1話 少年と商業の街
赤風1話 少年と商業の街
売り子たちが今日一番の声を張る昼下がり。人々が行き交う街を、鞍から眺める少年がいた。
この地方を治める伯爵家の一人息子、カイ・イグナーツだ。
「見ろ、瑠璃の器があんなに!こっちには毛皮もあるぞ!」
齢七歳ながら、屋敷から出たのはこれが初めて。王立学院に入るとしばらく帰れないからその前に、と領主館を抜け出してきたのだ。
幼いカイは、大きな目をキラキラ輝かせながら街を見下ろしていた。箱入り息子にすれば、女たちが固まって買い物をすることや、積まれたトマトが真ん丸なことすら面白くてたまらない。
「もう少しお静かに。見つかったらどうするんです?」
「いいだろ、少しぐらい」
「そう言われましても……」
馬を預かる者は、本日何度目かのため息をついた。
この青年は、ヴィリーという。従者の中では最年少で、いつもカイの悪戯に付き合わされる苦労性だ。『ただ後ろから見ていろ』との領主命令を逆手にとられ、今もこうして、密行に巻き込まれている。
ヴィリーがちらりと横を向くと、八百屋が慌てて目を逸らした。
──もしや、屋敷を抜け出したのがばれているのか?
先ほどから街の者が、こちらを伺ってはひそひそと話をしている。
それもそのはず。
荷物を運ぶ朝ならともかく、この真昼間の街中で、馬を使うような者などまずいない。馬上の少年は金糸で縁取られた羊毛のジャケットを着ており、お供など堂々と帯剣している。これで目立たぬわけがない。
「流石は王国屈指の商業街、ベジーニュだ。いくら見ても飽きぬな!」
「若、まだ着いたばかりですよ」
おまけに、この会話内容である。
これでも主従は大まじめ。未だお忍びのつもりでいるから大したものだ。
幸いにも二人はまだ顔が知れていないため、街は平常運転を続けていた。
「ヴィリー、あの子は果物と湯殿につかるのか?」
ある程度市場を回り、買ったばかりの揚げパンを頬張りながらカイが尋ねた。
目線を辿ると、カイと同じ年頃の少年が、大籠いっぱいの果物を運んでいる。荒れ放題の髪に、土と垢にまみれた手足。
町外れに広がるスラムの者だろう。
ハーフパンツ一丁に素足で歩く様子が、カイには入浴前に思えたらしかった。
十にも満たぬ高貴な子どもに、説明すべきか、否か。
「あれは貧しい家の子供で荷運びの仕事をしているのですよ」
従者が答えると、カイは小首を傾げていた。
裕福に育った馬上の少年には、なぜ子供が働くのかが分からなかったのかもしれない。
「きゃあ!?」
突然、甲高い悲鳴が響いた。
主従が振り向くと倒れ込む旅装束の娘と、その先を走る男が見えた。ボロを着た男の腕には、女物の鞄が抱えられている。
ひったくりだ。
「待って!それには大事なものが入ってるの!」
娘は必死に叫ぶが、ここで「そうですか」と止まれるようなら、初めから盗みなどしないだろう。娘は周りに助けを求めたが、今更ひったくりごときで動く者もいない。
人々は哀れな娘を一瞥し、それぞれの仕事を再開しようとした、そのとき。
「あの盗人を捕らえろ!!」
凛とした少年の声が響き渡った。
従者を含む場の全員が、カイの小さな頭を見上げる。
少年はこう続けた。
「鞄を取り返した者にはこのオレが、金貨二十枚を取らせよう!」
人々の目の色が変わった。
今の仕事を全て投げ、次々と駆け出していく。
心優しい令息は馬から飛び降り、座り込んだままの娘に手を差し伸べた。
「お前の鞄は必ず取り戻してやるからな」
「ありがとう、小さな紳士さま。良かったら名前を教えてくれませんか?」
「オレはカイ。お前は?」
「フィザリスと申します」
立ち上がった娘は色白で手足がすらりと長く、平民の旅装束をしているのにどこか気品があった。
娘は、百合が咲くように微笑んだ。長いプラチナブロンドがさらさらと風になびいていた。あまりに美しい笑顔に、カイは耳まで赤くなる。
手綱を握ったままの従者は、破天荒でも心優しい主人を温かく見守っていた。