第1話 拳法使いは人生を悔いる
満月の浮かぶ夜。
私は高速道路の縁に立っていた。
吹き抜ける風が、紅い上着をはためかせる。
老骨の身に染みる寒さだった。
もっとも、その程度で動きが阻害されることはない。
たとえ灼熱や極寒に襲われようと、ほぼ万全の調子を維持できる。
「…………」
少し視線をずらすと地上が見える。
それなりの高さだが、恐怖は微塵もなかった。
落下したところで死ぬわけでもない。
高速道路を通りかかる車が、たびたび奇異の目を向けてきた。
たまにクラクションを鳴らされるも、今の私にとってはどうでもいい。
別に気にすることではなかった。
なぜ私がこのような場所にいるのか。
それは私が暗殺者で、始末すべき標的がここを通過する予定だからだ。
実に単純な話であった。
何も難しいことではない。
もう数十年と繰り返してきたことだ。
朝食の献立を決めるように、日常の一環と化している。
(そろそろだろうか)
遥か遠方に白いリムジンが見えた。
前後に護衛車を引き連れてこちらへ接近しつつある。
私は目を凝らしてナンバープレートを確認する。
間違いなく標的だった。
私は縁から下りると、静かに歩みを進める。
そのまま道路の真ん中まで移動した。
ちょうどリムジンの進路上で停止する。
間に無関係な車両はおらず、正面から対峙する位置だった。
「…………」
護衛車とリムジンが急速に接近する。
途中、先頭を走る護衛車の動きが僅かにぶれた。
私の姿に気付いたのだろう。
一瞬の逡巡を経て、護衛車は加速を始める。
私を轢き殺すと決めたようだ。
エンジンの凶暴な唸りが夜空に響き渡る。
私は全身の力を抜き、自然体を意識した。
その状態で右脚をほんの少し浮かせる。
護衛車はすぐそばまで迫っていた。
勝ち誇った運転手と目が合う。
口内で光る銀歯まで視認できる距離だった。
「――行くぞ」
私は目を見開いた。
精神を静から動へと切り替える。
構えを取りながら、真っ直ぐに震脚を繰り出す。
踏み下ろした足が道路に陥没した。
そこを起点に、前方へと亀裂が走っていく。
破壊の波が伝播し、目前まで迫る護衛車を衝撃で打ち上げた。
護衛車は縦回転をしながら宙を舞う。
後続のリムジンと護衛車も同様に跳ね上がった。
二台の護衛車は激しく横転し、その弾みで高速道路から落下する。
下方から衝突音が聞こえてきた。
あの具合だと、中の人間は死んでいるだろう。
道路全体が軋み、大きく揺れて傾いた。
やがて亀裂の走った地点が丸ごと崩落する。
震脚の衝撃に耐え切れなかったのだ。
崩落部分の先では、無関係な車両が慌てて停車していた。
紙一重で落下を免れている。
あと少しブレーキを踏むのが遅ければ、地面に衝突していただろう。
「…………」
私は無言で振り返る。
少し先には、ひっくり返ったリムジンがあった。
車体から白煙が上がり、スーツ姿の男達が這い出そうとしている。
私は歩いて近付いていく。
その間に男達が車外に抜け出した。
数は三人で、揃って小銃を携えている。
照準は当然のように私を狙っていた。
「死ねェ!」
口汚い言葉と共に、一斉射撃が始まった。
私は弾丸を凝視して軌道を見切る。
躱すまでもない。
命中する弾だけを四肢で受け流していった。
「何……っ!?」
「嘘、だろ……?」
「どういうことだ……ふざけんじゃねぇよッ!」
動揺する男達は、それでも必死に射撃を続ける。
しかし、すぐに弾切れに陥った。
引き金を引いても、虚しい音が繰り返されるばかりであった。
私の被害と言えば、破れた衣服と無数の掠り傷くらいだ。
両腕の傷は、僅かに血を滲ませている。
左右の脚も同じような状態だった。
(……衰えたな)
私は自らの老いを痛感する。
悲観したくなるも、生憎とそのような場合ではない。
今は依頼を遂行するのが優先であった。
私は跳躍し、男達の一人に狙いを付ける。
その男は銃の弾倉を換えようとしていた。
焦りで手元が狂い、難儀しているようだった。
私はその無防備な肩口に手刀を割り込ませる。
指先が男の胸部までを両断し、血飛沫を迸らせた。
私はそれを真正面から浴びる。
紅い上着にさらなる深みが加えられた。
「ぎ、が、ぁっ……」
男は奇妙な声を洩らしながら地面に沈む。
そのまま立ち上がることもないまま息絶える。
私はリムジンを乗り越えると、二人目の男へと襲いかかった。
「うおらぁッ!」
二人目は果敢に殴りかかってきた。
とは言え、素人の動きである。
目を閉じていても当たらないだろう。
私は拳を掴むと、関節を無視して捻り上げる。
「い、ぎぇ、だだだだだだ!」
男は銃を捨てて悲鳴を上げる。
