第100話 野球は人と人を
2対3。1点ビハインドで三回表を迎える。
一番草薙から打順が始まった。四球で出塁した草薙は、すぐに盗塁を成功させた。無死二塁となる。
友樹はカーブを狙い、打った。友樹の力は日に日に強くなっているのだから、赤川の力を利用するだけではない。ライト前に落ちた。大阪南のライトは拾い上げると、バックホームする。
炎天下の空気を切り裂く勢いで、草薙が三塁を蹴る。草薙を刺そうとする矢のようなバックホームが来るが、草薙が先だった。ホームインした草薙は息を乱して立てなくなった。すぐに立ち上がれない草薙を、福山と檜が助け起こす。仲のいい三人が遠慮なく触れ合っているのが、友樹には少し羨ましかった。これで、3対3の同点だ。
三番新藤が、キャプテンとして前回の打席の屈辱を晴らす。ライトへしっかりと打った。友樹は三塁に来た。キャプテンが打ったことで、遠園はベンチもスタンドも大盛り上がりだ。三塁コーチャーの笹川も笑顔になる。
四番桜井の打球は、一二塁間にぼてっと転がった。
「行け!」
友樹は笹川に従い、ホームを目指す。桜井がアウトになっている間に友樹はホームに辿り着いた。これで逆転。4対3にした。
打席に五番の岡野が立つ。新藤が一塁から、
「打つのは性別も歳も関係ねえぞ!」
さっきの友樹を真似した応援をするので、友樹は少し恥ずかしかった。
「おらあ! 男見せろやあ!」
今度は矢島が赤川に激を飛ばす。
「しゃあ! 次は打ち取ってやりますよお!」
矢島に応えた赤川が放ったのは、内角高めのコーナーを突く、最高の直球だった。
岡野は手を出す。打球の勢い自体はよかったが、セカンドの正面だった。併殺打となる。
「ああー! くそ! やられたあ!」
岡野が両手で顔を覆って悔しがる。新藤が岡野の尻を叩くと、岡野は一息ついた。
三回裏。
大阪南の攻撃は、四番の矢島からだ。
キャッチャー坂崎が草薙にアイコンタクトを送る。草薙は軽く頷いた。
今から、高見坂崎バッテリーは、打者をショートの位置に打たせるようにする。こんなこと今までになかったから、どんなものが見られるだろうかと、友樹はわくわくした。
右打者の矢島のスイングに引っ張ろうとする意思が見える。やっぱり、ショートの位置を狙っている。
サード新藤がかなり前に出ているのを、矢島はしっかりと確認しているようだった。
坂崎のサインに高見が頷く。高見が投球モーションに入ると、草薙が腰を僅かに低くする。
草薙の足が動いたのは、矢島のバットがボールに当たる、一瞬前だ。
大きく前に出ていた新藤が反応すらできない、三遊間やや三塁寄りの、強く速い打球。その弾道を見るだけで、誰もがレフト前ヒットになると思う。
だけど草薙が追いつく。逆シングルでグラブの先にボールを納めると、いつも通りに素早く握り替えて、体を反転させてファーストへ投げる。
低い送球は、一塁ベースの手前でショートバウンドになる。福山のファーストミットが危なげなく受け取る。矢島は駆け抜けていたが、塁審は迷うことなく「アウト」だと拳を握った。
矢島がサングラスを外して、汗を拭い、草薙を見た。サングラスの奥のつぶらな瞳が驚きで見開かれている。パチパチ、と拍手が球場に鳴った。遠園側のスタンドからだけでなく、大阪南側のスタンドまで拍手をしている。本来はヒットだっただろうと、誰もが分かったのだ。
五番のショートライナーを捕った草薙は、髪から落ちる汗さえ輝くかのように、いきいきしている。守る喜びにあふれている。
やっぱり、草薙さんはバットとボールが当たる前から打球を予測できるのだと、友樹は確信した。友樹は打球が飛ぶ方向から一瞬で判断している。
草薙の予測は本当に凄い。打者の構えとかスイングとか、ピッチャーの球種とか、そういうのを総合して予測しているのだろうけど、友樹にはまだそこまでできない。
六番が右打席に入った。坂崎のサインを見ると、草薙は三遊間のやや二遊間側に来た。六番が空振りした。二球目の坂崎のサインを見ると、草薙は一歩前に出た。こういう、細かい積み重ねが草薙選手を成している。友樹は何度でも憧れ直す。
フルカウントとなったとき、大阪南が攻撃のタイムを取った。何故、今? と思ったのは友樹だけではない。
大阪南の監督の話に頷き、六番がぐるりとグラウンドを見渡した。そのとき、友樹と目が合った。六番はグラウンドの右側をよく観察している。攻撃のタイムが終わった。
六番のスイングが変わる。逆方向――右打者の彼にとってライト方向――を狙っている。三遊間を狙うのをやめたのだ。打球の飛ぶ一瞬を見て、友樹はスタートした。友樹のグラブにしっかりと打球が納まる。これで遠園シニアは三回裏を無失点で終えることができた。
