三、猿吉の頼み事
三、猿吉の頼み事
鼠谷と豚崎は、亜慢堂を出て、左へ向かって通りを二つ横切り、三つ目の通りを右へ曲がった。
「鼠谷、俺らに、何をやらせる気なんだろうな?」と、豚崎が、冴えない顔で、問うた。
「ま、内容次第で、考えるしかないだろうな」と、鼠谷は、淡々と返答した。聞いてみない事には、お話にならないだろうからだ。
「そうだな。子供の使いみたいなのだったら、断ってやりゃあ、良いだけの事だからな」と、豚崎が、強気に言った。
「おいおい。喧嘩に行くんじゃないんだぜ。出来るだけ、穏便に済ませたいんだからよ」と、鼠谷は、苦笑した。まるで、喧嘩腰な物言いに聞こえるからだ。そして、「以前に、何か有ったのか?」と、問い返した。
「金額で、ちょっとな…」と、豚崎が、言葉を濁した。
「そうか…」と、鼠谷は、相槌を打った。これ以上、聞くのも、野暮な気がした。
間も無く、二人は、猿吉電器店の店先へ、辿り着いた。
そこへ、猿顔の老店主が、出て来た。その直後、「あ、あんた、この前の…」と、面食らった顔をした。その直後、「丑露さんの言っていた刑事って、あんたの事かい!」と、敵意を剥き出しにした。
「猿吉さん。ちょっと、落ち着いて頂けませんか?」と、鼠谷は、割り入った。門前払いは、ちょっと、頂けないからだ。
「あ、あんたは?」と、猿吉が、つっけんどんに、尋ねた。
「僕は、鼠谷健一郎と申します」と、鼠谷は、名乗った。そして、「丑露さんから、御伺いしたのですが、何か、困った事が起こっている仰られていますようで…」と、下手に出た。落ち着かせる事が、最優先だからだ。
「鼠谷さん、すまねぇが、出直して貰えないかねぇ」と、猿顔の老店主が、不快感を露にした。
「う~ん。豚崎だけを外すってのは、どうでしょう?」と、鼠谷は、提案した。豚崎の前では、話したくないと察したからだ。
「鼠谷、そりゃあ、無いぜぇ!」と、豚崎が、口を尖らせた。
「う~ん。そうだな。今は、そいつの顔を見ると、不愉快この上無いから、そうして貰おうかなと、猿顔の老店主も、同意した。そして、「鼠谷さんだけ、付いて来な」と、踵を返した。
「まあ、そう言う事だから、ここで、大人しくしてな」と、鼠谷は、言い含めた。ここは、豚崎に、堪えて貰うしかないからだ。
「ちぇ!」と、豚崎が、不貞腐れた。
鼠谷は、それを尻目に、入店した。少しして、右奥の突き当たりに在るカウンターまで、歩を進めた。そして、「あのう、猿吉さん。こちらの用件も、聞いて頂けるのでしょうか?」と、問い合わせた。一応、意思確認をしておくべきだからだ。
「そうですねぇ。わしの頼み事を解決してくれれば、考えてやっても良いぞ」と、猿吉が、上から目線で、返答した。
「そうですか。じゃあ、解決をしても、僕らの用件を履行して頂けそうもないので、帰らせて頂きましょうか…」と、鼠谷も、切り返した。この物言いだと、名簿の件は、誤魔化されそうな感じだからだ。
「ははは。君ぃ~。警察は、困った者を助けるんじゃないのかねぇ~?」と、猿吉が、猫撫で声で、意見した。
「僕は、テレビ番組の刑事とは違います。事件性が無いのでしたら、無料の法律相談所へ行かれた方が、よろしいかと思いますよ」と、鼠谷は、毅然とした態度で、言い返した。ここで、付け上がらせると、主導権を持って行かれる虞があるからだ。
「くっ…!」と、猿吉が、歯噛みした。そして、「あ~あ。店を畳んで、一家心中かなぁ~」と、ぼやいた。
「やれやれ」と、鼠谷は、溜め息を吐いた。一家心中とは、穏やかじゃないからだ。そして、「話を聞かせて頂きましょうか?」と、促した。かなり、切羽詰まった状況だと直感したからだ。
「ああ…」と、猿吉が、素直に応じた。そして、「数日前、モリターティという奴から、配達の注文が有ってな。現物を指定された場所へ届けて、その代金を、昨日、納めに来るって話をしてたんだよ」と、語り始めた。
「で、まだ、支払われてないって事ですね?」と、鼠谷は、問い質した。この様子では、一円も支払いに来る気配も無いと見受けられるからだ。
「え、ええ」と、猿吉が、神妙な態度で、頷いた。そして、「それと…」と、言葉を詰まらせた。
「まだ、何か?」と、鼠谷は、尋ねた。この際、全部、聞いておくべきだからだ。