私はその顔面に掌打を叩き込んだ。
男の頭部が爆発し、脳漿が木端微塵になって飛び散る。
首から上を失った男は、糸が切れたように倒れた。
「ふむ」
私は三人目を見やる。
男は小銃をこちらに向けていた。
再装填が完了している。
仲間の死を無駄にはしなかったようだ。
「うああああああああっ!」
絶叫に合わせて小銃が火を噴く。
私は這うような姿勢で接近して射線から外れた。
そこから小銃を蹴り上げる。
「あ、え……?」
無手になった男は、呆然と己の両手を眺める。
すべての指が折れていた。
私に小銃を蹴られた際に負傷したのだ。
私は男の首に手を添え、瞬時に圧迫する。
男は意識を消失して崩れ落ちた。
その首を踏み折って命を奪う。
「…………」
三人を殺した私は、リムジンに視線を移す。
車内にまだ気配が残っていた。
荒い息遣いも聞こえる。
私は屈んで車内を覗き込む。
そこには、拳銃を構える壮年の男の姿があった。
事前に渡された写真と同じ顔だ。
すなわち此度の依頼の標的である。
「く、来るなッ!」
吠える男が拳銃を発砲した。
私は弾を指でつまみ取る。
至近距離だが問題ない。
こういった不意打ちにも慣れている。
「くっ……!」
男は驚愕するも、続けて射撃を行ってきた。
私は残る指で弾丸を挟んで止めていく。
そして、弾切れが訪れた。
「助けてくれ! いくらで雇われたんだ、言ってみろ! 俺はその五倍……いや、十倍は出してやる! だから――」
男の命乞いを無視して、私は弾丸を捨てる。
指先が火傷し、爪が少し割れていた。
赤くなった皮はめくれている。
昔なら無傷だったが、やはり老いには勝てない。
私は底部を晒すリムジンによじ登った。
そこへ拳を打ち込む。
リムジンが元の五分の一ほどの厚さまで圧縮され、真っ二つにへし折れた。
殺し切れなかった衝撃が、道路に亀裂として放射される。
またもや道路の一部が崩落した。
構えを解いた私は、変わり果てたリムジンを見下ろす。
道路との隙間から腕がはみ出していた。
じわじわと血が広がっていく。
それを確認した私は、一度も振り返らずにその場を立ち去った。
標的は無事に始末した。
ここに長居する意味もない。
いずれ騒ぎを聞きつけた警察がやってくるだろう。
後が面倒なので、なるべく鉢合わせしたくなかった。
そうして私が移動した先は、小さな公園だった。
先ほどの現場からは離れている。
(この辺りまで来れば大丈夫か)
私は端のベンチに座った。
そこで呼吸の乱れを自覚する。
この程度のことで疲労するとは、我ながら本当に情けない。
他人にはとても見せられない姿であった。
自己嫌悪もそこそこに、私は夜空を見上げる。
これから私は帰宅する予定だった。
翌朝には、暗殺の報酬が振り込まれているだろう。
目も眩むような額だ。
使いもしない大金である。
その金で生活するうちに、悪党から新たな依頼が来る。
また別の悪党を殺す仕事だ。
同じ時期に依頼が被った場合は、その日の気分で一方を選ぶ。
選ばない時はない。
週に一度の感覚で、私は悪党を殺し続けてきた。
ここ数十年の習慣である。
「……虚しい」
私は一体何をしているのか。
齢九十の老人にもなって、陰湿な暗殺者とは。
それも玩具を持っただけの小僧共を叩き潰す作業である。
誇りや仁義など欠片も存在せず、残るのは汚れた金と老いの自覚だけだった。
(私はこのような日々を送るために拳を磨いてきたのではない)
技を極めし武人と死合うためだ。
血潮が沸き立ち、命を削る戦いを求めている。
それを夢見て果てしなき鍛練を積んできた。
しかし、現実は非情だった。
私は、ただの一度もそのような瞬間を味わったことがなかった。
誰も彼もが銃や爆弾を使う。
或いは戦車や戦闘機だ。
私は生涯において様々な国を渡り歩いてきた。
軍人を志したり、傭兵として名を馳せたこともある。
武術を習う者達と邂逅したこともある。
だが、私の心を躍らせるような相手と出会うことはなかった。
そうして未練を断ち切れず、今の私は闇社会に身を置いている。
何かの奇跡で目的が果たされるのではないか。
そんな淡い期待を抱いて生きてきた。
どうにか死ぬ前に望みを叶えたい。
老い先僅かな私にとって、それだけが願いであった。
「…………」
深く長い息を吐く。
身体が重たい。
疲労ではなく、精神的な要因によるものだろう。
私は目を閉じる。
夜明けまで少し休もう。
心が摩耗していた。
情熱が失せ、今にも枯れようとしている。
考えることをやめた方がいい。
今は休息に専念したかった。
雑念を追い出し、全身から力を霧散させる。
私の意識は、奥底へと静かに下降していった。