眠らぬ魂、偶像の墓石
ーー願わくば神よ、彼女の雪のような純白を貴み、天に昇った彼女の魂に安らぎを、地に眠る彼女の身体にも安らぎを与え給え。
どうか彼女が天国においてますます神のご加護を賜れますよう……。
集った二十余の民衆を前に牧師が悲痛な面持ちでこう述べた。
日没を眼前に望む司祭は神々しい。
目の前には建てられたばかりの墓石がある。
花が添えてある。
遠くから眺めていると、そこに集った人々も墓石や花と同じように死者へ添えられているようにみえる。
私には、人々の偽善の嘆きが長く尾を引いているのを感じられる。
ーーサラはきっと天使になれますよね。だってあの子ほど綺麗で心も優しい子はいなかったもの。きっと神様が導いてくださるよね。
ーーきっと何もかもがうまくいくでしょう。大事なのは辛抱すること。でも取り残された私たちは弱いわね、ただこうして泣いているだけ。目の前には冷たい土の中に眠らされたサラがいるのに。
ーー祈りましょう。神は見てくださっています。サラの祈りも私たちの祈りも届くはず。さあ。祈りましょう。
ーーええ。
人々は思い思いに云いたいことを云っていた。
本当の意味で彼女の死のために泣くものはいない。
誰もが彼女が死んだことによって傷ついた自分の心のために泣いている。
私には、人々の偽善の嘆きが長く尾を引いているのを感じられる。
日が落ちた。
松明が灯された。
祈りの言葉も捧げられた。
人々は足早に帰っていった。
泣いて祈ってたくさん疲れたから、隣人に気づかれぬようこっそりと贅沢な夕飯を食うのである。
彼はもう人々の嘆きを聞かなかった。踵を返してその場を立ち去った。その血走った目からこの世界の夜の闇という闇が拡がっていた。
○
舞台はパリのモンパルナスである。
ラスパイユ通りが南北を貫く雑多な街の誇りはモンパルナス墓地であった。
今から二十四年前、すなわち一八二四年に設立したモンパルナス墓地は緑豊かな土地であり、その平和な死者たちの寝床を、厳しい天使の像が肉体を躍動させ全四方を睥睨し守り抜いている。
それらの天使は生命と屍人を慈しむために存在する。
それゆえにこの墓地は聖なるものが宿っていると思われた。
モンパルナスの住人はやがてこの墓地に偉大な人間が休むことを予期していた。
ーー連ねてゆけば枚挙にいとまがないが、例えばサンサーンス、シャルル・クロス、シャルル・ボードレール、ジャンポール・サルトルが後にここへ眠る。
新たな死者がモンパルナス墓地に埋められた日の夜遅く、婦人が針仕事をする手を休めて子守をし、ムッシューがランプの火をかき消して思索もうつろに床へ着くころ、彼はモンパルナス墓地へ猫のように忍び入った。
その手に鍬を握りしめている。
名をフランソワ・ベルトランという。
フランソワは月光にびしょ濡れたこの墓地にある夢を抱いていた。
むせ返るほどに香しい花の香り……その艶やかな花弁……稲穂のように輝く長い髪……二度と開かれることのない瞳の中にうつりこむ自分……。
つまり美しい女の、まだ残んの温もりを感じさせるかもしれぬほど新鮮な屍体を穢すという、これ以上なく甘ったるい愉悦の夢である。
それは現実の中で無理をせずに行える(とはいえかなり危険な橋を渡っていることの否めない)ソドム的行為の一つの極致であった。
フランソワは幾度となく眠れる美女の屍体を穢してきた。
モンパルナス墓地において、埋められたばかりの若い女の墓が覆され、穢されて切り刻まれた後の遺体が放置されているというニュースは国中を俄かに騒がしていた。
フランソワも新聞でそれを読んだ。
警察が警備を厳戒にしているとも知った。
それでもフランソワは今日墓地へ来た。
埋められたばかりの女がいるからである。
ここに一挿話がある。
昔フランソワには恋い慕う美しい娘がいた。
歳を同じくする二人はなかなか上手くいかなかった。
その日フランソワはルネ・コティ通りを上ってくる彼女を見出した。
初夏の西日を浴びるプラタナスの木陰で彼女を待った。
プラタナスの幹はらい病人の腕のように斑入りだった。
緑の木の葉はうんと背を伸ばして光を吸っていた。
彼女はフランソワを見つけるや否や、手に抱えた花を胸に抱き寄せ、訝しそうに眉をひそめて歩幅を広げる。
ーーやあマリア。今日の髪飾りはとても似合っているね。
ーーあっちへ行って、フランソワ!