ベンチに皆で戻ると、遠園の監督が軽く笑った。
「俺たちがショートの位置に誘いこんでいると、気がついたと示したんだろうな。今後は逆方向にも飛んでくるだろう」
「はい!」
監督が福山、岡野、友樹を見た。逆方向を守る主な3人だ。
「右にはお前たちがいる」
「はい!」
「高見、坂崎、リードは今まで通りでいい。大阪南さんがどちらへ飛ばして来ようと、お前たちなら捕れるんだからな。俺たちは草薙頼みのチームではないんだぞ」
「はい!」
「草薙頼みのチームではない」。そう言われて友樹は嬉しかった。お前の力も認めていると言われている気持ちになった。それは友樹だけでなく、皆もだろう。
四回が始まる。雨がぱらぱらと降り始めた。炎天下を少しでも和らげてくれるかと思ったが、雨が降っていても暑い。
四回表。打順は六番高見から。この程度の雨じゃ赤川の投球には影響しないみたいで、高見と七番山口は三振を取られた。
八番坂崎と九番福山が連打したが、一番草薙が三振してしまう。ボール球に手を出してしまったのだ。
「おいー。香梨ー。何やってんだよ」
ベンチに戻った草薙を、檜が煽っている。
「せっかく学が珍しく打ったんだぞー?」
「珍しくは余計だな」
「そうだね。もったいないことをした」
「おい」
いつの間にか、いじられていたのは福山だった。
四回裏。大阪南は草薙を狙うのをやめたが、高見坂崎バッテリーに仕向けられて、三遊間に打ってしまっている。
三遊間を貫こうとする弾道を、一足先に準備していた草薙が丁寧に抑え込み、捕球する。
サード新藤が飛びついても捕れなかった打球が土を跳ね上げてバウンドしたが、草薙は軽くジャンプして捕球した。
強烈な勢いの打球が草薙のグラブに乾いた破裂のような音を立てたが、落とさない。
四回裏は三者とも草薙がアウトを取った。
友樹はセカンドの位置から草薙を見た。こんなに動き回っているのに、彼女はそれほど疲れていないようだ。頼りになる。
四回終わって4対3。遠園シニアの1点リードだ。
五回表。打順は二番の友樹から。軽くぴょんぴょんとジャンプして体をほぐしてから、友樹は打席に入った。
雨はまだ、ぱらつく程度だ。勝負に影響はないだろう。赤川が汗を拭っているが、気持ちは弱っていないらしく、視線がまっすぐに友樹に来た。もう友樹を舐めていないし、真剣に、対等な相手として見ている。友樹はバットを構えると、すっと気持ちが落ち着いた。雨の水の匂いを含んだ熱風が頬を撫でる。
狙うのは、カーブ。
初球がいきなりカーブで、友樹は打ちにいったが、ぎりぎり三塁線の向こうへファールとなった。惜しかった。
二球目、三球目は直球だった。友樹は手を出さない。これでワンボールツーストライク。
友樹は息を吸い込むと、腹から声を出して叫んだ。試合の中盤。ほどよい疲れが心の浮つきを抑えてくれて、一巡目、二巡目の打席で感じたぞくぞくするような高揚感は落ち着き、冷静になれている。
四球を選んだ。
三番新藤が惜しくも打ち取られたが、四番桜井がツーベースを打ち、友樹は三塁に来た。
五番岡野が打席に立つ。
監督がスクイズの指示を出した。友樹は大阪南にバレないように気をつけてリードする。
いかにも打ちます、というように岡野がぶんぶん素振りをしたのを見て、友樹は思い出した。初めて公式戦に出た春季大会の秋田鹿角シニア戦で、友樹と草薙がダブルスチールをしたとき打席に立っていたのは岡野だった。そのときも岡野はこんな風に相手を欺くためにぶんぶん振っていた。
岡野は新藤や藤井みたいに友樹に話しかけてくれるわけではないけど、試合を通してやり取りをしてきた。春季大会の青森山桜戦で褒めてくれたこともあった。
岡野のスクイズは大成功で、友樹はしっかりとホームを踏んだ。これで遠園シニアは5点だ。
ベンチに戻ると、岡野が友樹に手を伸ばした。ハイタッチするのかと思っていたが、岡野の手は友樹の頬に触れた。
「土がついてる」
弱い雨だけど少し土がぬかるんでいたようで、頬にまで土が跳ねていた。
「ありがとうございます」
「いい走りだった」
岡野はそれだけを言うと、新藤や山口のいる所に行った。その言葉だけで友樹は嬉しい。
友樹は西川、檜、福山、そして草薙のいる所に座る。
「やったねえ!」
西川が友樹にぎゅっと抱きついてきた。
「はい!」
西川はいつも友樹を応援してくれる。本当は西川も試合に出たいだろうけど、それでも友樹にたくさん言葉をかけてくれる。
野球は人と人を結びつけるのだと知る。