「うちも、信用を商売としていますので、あんまり、お客を疑うのは、ちょっと…」と、猿吉が、冴えない表情で、口ごもった。
「そうですね。疑っていても、限が無いですからね」と、鼠谷も、同調した。そして、「でも、このまま、支払って貰えるか、どうか、不安なのですよね」と、指摘した。不安が、表れているからだ。
「ええ」と、猿吉が、小さく頷いた。
「で、その商品は、どうなされて居られるのですか?」と、鼠谷は、問うた。置きっぱなしという事は無いと思ったからだ。買う気が無いのであれば、売買契約を無効にする事も、可能だろうからだ。
「実は、何の音沙汰も無かったので、様子見がてら、午前中、回収の為に、配達した場所へ行ったのですよ」と、猿吉が、回答した。
「その置かれた場所って、何処ですか?」と、鼠谷は、尋ねた。現場へ、赴くしかないからだ。
「場所は、コーポ・靄島の614号室の前です」と、猿吉が、力無く告げた。そして、「案の定、商品が、影も形も、在りませんでした…」と、嘆息した。
その瞬間、鼠谷は、はっとなった。駄馬葉の起こした事件現場の近所だからだ。
「刑事さん、どうなさいました?」と、猿吉が、問い掛けた。
「いや、先日の事件現場に近いなぁ~って、思ったものでね」と、鼠谷は、理由を述べた。またしても、駄馬葉の件が、脳裏を過ったからだ。
「そう言えば、配達した日が、その事件の起こった日でしたね」と、猿吉が、口にした。
「じゃあ、事件を目撃されましたか?」と、鼠谷は、質問した。状況証拠だけなので、猿吉から証言を得られれば、裏付けを取れるからだ。
「刑事さん。わしが、配達したのは、事件の起きる前だったので、すまんが、力にはなれんよ」と、猿吉が、淡々と言った。
「ははは。気にしないで下さい。ひょっとしたらって、思っただけですよ。もしかして、猿吉さんの商品を持ち去った奴なら、事件を目撃しているって事も、考えられますねぇ」と、鼠谷は、口元を綻ばせた。旨く行けば、一挙両得になるかも知れないからだ。
「刑事さん、どうやって、目撃者を捜すつもりなんですか? あの集合住宅には、配達の間、誰にも出会ってませんよ」と、猿吉が、表情を曇らせた。
「まあ、隣近所の聞ける所を当たってみるよ」と、鼠谷は、返答した。出たとこ勝負で、聞き込みをするしかないだろうからだ。
「それも、そうだな。時間帯によっては、住人も居るだろうしな」と、猿吉も、頷いた。
「今日のところは、このまま、署へ戻るつもりですので、捜査は、明日以降になりますかねぇ」と、鼠谷は、展望を述べた。緊急性は、無さそうなので、明日からにしても、良さそうだからだ。
「そうか。じゃあ、わしの方も、名簿の件は、明日以降で、良いんだな?」と、猿吉が、問い返した。
「ええ」と、鼠谷は、力強く返答した。成り行き上、こうなっただけの事なので、現時点で、急ぐ事でもないからだ。
「ふん、強気じゃのう」と、猿吉が、面白くないと言うように、溜め息を吐いた。
「いえ。僕は、そんなつもりじゃないんですけど…」と、鼠谷は、苦笑した。特に、虚勢を張っているわけではないからだ。そして、軽く一礼して、反転するなり、勢いそのままに、店先へ出た。
その刹那、「鼠谷、何を吹っ掛けられたんだ?」と、豚崎が、興味津々に、尋ねた。
鼠谷は、中での話を、掻い摘まんで話り始めた。
しばらくして、「あのオヤジも、相当、抜けてんなぁ~」と、豚崎が、あっけらかんと言った。
「う~ん。妙に、嵌められている気がするんだがな」と、鼠谷は、異を唱えた。破解石のように、猿吉も、嵌められているように思えるからだ。
「良いんじゃないか? たまには、そういう目に遭わされたってよ」と、豚崎が、にこやかに、口にした。
「おいおい。こんな所で、喜ぶなよ…」と、鼠谷は、窘めた。この場で、喜ばれるのは、少々、気が引けるからだ。
「あっ! そう言えば、そうだな…」と、豚崎が、白々しく告げた。
「わざとらしい…」と、鼠谷は、ドン引きした。猿吉の不幸を、心底、喜んでいるようにしか見えないからだ。そして、「何が有ったか知らないけど、そうやって、露骨過ぎるのもな…」と、苦言を呈した。かえって、見苦しいからだ。
「鼠谷、固い事を言うな。まあ、今回の件は、確かに、気の毒な事も、理解している。けれど、今回ばかりは、素直に喜びたいんだ」と、豚崎が、熱っぽく言った。
