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8/10

一人で、いろいろ担っています

 バレンタイン当日の朝、モーニングコーヒーと引き換えるようにチョコを渡して。

 ホワイトデー当日の朝、モーニングコーヒーと一緒にチョコブラウニーを貰った。


 今年は三月上旬から年度末恒例の繁忙期が始まっていたので、個包装されたブラウニーは、ありがたく“残業の友”になった。



 桜の盛りも過ぎた木曜日の今夜も、残業を終えて。

 会社を出た所で彼の家へと電話をかける。

[お疲れ。終わった?]

[うん。ごめんね、遅くなって]

[駅まで行くから、気をつけて帰ってきなよ]

 そんな会話をしながら、夜道を歩く。


 デートのための貴重な夜の時間を、残業が削っていく。水曜日の定期コールで『ごめんね、明日は無理みたい』と謝ることが二週続いた時、彼から『じゃあ、明日は仕事が終わったら電話して』と言われて。


 それ以来、水曜日の夜には彼から。木曜日の夜には私からの電話が、新しい“約束事”になった。



 ラッシュほどではないものの、そこそこ混んだ電車に揺られて、最寄り駅の改札を抜ける。

 同じような会社帰りらしき人の流れの向こう、ジュースの自動販売機に寄り添うように立つ男性の姿に、肩に乗った疲れが少しだけ剥がれ落ちた気がした。

「おかえり。里香さん」

「ただいま」

 キャンバス地のエコバッグを肩に下げた孝さんと並んで、駅を出る。



 家まで送ってきてくれた彼を、部屋に通して。ヤカンにお湯を沸かす。

「カボチャの煮物と」

 エコバッグから、タッパーウェアが出てくる。

「あと……昼間、隣から貰ったから」

 そんな言葉と一緒にカレイの一夜干しも。

「猫の薬屋から?」

「いや、逆側。坂本さんから」

 ああ、夏にはホオズキの鉢が玄関に並ぶ家だ。

 奥さんの親戚で法事があって、田舎へ行ってきたお土産だとか。

「彼女とどうぞー、だって」

「あー」

 常連を通り越した付き合いだと、彼の周囲にばれているのは、勝手口を出入りしているところを、何度か目撃されているから、らしい。


 ちなみに。

 “猫の薬屋”のご隠居さんは、『レディー 云々』の会話の時点で、すでに知っていた……とか。



 今夜のメニューは、朝のうちにタイマーを仕掛けて置いたご飯と、インスタントのお味噌汁。それから、孝さんが、持ってきてくれたおかずたち。    

 干物を焼いている間に彼は、部屋の隅に重ねてある座布団を、テーブルの所へ運んでいる。

 その気配を背中で感じながら、小さく“おざぶの歌”を口ずさむ。

 『音痴だから歌わない』なんて言っていた孝さんもきっと、心の中では歌っているはず。


 狭いテーブルにお皿を並べる。差し向かいで座って、手を合わせる。

 最近の木曜デートは、彼の作ってくれるお惣菜を二人で食べるささやかな夕食。


「産地直送、って味だね」

 お魚の身をほぐしながら、孝さんが嬉しそうに言う。

「うん。おいしい」

 タイマーのついた炊飯器さまさま。炊き立て……には少し時間は経っているけど、それでも何時間も保温したご飯とか、温めなおしの冷ご飯とは味が違うから。

 おいしいお魚が、一段と幸せに感じる。 


 インスタントのお味噌汁だけが、残念だけど。



 箸を動かしながら、あれやこれやと話をしていて。

「まだまだ忙しいのは続きそう?」

 と尋ねられる。

「うーん。いつもだったら、ゴールデンウィークには、片が付くのだけど……今年は、難しいかなぁ」

 春の人事異動で同期の男性が一人、転勤になって。私が後を引き継ぐ形で係長補佐、なんてものになってしまった。

 それに伴うように、取引先の担当も見直されて。私が抱える仕事のうち、デスクワークが占める割合が大きくなった。


 仕事内容の引継ぎは終わったものの、ペース配分がまだ自分の中で定まらないから。 

 実際よりも、仕事量が増えたような……感じがする。


「里香さんの会社は、女性の役付きもいるんだ?」

「少ないけどね。一応、私も総合職だし」

 私自身が入社した時点では、一般職も総合職もない会社だったけど。新卒の総合職採用を始めるに当たって、社内での募集があった。

 折しも学生時代からの彼氏と別れたばかりだった私は、『この先、仕事に生きてやる』と、試験を受け……今にいたる。


「そうか。総合職か」

 小さな声でつぶやいた彼は、何かを考えるような顔になって。左手で、耳たぶを捻るように弄ぶ。 

 わざわざ自分から言うことでもないと、今まで孝さんには言っていなかったな。そういえば。

  


 『また、あさって』

 そんな言葉を残して帰っていく孝さんを見送って。二人分の後片付けをする。

 お茶碗を洗いながら、『総合職か』とつぶやいた彼の顔が脳裏に浮かぶ。


 今回の辞令が出てから、私の心の中には砂時計がある。

 数年のうちに出るだろう次の辞令が、転勤だったら……。

 遠距離恋愛になるのか、前の彼氏のように別れることになるのか。

 そう考えると。

 二人で一緒に過ごせる時間は、あとどのくらい残っているのだろうか。



 せめて、砂時計の砂が落ちきるまでの時間は、無駄にしたくない。

 そんな思いを抱えながら、何とか新しい仕事のリズムを作り上げようともがくうちに、連休が来る。

 

