すぐには応じられないことも
「弟って……うちのと同い年で、猫好きの?」
半信半疑で尋ねた私に、頷く孝さん。
そんな彼と自分自身を交互に指さしながら、
「似てない? 子どものころから、声も顔もよく似ているって言われてたけど?」
隣の席でJINが首を傾げる。
孝さんが織音籠に影響されて、雰囲気が似ているのかと、思ったこともあったけど。
こうして並んでいると、二人は目元が特に、よく似ていた。
なるほど。“JIN”が、“お兄さん”に似ているんだ。
それに。
「声の質は、確かに似ているかな? 歌うと、別物だけど」
「里香さん、それはひどくない?」
苦い顔した孝さんを見て
「あ、聞いたんだ? 兄さんの、斬新アレンジ」
そう言って、JINは声を立てずに喉の奥で笑った。
あぁ。兄弟とはいっても、笑い方は違う。
私は、陽気に声を立てる孝さんの笑い声の方が好きだ。
「それは、そうとして。里香さんは、やっぱり驚かないんだ」
カウンター内で腰を下ろした孝さんが、JINから受け取った小皿のチョコレートを口に放り込みながら、嬉しそうな声で言った。
「やっぱり?」
「店でコイツを見ても、上手にスルーしてくれたし」
「……そんなことに、上手下手って、ある?」
「『JINだと気づいてもらえてないかも』と、自信をなくすヤツがいる程度には、上手だったよ」
当のJINは、目を逸らすようにして、紅茶用の白い湯飲みに口をつけた。
「ライブに行くほどのファンなのにね」
そう言って、自分用の湯飲みを両手で包んだ孝さんの目に、驚かなかった訳を尋ねられた気がした。
「芸能人にだって、家族や友達がいるわけだから。孝さんの弟がJINでも、おかしなことじゃないと思うけど?」
「でも、こんな近くにって、距離感に戸惑ったりとかしない?」
「あー、それはね……」
どうしようか。言ってしまおうか。
「私も、YUKIの先輩だし」
「え? 本当に?」
「野島くんとは、大学が一緒で、サークルの後輩」
敢えてYUKIの本名を言った私に、アーモンド型の目を丸くして驚く二人は、確かに血の繋がりを感じさせる。
「それこそ、こんなところに……」
低い声でJINが唸る。
そうか、これが“距離感”か。
その日、JINは水色の封筒を孝さんに渡して、帰って行った。
中身は、近々行われるライブのチケットが二枚。
「どう? 行けそう?」
と、手渡されて。
「……木曜日だ」
なにが、『運良く、定休日にライブが……』なんだか。
きっとJINが、お兄さんの都合にあわせたに違いない。
そういえば、
「去年の、誕生日プレゼントに貰ったサイン……」
「うん?」
「あれって、前もって用意した?」
「……ばれた?」
付き合いだして早々に頼んでいた、らしい。『次のアルバムに、サインを入れて欲しい』って。
「ポスターは、アイツらからのプレゼント」
「あー、そうだったの?」
「予約特典は、また別のバージョンだったらしいよ」
「ふーん」
「だから、俺の部屋になんか、貼らないの」
そもそも、弟のポスターを貼って、何が嬉しい。
そう言いながら彼は、洗い物を始めた。
今年のお盆は、例年の一週間に土日がくっつくべストパターンの十連休。
そのほぼ真ん中あたり。水曜日からの三日間が、孝さんのお店のお盆休みだった。
月始めには、JINから直接貰ったチケットのライブがあって。
仕事のあとで待ち合わせて、見に行った。
「最後のアレは、嫌がらせか」
帰り道、電車を待ちながら、孝さんがぼやく。
今夜のアンコールは、春に孝さんが口ずさんでいたあの曲だった。
「いや、JINは知らないでしょ? 私が聞いたのがどれかなんて」
「それは、そうだけど……」
まあ。確率としては、低いよね?
