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◆3-1 幽霊船

 独特の薫りがする風を受けながら、どこまでも続く大海原を、船の縁に掴まったリュクレールはただただ見つめ続けていた。

 出航して三日、最早陸地が見えない程の外洋に出た。海の中には潮といって、泉や沼にはない川の流れのようなものがあるらしい。それに乗りさえすれば、例え風が無くとも目的地へと辿り着けるそうだ。

 しかもこの船には、風を自在に操る職の者が乗っており、帆を好きなだけ膨らませたり、また緩めたりも出来る。天気も良く航海はすこぶる順調で、船員たちものんびりとしたもの。何も知らぬ貴族の娘が一人甲板に上がっても、誰にも咎められなかった。

 水は透明な筈なのに、海はあまりにも深い青だ。昔、初めてヴィオラから海のことを聞いた時、何故青いのかと聞いたら、彼女も首を傾げて、空の青が映るからではないでしょうか、と言っていた。それで自分も納得していたけれど――海の色は晴れた空よりもずっと濃く、それなのに金陽の光をきらきらと反射して美しい。始めて見る世界の美しさに、リュクレールはすっかり魅了されていた。

「飽きないわねぇ。退屈してないかと心配したけど、大丈夫そうね」

 ふわりと軽い声が聞こえて、リュクレールは振り向く。思った通り、小目を後ろに控えさせた瑞香が近づいてきていたので、慌てて淑女の礼を取る。

「瑞香様! はい、大変船旅を楽しませて頂いています」

「そりゃあ良かったわ。船酔いは平気?」

「はい、大丈夫です。この浮かぶような感覚は、楽しいですし」

 リュクレールにとって、波に揺れてふわふわと軋む床は、どこか自分の体が心もとなかった時の感覚と少し似ていて、すぐに慣れることができた。ヤズローも初日は少し気持ち悪そうにしていたが、やがて平気になったらしく、時間がある時は甲板で運動をしたり、見様見真似で船員たちの手伝いをしている。

「じゃあくたばってるのはあいつだけかー。部屋でゲロったりした?」

 にやりと笑って瑞香が言う。言葉の意味は解らなかったが舌を出して吐く仕草をしてくるので何となく理解し、リュクレールは心配を込めて首を横に振った。

「いいえ。吐いた方が体が楽になると船医様からお聞きしたので、促したのですが……一度食べたものを吐き出すのは矜持に反する、の一点張りで」

「意地汚いだけじゃないのあの肉団子」

 ビザールは人生初の船旅にすっかりやられてしまったらしく、客室で寝込んでいる。口だけは元気だしちゃんと食事もとるのだが、嘔吐感が取れないらしく顔色もずっと悪い。それでも、リュクレールが心配するといつも通り、大丈夫ですともと笑うので。

「わたくしがお傍にいる方が、お気を張らせてしまうかと思い、こちらに出ておりました。……男爵様は、わたくしにあまり、弱っているところを見せてはいけないと、思ってらっしゃるようなので」

 言った後に、僭越だったかしらと指で口を押えるが、いつの間にか隣の縁に寄りかかっていた瑞香は、閉じた扇子を唇に当ててほんのりと微笑んでいた。

「ほーんと、いい奥さん見つけたわねぇあいつ」

 どこか微笑ましいような――あるいは、羨ましそうな、顔で。

 やはり、男爵様と、瑞香様はよく似ていらっしゃる、とリュクレールは密かに思う。口に出したらどちらも不満を訴えそうなので堪えているが。道化のようにふざけながらも、その視線に抜け目は無く――他人を慮れる優しい方々だ、と。

 商人であるにも関わらず、採算度外視でリュクレールに気を使ってくれることにも感謝しかない。ここ数日の旅で、自分の部下である船員や使用人に、細かく気を配っているのもすぐに気づけた。

 だからこそ――どうしても、疑問に思ってしまう。そっと、僅かに離れた位置で不動の男へ視線を向けた。

 小目は、何の感情も籠らない瞳で、ただ瑞香を見ている。彼に何か危険が及ばないか、守る為に。一度動き出せば苛烈で容赦がないが、それも主を守る為であろうことも理解できる。

 それなのに、当の瑞香だけが、それを享受していないように見えるのだ。拒否ではない、だが、どこか――ずっと忌まわしげに、許せないというように視線を逸らしていて――。

「……あんまり見ないで、照れちゃうわぁ」

 自然と視線を移し、見つめ続けていた瑞香の顔が、苦笑に変わった。そこで自分の不躾さに気づき、慌てて頭を下げる。

「大変失礼致しました! ご無礼、お許し下さいませ」

「いいのよー。奥様の瞳にあたしがどう映ってるか、勝手に戦々恐々してるだけだから」

 笑顔はすぐに悪戯っぽいいつもの笑みに変わったが、リュクレールは反省するしかない。自分の瞳が、他者を見透かすものになってしまいかねないことを、ビザールに指摘されて以来、迂闊に相手を見つめ続けてはいけないと己に課していたのに。

 リュクレールの瞳には、物質よりも霊質、魂の揺らぎが良く見える。あまりにも心を乱している者は、獣や虫のような悍ましい姿に見えてしまうが、己をちゃんと律する人の心はそうそう見えない。

 そう――瑞香の魂はあまりにも揺らがない。明るい口調と裏腹に、まるで水を縁まで入れた盃のように、静かだ。それは彼が己をきちんと律しているという証左であり――同時に、何かのきっかけがあれば零れ落ちてしまうような、どこか焦燥をリュクレールに与えていた。だからといって、不躾に踏み込めばその盃は簡単に割れてしまうかもしれないし、彼自身もリュクレールに見せることを望んでいないだろう。

「本当に、申し訳ありません……」

「あらやだ泣かないでよ!? あの丸い物体に変に恨まれると、これからあたしが飲む物全部に隙突いて砂糖ぶち込まれるから勘弁して!」

 猛省して小さくなるリュクレールを慌てて瑞香が慰めていると、小目が一歩前に進み出た。

「瑞香様」

「何?」

 瑞香の声がふと鋭くなる。小目が自分から彼に声をかける時は、余程の理由があることを知らないリュクレールは目を瞬かせるしかない。小目は不満げな主の視線を確りと受け止め、自分の手指で海を差した。

「異変が発生したようです。指示を」

 その指の先は、水平線の上に広がる不自然なほど一か所に集まった雲と霧――その中に見える、巨大な船影を差していた。

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