 今年の連休もカレンダーの並びの良い九連休で。

 水曜日を臨時休業にした孝さんと、一泊二日で初めての旅行に行った。

 行先は、学生時代のサークルで毎年お世話になっていた西隣の県にあるペンション。

 のんびりと散策をしたり、貸しラケットでテニスをしたりして過ごす。


「孝さん、テニス上手よね」

 意外と、という余計な一言は口に出さない。

「一応、高校はテニス部だったし」

 さすがにラケットは処分したと、言いながらリズムよく、“羽根突き”ならぬ“ボール突き”をしている。

「インドア派、なわけじゃなかったんだ」

「うーん。別にインドア、ではないかな。姉とか妹がいれば違ったかもしれないけど、いるのは弟だし」

「ああ、なるほど」

 確かに。私もキャッチボールの相手、なんてものをさせられた覚えはある。

 逆に、ままごともさせたけど。


「それに、家庭科は好きだけど。インドアな趣味っていうか、芸術系教科は壊滅だよ?」

「そうなの?」

「絵は描けないし」

「ふーん」

「音楽は……」

「あぁ、かわいそうな子だ」

「そう。高校の芸術教科は、苦渋の選択をした結果の書道」

「あー」

 手書きメニューの、微妙な文字を思い出す。

「里香さんは……美術選択?」

「あたり。って、よくわかったわね?」

「付き合い始めた頃に、店で招き猫のスケッチをしてたことが、あったから」

「そんなことも、したわね。暇つぶしに」

 あれは……一年ほど前、か。


 二人の時間を計る砂時計はすでに。

 一年分の砂が、落ちてしまっていた。



 連休明けの月曜日。

 朝一番に、書類棚の前で田尻さんが叫ぶ。

「どうしてこんなところに、伝票の束なんかがあるわけ?」

 担当していた三年目の男性社員が課長に呼ばれて。経理への出し忘れ、なんてミスが発覚した。


 それも、十日締めの大口伝票で。

 連休前のチェックを怠った、私のミスでもあった。


 経理の課長のところへ持って行って。平謝りに謝る。

 課長に呼ばれて伝票を渡された人の、眉が吊り上がるのを見て、再度頭を下げる。

 一年先輩になるその人に

「ま、お互いさま、ですし。こういうことは」

 そう言ってもらって。

 二度目はやらない、と。心に誓う。



 自分の仕事と、周りの仕事と。

 責任がかかる、ということの重みを改めて思い知った。



 入れたてのコーヒーが注がれたお湯飲みを、口元へと運ぶ。

 いつもと変わらぬ香りを、湯気と一緒に吸い込む。

 一口飲んで……ため息をつく。

「お疲れですか?」

 土曜日のお店は、そこそこのお客の入りで。

 なんとなく、彼に近いところ、に居たかった私は、カウンターに座っていた。

 カウンターを挟んだだけの距離に、ため息を拾われて。マスターとしては珍しい言葉をかけられた。

「少し、仕事でミスって。自己嫌悪、です」

 もうひとつ、ため息。