ーーマリア。まだ僕のことを赦してはくれないのかい?
ーー……。
彼女は何も答えなかった。
プラタナス並木の地面を睨みつけなかがら大股でフランソワの傍を通り過ぎてゆく。
一瞬だに見られた彼女の横顔は神々しいまでに美しかった。
その瞬間だけが切り絵のようにしてフランソワの脳裡にまざまざと焼き付けられて、彼の中で神聖さを付与され、永遠の時間を与えられていた。
しかし、事実、彼女の横顔は風のように透明かつ素早く通り過ぎていったのだ。
フランソワは彼女の背中に揺れる金色の束髪を眺めていた。
なぎ風にゆらめくブロンド・ヘアーは西日にいよいよきらめいていた。
白いブラウス越しの彼女の体が迅速に遠のきながらもフランソワの視線をはねつけるように絶えず強張っているのが感じられた。
フランソワはその一月前に彼女を半ば強引に破瓜していた。
彼女は美しい少女で、処女だった。
今にも溶け崩れてしまいそうな氷の美しさが彼女を護っていたに違いない。
溶けそうな額、溶けそうな瞳、溶けそうな唇、溶けそうな胸、溶けそうなくびれ、溶けそうな脚。
男の熱っぽい視線が注がれるだけでそれらはいともたやすく融けて消え去ってしまう。
そういう個々別離した薄氷の美の集合体が彼女だった。
だからこそフランソワはより一層の寒気凛冽さで彼女を捕らえた。
あまりの冷たさに彼女の氷の身体に霜がおりて、その美しさを外面的に損なうどころか、内面にも劣化をもたらしめるような、そういう類の劣悪な凛冽さでもってして。
彼は一切の興奮を己に禁じ、行為そのものを人間を含む動物の自然から逸脱した、人工的な善意のものとした。
何もフランソワに快感を与えなかったし、行為の記憶は葉巻の煙となって空中に吐き出された。
彼女はというと……身体はもとより精神が見るも無残に霜ついた。
霜焼けが速やかに心を覆うて疼き、その痒さがたまらず身に滲みるようであった。
それはフランソワの思いを揣摩したことによる弊害だった。
彼女はフランソワと共にした夜の過度の冷たさから霧を纏うようになった。
そういうわけで、彼女はフランソワを嫌悪というよりは過度の愛情から遠ざけるようになった。
過ぎたるは及ばざるがごとしで、フランソワの虐待的なまでの人工的行為と愛情は彼女の氷の感性と共鳴していたが、共鳴があまりにも正確かつ強力であるので、彼女の薄氷の上に幽霊のようなフランソワの冷気が厭わしく感じられるようになったのである。
彼女は凍った川の下に鎮まる流れのようなものをこそ望んでいたのかもしれぬ。
行為は確証たりえかったから、フランソワにとっても彼女にとっても目に見えぬ確証は存在せぬも同然だった。
フランソワと彼女の恋はそうして散った。
しばらくして彼女はプラタナスの木に首を吊った。
発見者は彼女の縊死体を人形か何かと見紛うたらしい。
それほどに彼女は美しく身なりを繕ってから死んでいた。
彼女の屍体は生前よりも肉体的には冷たく完成していたが、屍体の色濃く落とす影が肉体の腐敗よりもむしろ腐敗していて、白衣と対照的なコントラストをつくりだしていた。
フランソワは柩の中に収まるその対照をみた。
そこでは事象が遥かなる高みにあって象徴を見下ろしていた。
もうおしまいだと思った。
その時だ。
フランソワは彼女の柩の背後に、天へと続く階段が現れて、その階段を光り輝く霊が登ってゆくのをみた。
また別の霊が天から階段を降りてくるのをみた。
天はアルファとオメガの場所で、そこは光の空洞ともいえるものだった。
彼は霊感にうたれてある教えを思い出した。
ーー「主の霊は三日の後に蘇る」
フランソワが神を冒涜するようになったのはそれからだ。
三日が経っても彼女は蘇らなかったためだ。
彼は全くそれを理解しなかった。
主が金甌無欠を非難されて死んだように、彼女は絶対の美しさを否定されて死んだはずであった。
美から醜への墜落の過程、生から死への墜落の過程は同じであった。
主が霊によって人として生きて死に、蘇ったのであるなら、霊によって生きて死んでいった彼女もまた甦らされるはずであった。
しかしそれは起こらなかった。
なんという信仰への侮蔑! なんという霊の差別!