ピンポイントで、演奏されるのは。
「未来の夢に呼ばれた、な」
あの歌の一節だ、ね。
「どうかした?」
「いや、別に」
なんでもないと、彼が微笑んだとき。
電車がホームへと滑り込んできた。
そして迎えたお盆休み。
重なった休日の三日間を、彼の家で過ごす。
「確か、里香さんって、前は県外に住んでいたんだよね?」
そう尋ねられたのは、二日目の夜だった。
「あー、うん。二十代の頃ね」
「だったら、いつかはまた、転勤があるよね?」
重ねられた質問に、胸の奥で砂時計が砂を落とす。
どうにかして、残り時間が読めないかと、返事をためらって。
「ない、ことはない。と、思う」
読めない未来に泳いだ視線は、彼のグラスにビールを注ぐことで、ごまかす。
「小山の嫁さんみたいに、俺は『どこにでも着いていく』とは、言えないけど」
「ええっと。小山さんって?」
「覚えてないかな? 去年の今頃、店に来ていた後輩で……」
今年もお盆休みの初めの方。私が実家に戻っている間に来ていた、らしい。
泡が落ち着くのを待って、彼がグラスを手に取る。
つられるように私も、ビールを一口飲んだ。
「里香さんがどこに転勤になったとしても、俺の所に戻ってくるって、約束が欲しい」
少し考えるような間を置いた後で彼は、そう言って飲まないままのグラスをテーブルに戻した。
「約束?」
「里香さんの会社で、結婚と退職がセットなら、無理は言わないけど」
「……」
「一生のパートナーに、なってほしい」
彼のアーモンド型の目に、射すくめられる
砂時計の流れが
止まった。
彼のお店が通常営業に戻った後も、いつもより長いお盆休みは続く。
その間、いわゆるプロポーズについて、考える。
一人の部屋で、お茶碗を洗いながら。
彼のお店で、コーヒーを飲みながら。
彼が私の転勤に合わせて引っ越す、というのは、確かに現実的ではない。
私がお店で過ごす時間は、前とは変わらないのに、彼と二人っきりになることはかなり少なくなってきている。せっかく軌道に乗ってきたお店を、新しい街で一から始めるのは、色々な意味で無駄でしかない。
なにより、あの家に呼ばれた彼を、余所になんて……連れてはいけない。
でも、私が転勤になって、今ほどお店に来れなくなったら。先月だったか、お店に来ていた女子高生みたいに、その間に来たお客さんが、彼のことを好きになるかもしれないと思うと。身悶えるような焦燥に駆られる。
じゃあ、結婚? と考えると。
今の勤め先に、女性の既婚者はいなかったと思う。
結婚退職をして別のところで働き始めるのは、今まで積み上げてきたモノが無駄になるような、恐怖がある。
彼のお店を手伝うというのも、職人気質の彼の邪魔になりそうだし。“呼ばれた”わけではない私が、一緒に働くのは、なんというか……おこがましいようにも、思う。
返事を保留にしたまま、休みがあける。
まずは、人事に相談、というのが、悩んだ末の答えだった。
幸い、人事課長は、いつも早くに出社してくる。ラッシュを避ける私と、同じくらいに。内々に話を聞くことも、できるだろう。
休み明けの初日。験担ぎ的な意味も込めて、モーニングコーヒーと一緒に出勤する。就労規則に結婚退職が明記されていないことを祈りながら、オフィスビルのエレベーターに乗る。
「おはよう、ございます?」
三階で降りると、壁にもたれるようにして、経理の子がいた。
「……おはようございます」
「どうしたの? その足」
ギプスを巻いて、松葉杖って。
その足で、よく仕事に来たなぁ。
「ちょっと……」
「上がってきたものの、鍵が開いてなくって……って?」
「ええ、まあ」
私より一歳年下になる稲本さんが、この時刻に来ているのは、かなり珍しい。
鍵の所在も、恐らく知らないだろう。
「その足じゃぁ、もう一度守衛室に下りるのも大変ね」
「はぁ」
「私も『誰か来ているだろう』って守衛室に確認せずに上がってきて無駄足、ってよくやるわ」
そんな話をしながら鍵を開けて、入室手順を辿る。
「鍵を開けたあとのは?」
「え?」
「そこのボックスの操作が、必要なんですか?」
「ああ、これ?」