 今週の定休日は孝さんの都合が悪くって。

 水曜日に一度、モーニングコーヒーは買いにきていたものの、デートは一週間ぶりだった。

 つまり……ミスの発覚からも一週間。


 この一週間。ミスを重ねるまいと 意識して辺りの状況に気を配ってきた。

 でも、配っているつもりの気が逆に、注意を薄めてしまっていて……つまらないミスを呼ぶ。

 悪循環としか言いようのない状態が続いていた。


 この週末で、気持ちを切り替えて。

 週明けには、新たな気持ちで仕事に向かいたい。


 そう思う端から、弱気の虫が顔を出す。

 私には……無理な仕事なのかもしれない。


 そんな弱音を、問われるままに吐き出したのは、お客の切れ目で。孝さんは、“マスター”から“彼氏 に切り替わっている時だった。

「それでも里香さんは、仕事が好きでしょ?」

 隣の席に座った彼は、自分で入れたコーヒーを片手に尋ねる。

「うーん。なんか、解らなくなってきた感じ」

「そう?」

「孝さんみたいに、この仕事に“呼ばれた”実感は、ないし」

 天職って、誰にでもあるのだろうか。



 『とりあえず、呼ばれるまで頑張るのも、一つの方法だよ』なんて、慰めを貰って。

 自分に活力を注入するつもりで、夕食の買い物にでる。


 活力=カツだな。

 こじつけに近い理屈をつけて、今夜は豚カツに決めた。



 お店の二階、孝さんの自宅で夕食の支度を整える。

 カツは揚げたての方がおいしいから、衣をつけた状態で冷蔵庫へ。

 つけ合わせのキャベツも刻んで冷やしてあるし、ナメコとお豆腐でお味噌汁も作った。

 ご飯の炊き上がりを待つ間、ぼんやりと考えごとをしていると、思考はこの一週間の反省へと立ち返る。


 田尻さんとエレベーターで一緒になったあの時が、確認のチャンスだった、とか。

 『電話を入れた方が……』 と思ったあの時、後回しにしなければよかった、とか。



 炊き上がりを知らせる炊飯器のアラームで、我に返る。

 壁の時計は、既に閉店時刻を過ぎたことを伝えていた。


 カツを揚げ始めるタイミングを教えて貰おうと、階下へ下りて。バックヤードを兼ねた厨房とカウンターを仕切る藍色の暖簾の端から、そっと店内を伺う。

 閉店は……している。入り口の暖簾が、中に仕舞われているのか、その証拠。

 少し首を伸ばして、顔を出す。


 孝さんは、一日を過ごした店内を、丁寧に拭き清めていた。



 働く手に合わせて、低い声の歌が聞こえる。

 歌わない、なんて言っていたのに。


 何の歌だろうと、息を潜めるようにして耳を澄ませる。


 歌詞にデジャビュを感じて。

 脳内で歌詞をトレースした結果。出てきたのは……織音籠(オリオンケージ)の初期の曲だった。

 うーん。確かに、“かわいそう”な音程だ。


 でも。

 なぜだか……聞いていると、胸が苦しくなる。

 夢を追いかける恋人を見送る、失恋の歌だからだろうか?