しかしなんといってもフランソワを失望させたのは彼女の死に方にあり、全人類の救済のために主が"象徴的"に蘇ったのならば、彼女もまた人類の"象徴"の一つとして死ぬべきであったと彼は考えた。
それを彼女は完全に間違えて、一人の悲劇的な運命の女として死ぬことを選んでいた。
あれほどに象徴性を崇拝していた彼女がそれを見抜けぬとはなんたる誤算!
彼女がただの人間であったことをフランソワは悟った。
そして彼女の魂が神の一部でないのなら、フランソワにとってはすなわち神が存在していないことにもなるのだった。
彼が彼女の遺体の背後にみたものは紛れもなく神だったのだから。
あの時に天への階を登り下りしていたのは確かに彼女の霊であったのだから。
フランソワは神が彼女を連れ去ったのだと結論した。
神の傲慢さをそこにみた。
もとを辿れば聖書の神はイスラエルの軍神に過ぎぬのである。
神は忌むべき存在となった。
ある時フランソワは思い立ち、シャベルを手に彼女の墓を訪れた。
暁闇のパリは疾走する彼へ自在に道を開けた。
墓石がぽつねんと佇んでいた。
なにか不吉な予感に苛まされる。
墓石を渾身の力で押し倒し、下の土を掘り返すと、柩に到達した。
柩の上の土をすっかり払いのけ、釘打たれた蓋をテコをつかって強引に開けた。
四方の釘の抜けると同時に蓋が吹き飛んだ。
彼は我が目を疑った。
そこにはあの日彼女を包んでいた絹の装束のみが残されていた……。
挿話は以上で、話は現在のフランソワのところへ戻る。
フランソワの時代、マルキ・ド・サドはまだこの世に知られていなかったが、奇しくも両者は似たような思想性質の持ち主であったため、いみじくもサドはフランソワの思想をこう言い当てている。
もっともそれはフランソワが無神論に傾倒したために起こったことである。
サド侯曰くこうだ。
ーー「わたしは自分の気紛れに奉仕させるため、数限りない些やかな秘密の放蕩を隠蔽するためにこそ、女を求めているのです」
フランソワにとってこの種の猟奇的な放蕩は性欲と思想の隠れ蓑だった。
屍体の女に爛れることが何を意味するか?
