられているみたいだ。

 急に、友樹の胸に不安が浮かんだ。


 俺が負ければ試合に負けるという、事実を突きつけられた気になる。


 相手は勝利を確信している?


 あとひとつ! あとひとつ! あとひとつ! あとひとつ! あとひとつ! あとひとつ!


 頭上から叩きつけるように声が降り注いでくる。

「あとひとつ」が呪文のように聞こえる。

 うるさい。

 耳を塞ぎたくなる。

 でも耳を塞いでしまえば、バットを握れない。

 打って黙らせるしかない!


 スライダーがボールになると思って、バットを必死に止めたが、ストライクだった。


 ツーストライク。

 追い込まれた。


 広瀬シニアのスタンドが大きく手を叩く。明るい笑顔を見せる。


「あとひとつ!」


 あとひとつ! あとひとつ! あとひとつ! あとひとつ! あとひとつ! あとひとつ……


「あとひとつ」が友樹の頭を支配する。目眩がする。


 外角低めのストレートを全力で打ちにいったが、力が足りずにファールになった。


「あとひとつ」の大きな声が友樹の体内に染み込んでくる。体重がうまく乗らない。


 甘い球だったのに、一塁線向こうに力なく転がるファールになる。


「あとひとつ! あとひとつ! あとひとつ! ……」


 頭の奥が痛い。

 友樹の顔色が悪くなる。


「あとひとつ!」


 もう負けたくないのに。

 もう最後の打者になりたくないのに。

 もう泣きたくないのに。

 もう……どうしたらいいか。


「とーもーきー!」


 とても意外な声が聞こえた。友樹は打席を外して、後ろを振り返った。ベンチのさらに向こう、スタンドから聞こえた。


「おまえっ、天才なのにっ、なんだそのスイングはあ!」


「あとひとつ」の声の塊の中を、大志の声がすり抜けて友樹に届く。

 そんなに大きな声を出して、言いたいことがそれか。


 可笑しくて、友樹は笑った。

 友樹の頬に赤みが戻る。

 もう、あとひとつの呪文の声は友樹に効かなくなった。


 綺麗に回ったバットが、球を弾き返して空に飛ばす。一二塁間の真上を飛ぶ。

 広瀬シニアのスタンドの「あとひとつ」の声が途切れた。

 打球はライトの前に落ち、元気よく弾んだ。


 ホームに還った山口と、仲間たちが言葉にならない叫びをあげる。

 一塁に立った友樹と、スタンドの大志の目が合ったが、2人ともすぐに逸らした。


 あと1点取れば延長に持ち込める。


 二死一塁で一番草薙の出番だ。


 友樹は一塁上で伊藤の投球モーションの癖を盗もうとする。隙はないだろうか。盗塁しなくても、少しでも伊藤の気を草薙からこちらに逸らしたい。


 パン、とファーストミットが牽制球を受けた音が響くが、友樹はあっさりと帰塁してセーフだ。


 打席の草薙と目が合う。草薙が微笑む。心配する必要はないみたいだ。

 信じています。


 伊藤の第一球のストレートが内角高めに決まり、草薙は手を出せなかった。だが彼女は怯まない。


 第二球はボールだったが、草薙が手を出してしまう。ひやりとさせられたが、うまくファールにした。これでツーストライク。


 三球目のボールを草薙はぴたりと見送った。

 友樹の心臓がドキドキしている。


 二死から打つことができて、草薙に繋げたのだ。それだけでもう、大きな喜びに包まれている。でも、まだ終わっていない。

 どうか、このまま勝ちたいです。


「草薙さあああん!」


 一塁上から叫ぶと、草薙が、ふっと不敵な笑みを見せた。


 第四球、草薙のバットがボールを捉える。綺麗なセンター返しだ。友樹は二塁に進んだ。


 二死一二塁。


 二番岡野が打席に入り、ホームベースをバットで叩く。