「うわ、聞かれた」

 体を起こした彼と目があって。歌が止まる。

「聞いちゃった。ごめんね」 

「いや、もうそんな時間?」

「あー、あとどのくらいかかるかな? って」

 やり残しをチェックするように、孝さんの視線が店内を巡る。

 さっきまでの、脳内反省会を思い出す。


 これが、責任なんだな、と。



 二日間、彼の近くで過ごした休息時間を支えにして、新しい週を迎える。

 やり残しはないか、見落としはないか。

 周りの状況と、自分自身が抱えた仕事を俯瞰で眺める視点を、定期的に持つように心掛ける。



 梅雨に入ろうとする頃には、なんとか。やって行けそうな……気がするようになった。



 事故的に聞いてしまった、あの夜以来、孝さんの歌を聞くことはなかったけど。

 ほんの時々。カウンター内で針仕事をしている彼が手を止めて。ぼんやりと店内を眺めている姿を目にした。



 そうして、今年も夏がくる。

 お盆休みの計画なんてものが、仕事の合間の無駄話に聞こえてくる頃の土曜日。

 おやつ時のお店に、JINが来ていた。


 彼のお店でJINをみたのは、今までにも二回ほど、ある。

 一番奥の席で、壁の一部のような顔で静かに本を読んでいたり、書き物をしていたり。そして、帰り際、軽く孝さんと会話をかわす。それが、いつもの約束事のような人だった。


 歩くだけで溶けそうな暑さだったその日。

 お昼前から行っていた美容院を出た私は、そのままの足でお店へと立ち寄った。

 いつもどおり、奥のテーブルにJINが座っていて。一番手前のテーブルには、ティーンエイジャーと覚しき女の子が二人、座っていた。


 いつもの席を示す彼に、頷きかけた時。

「だから、勇気だして、行っちゃいなって。好きなんでしょ?」

 女の子の、高い声が響いた。

 とっさに、孝さんと目を見交わす。


 これは、JINの近くに座ると、煩わしそう。


「今日は、カウンターで」

「ああ、はい」   

 奥のテーブルから、少し距離をとって。カウンター席の真ん中に腰を下ろす。

 他のお店なら、この暑さだ。アイスコーヒーを頼むけど。

 ここのコーヒーはホットが、私にとってストライクど真ん中で。

 “職人”な彼も、『ゆっくりと一口めを飲んでくれる時の、里香さんの表情が好きだ』と、言ってくれるから。

 真夏でも私は、ホットを頼む。


 孝さんが豆を挽き始めたところで、女の子が立ち上がったのが見えた。


 お、行くんだ。


 背後の気配を野次馬根性で伺っていると

「おにーさん」

 私のすぐ横で声がした。

 え? こっち?


「申し訳ありませんが。少々、お待ちを」

 手は動かしながら、彼が話を遮る。

 約束事のラストだね。確か。『他のことには、応じられません』だったかな。


 タティングレースのシャトルを操りながら、女の子の様子を伺う。『手が覚えたら、見なくても編める』と、入門書に書いてあったのは、本当だった。目数のカウントだけを忘れないようにしていたら、辺りの様子を眺めるくらいのことは、できるようになった。 

 今も、緊張の面持ちで佇む女の子と、コーヒー用のヤカンからお湯を注いでいる孝さんを交互に眺めて。 

 女の子の視線がこっちを向く気配に、編み目へと目を落とす。


 見てませんよ-。私は。

 次は、飾り編みが少し面倒でねー。


 そんな顔を作りながら、内心ではやっぱり……面白くない。


 後ろ、見てごらんよ。JINがいるんだよ? あの。

 最近の織音籠、売れてきているんだから、知っているよね?


 『彼女の気が変わるように』と念を送っていると、手元にコーヒーがやってきた。

 顔を上げると、安心させるように微笑む孝さんが、軽く体を屈めて。

「どうぞ、ごゆっくり」

 と、いつものマスターとしての距離より近いところから、言葉を落としていった。



「お待たせしました」

 カウンター内へと戻ってから、改めて女の子へ声をかける孝さん。

 女の子は、

「あの、これ。ウイスキーボンボンなんです。お好き、ですよね?」

 と言って、握っていた小さな紙袋を彼に差し出した。

「ええっと?」

「バレンタインの頃に言っていたじやないですか!」

「あぁ。あの時の……」 

 騒いでいた女子高生の一人か。


「おにーさんのことが、好き、なんです」

 やっぱり、そういう流れになるよね?