その答えはマリアの死とその後の出来事から推測されよう。
フランソワはあの事件爾来、見せかけの放蕩よりも恐ろしい秘密を内に抱えていたのである。
死者を穢すことは彼にとって解放であり束縛でもあった。
魂の抜け殻に自らの生命力の象徴を注ぐことで、肉体に新しい魂を宿せはしないかと期待してみたり、また自分の行いはまさしく冷たい肉の業、土塊の業であり、どこまで行っても魂の温もりの見当たらない砂漠であると感じたから、存分に穢した後に女を切り刻んで棄てた。
全ての事象は彼の敵であった。
例えそれが生でも死であろうとも。
すなわち彼の背徳心をこれ以上ないほどに助長するものは神への敵愾心で、これこそが彼の最も重大な秘密だった。
神を畏れぬこと、神を侮蔑すること、それを行いつつも隠れ蓑にするにもっとも相応しいもの、それこそが屍体を冒涜することなのである。
彼は無神論に傾倒したが、以前の信仰を全く捨てされたわけではない。
しかし彼のわずかばかりの信仰心をして、それに対する反抗が、彼の情欲をいよいよ掻き立てることになるとは想像に易い。
しかしながら悪徳とはいつしか行為と目的は真逆になるものである。
生きるために盗んでいたものが、ついに盗むために生きるようになることが往々にして散見される。
悪は殊更にそういう類の性質を備えていた。反転の性質である。
フランソワの場合も見事に行為と目的が反転した。
神を侮蔑することが、屍体を穢すのにもっともらしい理由の秘密として位置付けられていた。
いつしかフランソワは、自分が、もっとも自分自身の憎んでいた"事象の世界"の住人になってしまったことに勘付いていた。
それを偲ぶたび、自分の終わりの近いことを殊更に悟るのであった。
フランソワは今日の夕方に埋められた女の墓元へ忍び寄った。
悪の感覚は完全に麻痺していたが、それでも屍体を毀す快楽を体が覚えているので、そこにほんのりと悪の意識がもしも香辛料のように振りかけられたとしたら、さぞかし刺激的な犯行となったであろう。
そういう体験をしたのはマリアの墓を掘り返した時のみであった。
真新しい墓が薄明かりの中に遠くみえた。
滑稽なほどにそれは"墓"だった。
霊もなければ当人もいない。
シェイクスピア曰く、「生きていた時は女だったが、かわいそうに今ではただの死人」なのである。
このただの墓石が死人を祀る霊験灼かなものとだれもが信じて疑わないという事実を滑稽と呼ばずになんと呼ぼう。
本当に祀るべきは物質ではなく魂なのである。
魂は物質ではなく観念の存在であるのだから、墓石などはただの偶像にすぎぬものであった。
フランソワは忍び足で的へ近づいてゆく。
踏みしめる一歩が土を蹴り返す。
呼吸が荒く熱く吐き出される。
墓まであと二十メートルである。
その時フランソワは踏み出した右の蹠に妙な感覚を覚えた。
明らかに土を踏む感覚ではない。
と思った刹那、爆発音と閃光が地面から炸裂した。
フランソワの体が宙に投げ出された。
シャベルは手から吹き飛んで、視界が暗闇の中で真っ白になって、何が起きたのかさっぱり理解できないまま、巻き上がる土塊と土埃と噴水のような水と共に地面へ倒れこんだ。
瞬間的に視界を取り戻すと、焦げ臭さと共に右脚に激痛を感じた。
目を見開いて脚を見た。
月明かりに照らされる我が身の右脚は膝から下を喪っていた。
地雷を踏んだのだ、と悟ってから間を置かず、肉片と脛の塊がボタボタと降り注いできた。
ーーああ! 痛い! 痛い! 痛い!
フランソワは絶叫した。
状況が理解されるにつれて痛みが加速度的に増して、のたうちまわらずにはいられないほどの、膝下で爆発が絶えず起こり続けているかのような地獄の激痛に悶絶した。
ーー痛い! 痛い! ああ神様! どうして! 痛い! 痛い! 痛い! 神様! 神様!
モンパルナス墓地を遥かにパリの隅々まで響き渡るような絶叫の中でフランソワは神を呼び続けた。
「神様! 神様! 神様!!」
血を撒き散らしながら月に向かって吼えた。
それでも神が全く無反応であるから、土を掴んで前へ進み、一歩でも近く月に近付いてゆく。
彼の形相は土埃の中で異形そのものであった。
しかし綻びの一つ一つから、なにかの慈愛を求める微かな救済心がちらちらと揺曳しているのであった。
神よ、と叫びながら彼が求めていたものはなんであったのか?
ーーああ! 主よ! 神様! 救いを!!
フランソワの周りには誰もいない。
フランソワの周りには何もない。しかし闇の中で月の光が穏やかに彼へ降り注ぐ。
私には、遥か遠くでなんとも悲しい苦しみの叫び声が長く尾を引くのが聞こえる。