先輩と後輩
まぁ要するにそんな感じで
私の先輩はおかしな人だ。
いつもはぽけっとした間抜け顔をしているくせに、たまに、本当に時たまに、私でなくてもギョッとするくらい、誰かの行く末をばっちり言い当ててしまうのだ。
それこそ、この人は本当は、未来から来たんじゃないかと思うくらい。
先輩にこの話をするのは今日で三回目くらいだったと思うけど、この話をすると、先輩は必ず、ニコニコと笑いながら決まりきった台詞を返してくる。
「ほら、私は釈迦みたいなもんだから」
相変わらず腹の立つ笑顔で先輩は言う。
ガムシロップとミルクが大量に溶けたコーヒーを飲みながら、私はしかめ面で頬杖を突いた。
先輩はニコニコしながら続ける。
「だから悟りの一つや二つくらい開いてるのが普通だろう」
どうやらこの問答ができてよほど嬉しいと見えた。
まったく、どうして私は休日にまで、この人と顔を合わせなきゃならないんだろうか。
「悟りが開けてれば、私のことをストーキングするのも楽チンですか?」絶対会わないと思ってたのに。
「だから偶然だって」
先輩はチーズケーキをフォークでつつく。
「私に言わせてもらえるなら、君こそよくこの店を見つけたね?」
どうやらケーキはまだ食べないらしい。
湯気の立つコーヒーに息を吹きかけながら先輩は口元でカップを傾ける。
「あちち……」無理しなくていいのに。「うまいでしょ、ここの」
「はい?」確かに美味しそうだ。
珈琲豆のいい香りがベールのようになって店を包んでいる。
「だから、ここのコーヒー。美味しいでしょ?」
「紅茶派です」嘘だ。
先輩は「あらそう」と言って、なんでもない様子で私から視線を外す。
「今、そんなに甘くしたら台無しだって、思ったでしょ?」
「は」ぎくり。「いや、まぁ、ええ、はい」
この人はなぜ分かるのだろうか。
「いつもはブラックだったりするけどね、今日は特別」
ボーッとした目で先輩がそんなことを言う。
店内に置かれたストーブを見ているようだ。
ストーブの中では焚べられた薪が燃えている。
……よくよく考えたら、こういう店に「先輩がいないわけがないんだ」と思った。
もしかしたら私は、なんとなしに、所謂そういう、この人のぽけっとした面影を求めていたのかも知れない。
「行きつけの店にまで来るなんて、後輩ちゃんはよっぽど私のことが好きなんだなぁ」
前言撤回。
なんでやっと見つけた良さげな店にこの人がいるんだ。いなければもっと良かった。最高だったのに。
よりにもよって、こんなにいい日に。
先輩は相変わらずボーッとしたまま、フォークで刺したケーキの欠片を口に運ぶ。
「不機嫌そう」
「先輩がわざわざ相席してきたからです」
「だって君がいるんだもの。するでしょ」
落ち着いたその口調に腹が立った。
私は、私は、今こんなにも、色々といっぱいいっぱいだ。
「……一年半だっけ」
先輩の声が急にはっきりしたものになった。
薪ストーブの方を見つめていた目が私の方を向く。
瞳の奥で、何かが燃えていて、何かをユラっと燻らせているように見えた。
「どうだった?」
肩の力がなんだか抜ける。
「先輩の方こそ。大変だっーてボヤいてたそうじゃないですか」
この人が私にずっと聞いて欲しかったのは、こんなことなのだろうか。
「そりゃ、大変さ、新しい環境なんだから」
その割には、楽しそうに言う。
「でも慣れたらあとはもう、楽しむだけだ」
この先輩は確か、大学には行かず、専門学校に行ったはずだった。
何かと自分に厳しい人だから、大学という環境の何かが許せなかったのだろう。進路のことで、同級生と随分モメたという噂を聞いている。
この人のことだから、大学に行って、どうにかなってしまう皆のことが見えたりしたんだろう。
それはどんな気分なのだろう。考えてみても……分かるものではないけれど。
この人はこの人なりに、そのどうにかなってしまう皆のことを、どうにかしようと思っていたのだろうか。
久しぶりに見た先輩はなんだか垢抜けていたけれど、その分どこか歳をとって見えた。
今この人は幾つだっけ、なんてことを思う。
「……実は今日で十九になる」
すると先輩はまたも見抜いたらしく、そんなことを言った。
「困るよ最近、どこに行っても五つは上に見られてさ」