 岡野が打ってくれれば、二塁からホームへ生還できる。友樹は二塁ベースからリードする。


 伊藤がくるりとこちらを振り向いて牽制してきた。友樹はひらりと帰塁した。

 伊藤が岡野に向き直る。


 初球のカーブを打ち返す岡野に迷いはなかった。レフト前ヒットになった。

 だが、浅い。友樹はホームまで還れなかった。


 二死満塁。


 あのときの俺と同じじゃないか。

 今日は一打も打っていない新藤が打席に立つ。監督は代打を出さなかった。


 あれ、と友樹は思った。

 新藤は今日、ちっとも打っていない。

 それなのに不安がない。どういうことなのだろう。


 新藤は打席で固い顔を見せない。勝利を確信している顔をしている。

 どうしてそんなに強くいられるんですか、と思う。


 伊藤の第一球に、新藤のバットが食らいついた。一塁線向こうにファールとなった。

 二球目をレフトにファールフライにした。レフトが追いかけたが、スタンドに入ったのだ。


 新藤さんは不安を感じないのだろうか。

 新藤さん、どうか。

 友樹は新藤を信じられる。不思議な人だ。いつも強くある。


 三球目は真後ろに飛ばした。バックネットをぎしりと大きく揺らす。


 そして、四球目。


 カーン、と金属音が鳴り響く。速く、角度のある打球だ。ライトスタンドに入るかと思ったが、惜しくもファールだった。

 今までのどの打席よりも粘っている。


「頑張れええええ!」


「新藤ぉー!」


 もう、どの叫びが誰のものか、分からない。


 広瀬のキャッチャーがマウンドの伊藤に駆け寄り、背を叩く。伊藤は大きく頷いた。


 そして、第五球目。


 新藤は迷いなく振った。友樹は打球の行方を見ずに走りだす。

 きっと大丈夫……!


 ホームまで走っていると、真後ろに二塁走者の草薙がいる。足が速い。追い越されたら駄目だ。友樹は必死に加速する。

 ホームを駆けぬけてすぐ振り返ると、真後ろの草薙がホームにスライディングしていた。


 それは、サヨナラを意味する。


 遠園シニアはまだ夢の中にいるみたいに、一瞬しんとしたが、すぐに現実だと気づいて熱狂した。

 全員がサヨナラのランナーの草薙の元へ駆けてくる。


 勝ったのだ。

 先輩たちに次を作れたのだ。

 ほっとした友樹はその場にしゃがみ込んだ。


「頑張ったな」


 福山が友樹の背を撫でてくれる。大きくて厚い手だ。

 草薙も友樹の隣に来て、しゃがんだ。

 友樹は安心して、思ったままのことを口にした。


「足が速いですね」


「あんたはスタートをもっと早くしたほうがいい」


「はい」


 こんな会話ができることが嬉しくて、友樹は泣きそうだった。


 うっ……、と嗚咽をこらえている声がした。新藤だ。必死に泣くのをこらえている。


 泣いてもいいのに、と友樹は思った。キャプテンは泣けないのだろうか。

 新藤は三年生たちに囲まれた。新藤は力が抜けたように岡野と山口に寄りかかったが、それはほんの一瞬のことだった。


「俺たちの勝ちだー!」


 ガッツポーズを掲げ、掠れるほどの大声で新藤が叫ぶ。遠園シニアの全員が新藤をもみくちゃにした。


 轟くような拍手が聞こえてきた。ライトスタンドの広瀬シニアが仲間たちに拍手しているのだ。


 あんなに笑顔だった東野と伊藤が、顔がぐちゃぐちゃになるくらい泣きながら抱き合っている。


 俺たちが勝つということは相手が負けるということで、新藤さんたちが野球を続けられるということは、相手の三年生が野球をできなくなるということなんだ、と友樹は分かった。


 頭では理解していたが、心と体で初めて理解した。

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