「お気持ちは、嬉しいですが……」

 孝さんの答えに、もう一人の女の子が

「バレンタインの前から、この子。ずっと悩んで。今日は、頑張って来たんです」

 助太刀をする。


 大人げなく『だから、どうした』と、口を挟みたくなる衝動を、編み目を見つめて、流す努力をする。

 深呼吸をして、心をなだめる。

 コーヒーを一口、飲み込む。


「これは受け取れません。お気持ちだけで」

 差し出された紙袋を押し戻すように、孝さんが言葉を重ねる。

「どうしてもダメ、ですか?」

「『お兄さん』と、呼んで頂いてますが、あなたの親でもおかしくない歳ですよ?」

「歳が離れているだけで、アウト オブ 眼中?」

 うーん。『眼中にない』を、そう訳すあたりが、ジェネレーションギャップだとは……わからないだろうなぁ。

 それ以前の問題で、冬のあの日、彼を傷つけるようなことを友人達と言っていた……のは、なかったことになっているのか。

「少なくとも、“約束事”の守れない子どもと恋愛をする趣味は、ありませんので」

 そんな言葉で、孝さんは押し問答を断ち切った。


「“子ども”に、ウイスキーボンボンを食べさせる気、ですか?」

 しばらく考えていた女の子が反撃にでる。

 うわ、そうきたか。

「……」

「大人の、おにーさんが食べて下さい」

 友人がまた言い添える。

「そうですね……」

 のろのろと、孝さんがチョコを受け取る。

 女の子たちが、歓声をあげる。


「これは、なかったことにしましょう」

 そう言って、孝さんの視線が私と。

 その後ろにいるはずのJINへと、向かった。



 『証拠隠滅を手伝って頂く、お礼です』の言葉と一緒に、お代わりがそれぞれに配られる。飲みかけだった私のコーヒーも、新しいものと取り替えられた。

 そして、小皿に一つずつ。ウイスキーボンボンが添えられた。

「一つくらいなら、未成年でも許されるでしょう」

 そう言って、彼女たちにも一個ずつ。


 店内には冷房が効いているとはいえ、夏の暑さにチョコレートは柔らかくなりかけていた。

 指先を汚しながら、銀紙を剥がす。

 歯ごたえというには頼りない感触とともに、口の中に洋酒の味が広がる。


 彼女は年齢的にも行動的にも、彼の恋愛対象ではなかったけど。

 この先にもまた、今日みたいなことが、あるかもしれない。

 私が知らなかっただけで、今までにもあったかもしれない。


 どろりとした想いと一緒に 甘ったるい液体を飲み下す。 


 心の中で砂時計が、落ちる砂の量を増やしたような気がした。



 指先をおしぼりで拭う

 チョコレート色の汚れを目の隅にいれながら、熱いコーヒーをゆっくりと飲む。

 女の子たちは、黙って。

 証拠隠滅の手伝いをしていた。



 会計を終えた彼女たちが店を出るのを見送った孝さんが、深いため息をついた。

「疲れた……」

 視線を流すように私を見た彼が、言葉通り疲れ果てた顔で微笑む。

 後ろで椅子を引く音がして、JINの立ち上がる気配がした。


「もてるねぇ。お兄さん」

 さっきの女の子が孝さんと押し問答を繰り広げていた辺りに立ったJINは、手にした湯呑みをカウンターに置いて。

 チョコレートが乗ったままの小皿を、孝さんへと差し出すと、

「俺の存在なんて、見事に『Out of 眼中』」

 嫌味なほど綺麗な発音で、彼女たちの言葉をなぞってみせた。


「バカなことを、言ってるんじゃない」

 右手で小皿を受け取った孝さんは、空いた左手をJINの頭上に伸ばす。

 その手をJINが受け止めるように掴んで。小学生のような力くらべが、始まる。


 なんだ、この二人……。


 呆然と眺めていると、

「痛いっ。give!  give!」

 JINが、低い声で悲鳴を上げた。手が捻られるように持ち上げられている。 

「お兄さまに逆らうのは、まだ早い」

 ふん、と孝さんが威張ってみせて、手を離す。


 は? 

 なんですって?   


「お兄さま?」

 聞き返した私に、JINが

「弟の(ひとし)です。よろしく。里香さん」

 と、頭を下げて。

 隣の椅子へと、腰を下ろした。

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