第52話 拳法使いは魔を滅する
血みどろの大地に無数の死骸が散乱していた。
いずれも魔族のものだ。
千切れた四肢や破れた臓腑、潰れた生首などが転がっている。
一部の肉が跳ねながら、他の肉と結合しようとしていた。
しかし、密着したそばから崩れる。
再生能力の限界が訪れているのだろう。
肉片はやがて動かなくなる。
死骸の中央に立つ私は、頬の返り血を拭おうとして止める。
両手のみならず、全身が血塗れだった。
拭っても血を引き伸ばすだけである。
両手を上下させて、血を軽く振り払うに留めておく。
なんとも不快な感覚だが、どうすることもできない。
辺りにあるのは肉塊ばかりで、身体は洗えそうになかった。
滴る血を一瞥して、私は嘆息する。
(随分と殺したな……)
ここに待機していた魔族は殲滅した。
それなりに時間はかかったが、大きな怪我はしていない。
僅かな掠り傷も持ち前の治癒力で消えていた。
体力的な部分も気にするほどの消耗ではない。
魔族の軍勢は、優れた膂力と特殊能力を武器に挑んできた。
確かにそれらは脅威となり得るが、彼らはそれだけが取り柄だった。
槍使いアブロや執事レノルドのように、武芸を磨いている者は少数派だったのである。
力任せに暴れる者達の対処は楽だ。
ほとんど魔力を使わずに排除できる。
それどころか、彼らの魔力を強奪することで、身体強化を連続使用できる程度の量を確保した。
これは嬉しい誤算であった。
私は返り血を払いながら歩を進める。
向かう先は既に決まっている。
遥か前方にある漆黒の城だ。
立体感が薄く、幻のような佇まいであった。
魔術で成立する建築物なのかもしれない。
城からは邪悪な気配が漂っていた。
目視できるほどの魔力が、黒い靄となって蔓延している。
かなり離れているにも関わらず、呼吸に不快感を覚えた。
あそこが魔王の居城だろう。
戦いの最中、魔族が飛び出してくるのを何度も目撃した。
今は静かに存在しているのみだが、奥に強烈な魔力反応を感じる。
(魔王はきっとあの城の中にいる)
直感的に理解した私は、奥歯を噛み締める。
魔族の軍勢など所詮は前座に過ぎない。
ここからが本番であった。
気を引き締めていかねばならない。
踏み出そうとしたその時、城の正面扉が開き始めた。
私は即座に足を止める。
黒い靄の魔力がさらに濃くなった。
ゆっくりと開いた扉から一人の魔族が現れる。
私は目を凝らして容姿を確かめる。
その魔族は背の高い女だった。
赤と黒のドレスは、遠目にも分かるほどに鮮やかだ。
まるで溶岩のような色合いで、煌々と揺らめいている。
やや長めの赤髪は、胸の辺りまであった。
顔は鉄仮面で覆われており、表情は窺い知れない。
手には黒い弓が握られていた。
濃密な魔力が込められているようだ。
特殊な力があるかもしれないため、気を付けた方がいい。
他に武器の類は持っていないように見えた。
(これ、は……)
鉄仮面の女は、尋常ならざる覇気を発していた。
一見すると自然体だが、空気を軋ませるような力強さを帯びている。
小心者は、その姿を見るだけで心臓が止まりかねないだろう。
命を奪い合ってきた者の風格を、余すことなく放出していた。
私は両の拳を握り込む。
意識を鉄仮面の女に集中させて足腰に力を送る。
散乱する死骸や、むせ返るような血の臭いは気にならなくなった。
いつでも動けるように神経を研ぎ澄ます。
微かに震えているのは、喜びだ。
鉄仮面の女は強者である。
紛れもなく一つの道を極めし者だった。
この世界で死合ってきた者達と同等――否、それ以上だ。
私が見てきた中で、間違いなく最強である。
一瞬の油断が死に直結する。
それを悟る私は、しかし喜びが抑え切れなかった。
(次から次へと強者と出会える。まったく、本当に素晴らしいな)
何十年もの失望と葛藤が、払拭されていく。
私の人生は、きっと異世界のためにあったのだろう。
そう思わせるほどの経験が連続している。
もっとも、舞い上がってばかりではいけない。
爆発寸前の内心を表に出さず、私は話しかける。
「魔王だな」
「そなたが勇者か」
抑揚に乏しい声音だった。
私の問いを否定する気配はない。
彼女が荒野の魔王で間違いないようだ。
纏う気配が何よりの証拠である。
魔王は静かに弓を持ち上げた。
引き絞るような動作に合わせて、魔術で生成された矢が番えられる。
ただの矢では到底届かない距離だが、魔王にとっては射程圏内なのだろう。
洗練された構えがそれを主張している。
彼女は冷たい声で告げる。
「構えろ。我らに会話は不要。殺し合うだけだ」
「待て。一つだけ訊きたいことがる」
「何だ」
「なぜ世界を滅ぼそうとする。侵略の果てに何を望むのだ」
それは前々から気になっていたことだった。
私は神から魔王の概要を聞いているが、詳しい内容は教えられていない。
腐毒の魔王とは異なり、荒野の魔王は理性を保っているので、凶行に走る動機を訊いておきたかった。
もちろん彼女と戦うことに変わりはない。
魔王と勇者は、相容れない関係である。
そこまで理解した上で、彼女の真意を知りたかった。
魔王は弓を構えた姿勢で沈黙する。
私の考えを見極めようとしているのか。
やがて彼女は口を開く。
「――醜き人類共から魔族を存続させるため。魔王になった身で願うのは、それだけだ」
答えを述べた魔王は、躊躇いなく矢を放った。