なんて普通な悩みだろうか。
「仕方ありませんよ。先輩は釈迦ですから」
物言わず、先輩はストーブを見つめた。
窓が結露で真っ白だ。
真っ赤に燃える炎を一緒になって見つめると、なんだか、外だってそんなに寒くないんじゃないかと思える。
「私、大人になれるのかな……」
「なれますよ」
「あと一年だよ? たったのさ。たったの12ヵ月!」
そういって、先輩は甘ったるいコーヒーを飲んだ。
「でもあと365日あります」
薪が炭に変わって、崩れた。
「それ、私が良く言ってたやつだ」
悲しそうに先輩が笑う。
「ええ、本当に。腹の立つ言葉ですよ」単位変えただけじゃん。
そうやって、いっぱい時間はある、なんてた言ったって、一年は一年だ。一年もあるし、一年しかない。それが一年だろうと、12ヵ月だろうと、365日だろうと、そんなことは些細なことだ。
「だから、いつも先輩言ってたじゃないですか。あと一年あるんですよ」
それが長いかどうかなんて、この人にはどうだっていいんだ。この人はそういう人だ。
口に含んだ紅茶は苦かった。
「君にはまだ二年あるんだね」
「羨ましいですか」
「は?」
「羨ましいですか?」余裕な顔してると追い越しちゃいますよ。
飲み込んだ言葉を汲み取ったかどうか。私はそんなこと知るわけもない。
けれど先輩は目をぱちくりさせたかと思うと、微笑みもせずに目を細めた。
「正直ね」
温まった空気はどこか重く、湿っていて、なのにこの人は唇を舐める。
「今日ここに来たのは偶然じゃないんだ。出掛けてここに来ようって、昨日からずっと思ってた」
「追いかけて来たんじゃないですか」
「それもそうだ。本当は服を見たり本を読んだりしたかった」
「声を掛ければ良かったでしょ。優柔不断な先輩」
先輩は項垂れて、否定しない。ちょっとは言い返すと思っていた私は肩透かしを食らったけれど、そういえば、こういう人なんだったと思い出した。
この人は、いつだって、そうだ。不満があったって何も言わない。ただ少しだけ未来を語って、その通りになるのを黙って待っている。
私はそういうところが嫌いで――ああ、そうだ。
「何も無いんですか」
この先輩に何かを言ったところで、返ってくるのは手痛い未来の話だと思った。だから私はこうして話し掛けて、少しだけ、ほんの少しだけ先のことを知りたがったんだ。
先輩は、観念したようにはにかんで、零すように「やめてよね」なんて言ったと思う。
黙って紅茶を飲み続けると、もうカップの中は半分近く減っている。
「別に良いじゃないか。私は誰かに祝って欲しかったんだよ。こうして出掛けてさ、自分へのプレゼント、なんて言っちゃって。痛々しくって若々しいことをしてみたかったんだ」
甘ったるい珈琲を飲んで、先輩はストーブを見つめた。
「でも、駄目なんだ、昔っからそう。私は自分を祝ってやれない」
意外だった。
先輩は、自分で自分を祝福できる人だと思ったから。
「だからさ、引退したあの日みたいに。私は皆に祝って欲しかったんだろうね」
「皆って」
「みんな、みんなだよ。君がいるなら、ひょっとして、他のみんなもいるんじゃないかなって」
先輩の目は遠く、炎の中に何かを見つめて。
でも、見つけられずに揺らめいている。
「覚えてる? 私を胴上げしてくれたよね」
「先輩はパンツ丸見えでしたよ」
「げ……やっぱりか。やめろって言ったのに」
フォークで切り取ったケーキを咀嚼して、先輩は口を拭いた。
「最近、高校のことをよく思い出すんだ」
「意外ですよ。先輩はそういうの、嫌いだと思ってました」
「嫌いさ。大嫌いだよ。でもあの頃は楽しかったなって、今頃になって思うんだ」
だからどうしても想ってしまうと、先輩は言う。
「今ここにいる私が私なんだ」
「はい?」
「ん、ああ、聞き流して今のは。独り言だから」
「……」目の前に人がいるんだぞ。というのは飲み込んで。「じゃあ聞き流しますから。独り言を続けてくださいよ」
カップを揺らして、先輩は語った。
「楽しかった。本当に」
今は違うと言いたげだ。
「夏休みに皆でキャンプした。試合で勝つために色んなことをした。料理だって覚えたし、天気図だって書いたっけ。学校の裏山に登ってさ、みんなで……日が落ちるまでよく話した」