「だったら、早々に、立ち去った方が良さそうだぜ」と、鼠谷は、右手の親指を立てながら、後ろを指した。先刻から、殺気が伝わって来ているからだ。
その直後、豚崎が、顔面蒼白となり、「ね、鼠谷、それを早く言えよ…」と、声を震わせた。
次の瞬間、「刑事さん達。ここで、駄弁くってないで、さっさと帰って貰えませんかねぇ~」と、猿吉が、押し殺した声で、勧告した。
その途端、二人は、振り返り、愛想笑いを浮かべた。
「豚崎、説明も終わった事だし、そろそろ、お暇しようかね?」と、鼠谷は、場を取り繕った。一刻も早く、この場を離脱するべきだと察したからだ。
「そ、そうだな。後は、帰りながら、今後の事について、語り合おうじゃないか」と、豚崎も、呼応した。
「だったら、とっとと帰れぇぇぇ!」と、猿吉が、怒鳴った。
その瞬間、二人は、猛ダッシュで、来た道を戻った。程無くして、角を左へ折れた先で、立ち止まった。
「まさか、後ろに居たとはなぁ~」と、豚崎が、額に、汗を滲ませながら、口にした。
「お前、怒らせて、どうするんだよ! 下手すると、名簿の件は、ご破算になりかねないぞ!」と、鼠谷は、食って掛かった。豚崎の不用意な発言で、自分達が、やや不利な立場になった気がしたからだ。
「すまねぇな。あのオヤジの弱みを聞いて、つい、嬉しくなったもんでよ。と、豚崎が、口元を綻ばせた。
「この件の捜査次第では、他を当たらなきゃならないかもな…」と、鼠谷は、ぼやいた。正攻法では、教えて貰えない可能性が、大きいからだ。
「鼠谷、そう心配すんなって。あのオヤジは、守銭奴だから、一円でも損をする事を嫌う奴だ。商品の行方を押さえておけば、どうにでもなると思うぜ」と、豚崎が、屈託の無い笑顔で、助言した。
「確かに、商品の行方を押さえておけば、五分には戻せそうだな」と、鼠谷も、理解を示した。猿吉と交渉するにも、そこは、押さえておきたいからだ。
「だろ?」と、豚崎が、得意顔となった。
「そうなると、少々、人手が要るな」と、鼠谷は、口にした。ド田舎の警察署なので、人員が、限られるからだ。
「一応、出屁係長にでも、相談するか?」と、豚崎が、提案した。
「そうだな。上司だし、話を通しておかないと、面倒くさいからな」と、鼠谷も、賛同した。常に、機嫌の悪い上司なので、あまり、絡みたくないのだが、今回ばかりは、避けられないからだ。
「前の職場で、かなりの威圧行為をやったから、こっちへ、異動されたそうだぜ」と、豚崎が、語った。
「それは、ただの噂だろ?」と、鼠谷は、訝しがった。豚崎の情報源は、大抵、人伝の尾ひれの付いた噂に過ぎないからだ。
「噂だろうが、何だろうが、あの威圧的な言動が、物語っているだろ?」と、豚崎が、自信満々に、言い返した。
「う…。確かに…」と、鼠谷も、黙した。今回ばかりは、説得力が有るからだ。
「まあ、あの人が、最大の難関だろうな」と、豚崎が、溜め息を吐いた。
「確かに」と、鼠谷も、相槌を打った。出屁の許可を得られなければ、猿吉の件は、事実上、迷宮入りになってしまうからだ。
「あの人にも、弱点みたいなものでも有りゃあ、良いのにな」と、豚崎が、ぼやいた。
「前の職場に、知り合いは、居ないのか?」と、鼠谷は、尋ねた。異動前の同僚ならば、出屁の苦手な物を知っている筈だからだ。
「ははは。生憎、俺は、まだ、異動を経験していないんで、伝は無いんだよ」と、どや顔で言った。
「じゃあ、正攻法しか無いな」と、鼠谷は、即決した。あれこれ、策を弄するよりも、まともにやった方が、良さそうだからだ。
「そうだな。出屁係長の弱点を探すよりも、掛け合ってみるしか無いな」と、豚崎も、同意した。そして、「まあ、ピテじゃあ、電話番くらいにしかならないし、刑事劇みたいに、凄い経歴を持った奴でも、呼び寄せてくれると、ありがたいんだけどな~」と、願望を述べた。
「実際に、そんな奴が居たら、ピテよりも、迷惑かも知れないぜ」と、鼠谷は、冷やかした。問題行動を起こして、事件が解決する事など、有り得ないからだ。
「へいへい。確かに、仰る通りですよ」と、豚崎が、口を尖らせた。
「まあ、そういじけるなよ。ただ、俺が、そういう奴に、出会った事が無いって事なんだからさ」と、鼠谷は、取り成した。否定している訳ではないからだ。
間も無く、二人は、その場を後にするのだった。