狂った帽子屋2
「終わりだわ――あなたがね」
アリスは先程まで動かなくなった――と思わせた右腕を伸ばし、あるものを掴み取る。そして、帽子屋の首筋に向かって突き刺す。
「ぐ――ッ!」
帽子屋は首筋に走った痛みで握っているナイフを手放す。帽子屋の首筋にはアリスが突き刺した――小さなフォークが突き刺さっていた。
支えを失ったナイフは重力により落下し、机に突き刺さる。アリスは帽子屋が手放したナイフを手に取り、帽子屋の心臓めがけて――
「――チェックメイトよ」
突き刺した。突き刺したナイフからは帽子屋の心臓の鼓動が微かに感じられる。
急所を貫かれた帽子屋は血を吐きながら、力なく、その場に倒れる。倒れる際に、アリスはナイフを握ったままだったので、自然と胸からナイフが引き抜かれた。
引き抜いた部分から、大量の血が溢れてくる。狙いであった心臓を貫いたことを明確に示していた。
「はは、まさか私が殺られるとはね……」
帽子屋は力なく笑う。倒れている帽子屋をアリスは冷めた目で見下ろす。
「あなたの敗因は私を子供だと侮ったこと。力のこともそうだけど、あなたが思っているよりも、私は賢い。それと、あなたは強い者がいないと言った。でも、それは間違いだわ。だって私は――化け物を相手したことがあるのだから。たかが人間ごときに負けるはずがないわ」
アリスの力を侮ったこと――それが帽子屋の敗因であった。
力で負けている。それはアリスも理解している。だからこそ、アリスはその場で最善と考えられる戦い方を導き出す判断力で勝つ方法を考えていた。
俊敏な判断力によって、アリスは自分よりも強大な化け物を討ってきた。それも一度ではない。物語を何度も繰り返し、何十と、何百と化け物を倒してきた。
それに比べれば帽子屋など、たかが人間。アリスが戦った化け物よりも考えがわかりやすく、力も弱い。アリスにとって帽子屋は取るに足らない敵であった。
「最初から選択を間違えていたわけか……いや、どちらも選んでも、私が死ぬのは避けられなかったというわけか……」
帽子屋はゆっくりと目を閉じていき、やがて動かなくなった。
「無事に帽子屋を倒したようだね。いやぁ、君が押さえつけられたときは、僕も冷や汗をかいたよ」
ゆったりと、今まで戦っていた者の言葉とは思えない態度でレヴィは歩いてくる。レヴィの後ろには、帽子屋が死んだことで機能を失ったナイフたちが無残にも散っていた。
「その割には随分と余裕じゃない? できれば最初から助けて欲しかったのだけど?」
「それだったら君のためにならないでしょ? 実際に君は帽子屋を倒して見せた。それも完全勝利と言っても過言ではない。右手を痛めたと思わせたのはブラフ。死体につまずいたのも、倒れた先に武器があったのも、すべてが計算通り。僕が手を出す以前に勝負はついていたわけだ。それでも僕に助けを求めろというのかい?」
レヴィの見解は正しかった。ほぼアリスの考えていたものと同じだ。
帽子屋が有利だと思う状況――それは、アリスが負傷することが手っ取り早かった。だから最初に、アリスは帽子屋の蹴りを避けることなく、あえて受けて負傷したように見せた。
次は武器の確保。それは、レヴィの戦いを見たときに気づいた。
レヴィを襲っているものはナイフやフォーク――食器の類いだ。もしかしてと思い、机の上を見てみると、偶然にも使われていない小さなフォークが放置されていた。
置かれていたフォークは本当に小さなもので、子供用のもの――致命傷に至らせるまでの殺傷能力はないと見られた。だから、帽子屋は武器として使用しなかったと思われる。
武器を発見したアリスはあくまで自然に、武器の近くまで帽子屋を先導した。それが、わざと自分から転けた場面だ。帽子屋はアリスの意図通りにアリスの攻撃範囲に入ってきた。
まさか、アリスのような小柄な少女が最初から自分を殺すためだけに動いているとは思わないだろう。
最初から最後までが計算通り。アリス最大の武器は見た目に伴わない冷静な判断力、何事にも臆さない実行力であった。
(なんの躊躇もなく仕留めたか。多少は戸惑うと思うが、アリスにはなかった。的確に急所を狙っている。それも二カ所も)
レヴィは今は亡骸となった帽子屋を見つめる。
(いくら精神年齢が見た目よりも発達していたとしても、かけ離れすぎることはない。精々、二十代と考えていいはずだ)
アリスの言動は見た目の割には大人びている。しかし、時折、馬鹿なことを言う幼さも残している。アリスの様子からレヴィはある程度の目安をつけた。
「それにしても、よく帽子屋を殺せたね。躊躇うことはなかったのかい?」
「別に。相手は私を殺しにきてたわけでしょ? だったら私も殺す気でいかないといけない。下手に手加減をしてたら、殺されるのは私だから……レヴィもそう思わない?」
「それもそうだね。アリスの考えは理にかなってるよ」
殺らないと殺られる――シンプルにして、この世の理。レヴィも似たような感覚を持っていたために、素直に頷いた。
「これで物語が終わった……わけはないよね? なんの変化もなさそうだし」
「ようやく通過点と言ったところかな? そもそも、この物語の終わり方がわからないわけだからね。とりあえずは元の物語を参考にして進めるしかないと思うよ」
「はぁ、まだ終わらないのか……だったら、こんな気味の悪いところ、さっさと出ましょ。死体だらけの部屋なんて、一刻も早く出たいわ」
アリスは死体となった帽子屋をまたいで、扉から出ようとする。アリスとしては一秒たりとも、この部屋にいたくなかった。
アリスは扉に手をかけ、力一杯に押しながら、部屋の外へと出ていった。
しかし、レヴィは何かを考えるように、亡骸となった帽子屋を見下ろしていた。
最深部の部屋に一人だけとなったレヴィ。レヴィは段々血の気が引いていく帽子屋を観察していた。
「帽子屋は支配者ではなかったか。じゃあ、一体、誰がこの世界の支配者なんだ……?」
帽子屋が死んだことで物語が終わる――ことはなく、今もまだ、物語は続いている。
(残る支配者の候補は誰だ……? 女王? 彼女しか考えるうる可能性はないが……)
支配者――レヴィが口にしている謎の人物。支配者という言葉が何を意味しているのか、レヴィは支配者の何を知っているのだろうか。
(――ッ! いや――ッ! 女王だけではない――ッ! 女王よりも支配者に相応しく、厄介な登場人物は――ッ!)
レヴィは最悪な結末を考えてしまう。
『不思議の国のアリス』において唯一の殺し合い。アリス自身も言っていた最悪の存在を――
「レヴィ! 早く行くわよ!」
部屋の外からアリスの声が聞こえる。いつの間にか、真剣に考え込みすぎていたようだ。
「ごめん、今から行くから!」
レヴィはアリスに追いつこうと、アリスのいる部屋の外に向かう。
(でも、アイツが支配者と決まったわけではない。女王が支配者の可能性もある……)
しかし、それは僅かな可能性。支配者に選ばれるのは、物語で一番の影響を持つ者だ。
物語が変わった今、『不思議の国のアリス』で一番の影響を持つのは……
(どちらが支配者にしろ、アリスは乗り越えるしかない。だって君は――)
――『不思議の国のアリス』の主人公なのだから――