先輩の独り言は止まらない。
「でも、一番よく思い出すのは、一年の春休みだ。二年生になる前さ」
そこで、独り言は、独り言ではなくなった。
「私が入部を決める前でしょ」
「そう、君の入部のきっかけを作りに」
よく覚えている。
それは、馬鹿みたいな提案が始まりだったと、先輩はよく語ってくれた。
「とても長い時間を掛けて、一人で琵琶湖を歩いたんだ。もちろん路銀なんて多くない。荷物は重いから、満足に物を食べたのなんて最初の一日だけ。途中に雨に振られて着替えも台無しになった。下着も替えられない。お風呂なんて高くって入れない。その余裕は食べ物と水に使いたかった」
「なんでそんな馬鹿なことをしたんです」
「ん?」
「前から気になってたんですよ。どうしてそんなことをやったんですか?」
「あぁ、そこか」
少しだけ、目に影が指したように見えた。
「昔々の話だよ。きっかけなんて些細なことさ」
「私はそれが知りたいんです」
先輩の困った顔を、私は久しぶりに見た気がした。
「追加でなにか頼もう」
「そうですね。私は――」
「すいません、ブレンドを二つ。ホットで」
「ちょっと」
「いいだろ。君も好きになれよ」
ため息をつく。この人はつくづく勝手な人だ。
「それ、で……きっかけ。きっかけか」
残ったケーキを食べてから、先輩はまた、独り言を続けた。
「中学のころ、私はいじめを受けてた」
「えっ」
「根暗な奴だった。捻くれ者だった。だから皆の言葉はよく聞こえたし、嫌われてるのもなんとなく分かってた」
その目は光を失わない。
「誰かが言ってたよ。琵琶湖が綺麗だったって。そこでやったBBQが楽しかったって。女を作って楽しんだとかさ。くっだらねぇって思ったよ。でもすごく興味を惹かれた。琵琶湖には何かあるんじゃないかって思えた。その時はそれだけで、そのあとのことはよく覚えてない」
前の告白があまりにも重すぎて、頭に入ってこない。
「こうも思ったんだよね。コイツより素朴なやり方で、コイツらの何倍も楽しんでやりたいって」
「恨んでたんですか?」
「さぁ。よく分からない。恨んでたかもしれないし、羨んでたかもしれない。もしかしたら、そいつのこと好きだったのかもね?」
それはないと思うが。
「群れるのが嫌いだった私は、そのまま、誰も知り合いのいない場所へと逃げていった。逃亡は成功して、晴れて寮生活を始め、一年が経って……それでも私は一人でいた。ずっとね」
先輩が、私の先輩になる、ずっと前の話だ。
「顧問に言われてさ」
「あのお爺ちゃんにですか……」
「そうそう。部員は私一人だったから、何かして部員をいっぱい入れないと廃部になっちゃうって。そしたら、私の頭の中に、琵琶湖のことが浮かんできたんだ」
空気はどこか、不気味なくらい湿っていた。
「今の私なら、楽しんで歩けるんじゃないかって」
「……先輩は、楽しかったって」
「ああ」言ってから、悪戯っぽく笑って。「あれね、嘘だよ」
「え!?」
「嘘だよ嘘。ぜーんぶ嘘。楽しいわけないじゃん。どれだけ歩いたと思ってる? 辛かっただけだよ」
「で、でも、先輩はあの時……」
「言えるわけないでしょ。辛かったなんて言ったら君は入った?」
「それは」たぶん、入部してない。「そう、ですけど」
「でもね、一つだけ本当のことがある」
真っ直ぐに私の目を見て、その人は言った。
「君がいるなら、残りの道程は楽しいだろうなって思った」
先輩はずるい。
「君達がいてくれたら、残りの二年は楽しいだろうなって。捻くれ者が、心からそう思えた」
先輩は、ずるい。
「どうして」
「一人は寂しかったから」
目の前に置かれた珈琲のように、この人の心は底が見えない。
「ずっと一人で歩いて、どんなに心細くても、一人で歩くしかなくて。この道はどこまでも続いているのに、誰もいないのは寂しいだろ」
「また訳の分からないことを……」
「聞けって。考えたんだよ、その時に。何せ時間はいっぱいあった。状況も似てた。中学の頃とね。自分が望んだかどうかの違いはあるけど、私は言われの無い悪意みたいなものを受けて、一人でずぅっと歩いてたわけだ」
先輩はニコリともせずに、そこで一旦言葉を切って、珈琲にまたミルクを入れた。
「どうして歩けたんですか」