なるほど。セキュリティの存在も知らないのか。
稲本さんに、一連の操作を教える。
真剣な顔で聞いている彼女は明日からも、早く来るつもり、らしい。
怪我のせいで早めに……という気持ちは、分からなくもない。
そんなことを考えながら、自分のデスクへと向かって。
パソコンの起動メロディーに、ため息を紛らせる。
ただ。これじゃぁ。
人事課長に相談できないじゃない。
温くなったコーヒーを飲む。
答えがでるのは、まだ先になりそうだった。
相談の機会を狙って、密かに……なんてことを考えていたら、自分の仕事が疎かになりそう。
そんな危機感を覚えるヒヤリハットが、続いて。
覚悟を決めた私が、人事課長に面談を申し込んだのは、そろそろ夏も終わりの気配を見せる頃だった。
「で。どうした? 坂口係長補佐?」
小会議室で、机を挟んだ課長から尋ねられて。
「就労規則について、なんですけど」
私が用意してきた質問に、相槌をうちながらメモをとっていた課長は、 話を聞き終えると腕組みをして。
うーん、と唸り声を上げた。
「前例からいうと、だな」
「はい」
「総合職から、一般職への異動になると思う」
「一般職へ……」
「一家の主婦を、転勤をさせるわけには……な?」
分かるな? と、視線で尋ねられた。
「退職では、ないのですね?」
「そこを会社側が無理強いすることは、できないな」
「無理強い、ですか」
「本人が辞める、と言うのを引き止めることもないが」
つまり。一般職なら、働き続けられる。
「個人情報だから、詳しい事は言えないが」
そう、前置きをした課長は私に、人事の係長をしている女性にも相談してみるように勧めた。
私より五歳ほど年上で。十年ほど前に、他社から転職してきた人だった。
彼女に話を通しておいてくれるという課長にお礼を言って、仕事に戻る。
ほんの数十分、席を外した間にも、いくつか『電話が掛かってきた』とメモが残されていて。
かけ直しのため、受話器へと手を伸ばす。
コール音を聞きながら、ふと目をやると。
樋口課長と、目が合った。
と、思うなり、視線を逸らされた。
何だ? 一体?
疑問に思ったのは、ほんの一瞬。
繋がった通話に、意識を切り替える。
今はまず、目の前の仕事を片づけないと。
「坂口さん、例の彼とはうまくいってるか?」
そんなことを樋口課長から尋ねられたのは、それから二日ほどが経ったお昼前だった。
営業部は、ほとんどが外回りへと出払っていて。私と課長は、二人して午後からの会議絡みの書類仕事をしていた。
「あー、まあ。お蔭様で」
「やっぱり、私生活が充実していると、仕事のはかどり具合も違うだろ?」
「はぁ」
確かに、悩んでいると……ダメだわ。
「経理の……ほら。稲本さん」
「ああ、はい」
「彼女も、見合いをしてから、すっかり落ち着いて」
私が断ったお見合いの流れ着いた先は、やはり彼女だったらしい。
自分が世話をしたお見合いの成果を、誇らしげに語る課長の演説を、右から左に聞き流しながら、キーボードを叩く。
「やっぱり、恋愛って大事だよ。女の子が綺麗になるから、職場も潤う」
すみませんね。枯れ果てたお局状態を長く続けてて。
「男の方は、溜まったモノがすっきりするから、仕事の効率があがるし」
はいはい。出ましたね、下ネタ。
「最後は結婚して、幸せなゴール!」
聞き流せない言葉に、ミスタイプが連続する。
エスケープキーで修正をかけながら、過ぎった思いを巻き戻す。
“最後”は結婚? 幸せな“ゴール”?
ちょっと待て。
私がお見合いを持ちかけられたのは……昇進前、だった。
稲本さんは、まだ結婚してはいないようだけど。お見合いで、トントンと話が進めば、数か月で式を挙げても、おかしくはない。
友人の例を思い出して、逆算する。
春の昇進、私ではなかったら、二つ年下の男性に話があったのではないだろうか。
私が担当していた得意先を引き継いだ彼は、この半年弱、なかなかの成績を収めていて、樋口課長もかわいがっている、のが傍で見ていてもわかる。
あのお見合い話は、もしかして。
私を昇進させないための、何か、だったりするのだろうか。