私のそんな疑問を受け止めるために、そうしたんでしょう。なんて、口が裂けても言えないけれど。
「友達ができたから」
先輩はカップを揺らした。
「一年間が楽しかったから。過去も未来も、僕の心も全部忘れて。そうして過ごした一年間が、私の心を支えた。一人でいると思っていたのに、私の心は独りじゃなかった」
濁った水面に、その瞳は映らない。
「笑えるだろ? 一人で楽しんでやるなんて啖呵切ったのに、私を支えたのは友達だったのさ」
「別に、不思議じゃないと思います」
「私にとっては不思議だったの」
「そうさ」と、先輩は、独り言ちる。
その言葉はなぜだかとても重苦しい。私の知る先輩とは似ても似つかず、思わずストーブへと目を向けた。
どうやら先輩も同じように、ストーブをぼぅっと見つめている。
「ねぇ、この後どっか行こうよ」
「……どうしたんですか急に」
「急ってことないだろ。君は予測してたんじゃない?」
ズバリだ。先輩に見つかった時点である程度分かっていた。
けれど、今はまだダメだ。
「なんにも答えになってませんから。言いたいこと全部言ったら考えてあげます」
「あら、そう……仕方ないか」
これで、先輩ともお別れかな――
「じゃあ付き合ってもらおうかな」
「はぁ……」
「あはは、怒った顔」
「…………お好きにどうぞ」
私は珈琲を飲むことにした。
「今でもさ、たまに思うんだよね。あれは楽しくなかったよ。ああ。一人で琵琶湖をほとんど歩いたって、なんにも楽しくなかった。それこそいじめてきたやつらの言う通りで、世の中ってやつは独りに優しくできていない。一人で考えても仕方ないくせに、じぃっと考えてきた僕には何故か、一人で考えてるやつのことが分かるようになったんだ」
「……悟りですか」
「みたいなものさ。繋がってない人のことが少しだけ予測できるようになった。余りにもかけ離れてるってことがさ」
この先輩の言うことは、いつもながらよく分からない。
まぁ、これでいいのだけど。私の先輩は、やはりそういう人で、私には予測できないことを言う人なんだ。
だから、私は黙っていることにした。
「君を、君たちを見てると、思うんだ。この人達は、私の過去なんて想像も出来ないんだろうなって。過去の私が何を思っていたかなんて、まったく想像も出来ないんだろうなって」
「先輩は、できるんですか」
「できるさ。少しでも話せば分かるとも。君が母親を好きだってことも知ってるし、父親を良く思ってない事も知ってる」
「ちょっとなんで知ってるんですか」
「それが『普通』ってやつだからだよ。君は明るいけれど、棘があった。誰かを嫌ってるのなんて一目見れば分かるもんさ」
恐れ入る洞察力だと思いながら、隠し事はしないでおこうと心に誓った。
「克服したってこともね。……とにかく、私があの春休みで得たのはこの意味の無い悟りみたいなものと……自分と他人はどうも違うってことだけ」
空気は一段と重くなっていく。
「でも、それこそ普通のことなのさ。一人だっておんなじ人はいやしないんだよ」
「悟りは普通じゃないでしょう」
「さて、ね。どうかな。後輩ちゃんだって一つや二つくらい、持ってるんじゃない?」
そんなわけないだろう。そう答えるのはなんだか癪で、強がろうと決めた。
「そうでしょうね。この喫茶店も、一つの悟りでしょうよ」
「だよね」
そんなわけないだろう。
何度だって言える。そんなわけがないだろうと。こんな冬の寒い日に、雪まで降ってるのに、あれだけ雨も風も雪だって嫌いで、晴れた日にしか山登りしようともしなかった先輩なのに。
よりによって今日ここに、私に会おうと狙ったかのようにいるなんて、誰も思わない。
「……私の先輩はおかしな人です」
「え?」
「いつもは間抜けな顔してるのに。本当にたまに、未来から来たんじゃないかってくらい、私たちのことを言い当ててくる」
「…………」
「貴方はおかしな人ですよ。だから自信持ってください」
先輩は困った顔をする。
「それが見たかったんです」
「はは……敵わないな君には」
「独り言は、終わりました?」
「うん。大体は」
「じゃあ」
僅かばかり残った珈琲を飲み干して。
カップはかちゃりと音を立てた。
「付き合いましょう。今日は貴方の誕生日ですから」
――END……?