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 朝一番、というわけにはいかなかったものの、翌日の昼過ぎには、外回りに出ようとしていた樋口課長を呼び止めることができた。


 謝罪の言葉を添えて、お見合いの話を断る。

「彼氏、ねえ。本当に?」

 まるっきり信じてない顔で、課長が聞き返す。

 一晩経った私自身が、信じられていませんけど。

「嘘をつくメリットもないと、思いますが?」

「彼氏がいるなら、その場で断るだろ? 普通」

「それは、まぁ……」

 その時点では、いなかったし。

「そもそも。見合い話を持ちかけたってのは、つまり、クモの巣が張った“空き家”っぽく見えるってこと」

「はぁ」

「彼氏に可愛がられている女の子って、独特の色気があるんだよね。そんな子に、わざわざ男を紹介なんかしないだろ?」

 悪かったわね。色気がなくって。

 どうせ、ここ三年程は、彼氏もいませんでしたー。


 課長のセクハラ発言にムッとしながら、表情筋をフルに働かせて受け流す。  

「まあ、坂口さんの人生だから。他人がとやかく言うことじゃないけどね」

 そう、前置きをした課長は『仕事だけの人生は、虚しいぞ』と言いながら、エレベーターのボタンを押す。

 課長の後ろ姿に軽く頭を下げて。デスクへ戻る前にお手洗いへと向かう。


 今日は、金曜日。

 あと半日頑張れば、休日で。


 孝さんに、会える。



 土曜日は、朝から浮き足だっているのが、自分でもよく分かった。

 洗濯をしようとして、洗剤をこぼす。

 目玉焼きを作ろうとして、割った卵の中身をシンクに捨てる。


 挙げ句の果てに、洗顔フォームで歯を磨きかけた。


 落ち着け、落ち着け。

 彼の待つ喫茶店に出かけて、お茶を飲む。言葉に表すとデートと言える今日の予定だけど。

 

 場所は、彼のお店で。

 飲むのは、いつものブレンドコーヒー。

 そして、今日の彼は“マスター”。


 二人の間で交わした約束は、

 『今度の休みには、来て下さいね』と言われた、一昨日の言葉だけ。



 細々した家事を片付けて家を出る頃には、すっかり日も高くなっていた。 

 そろそろ日傘も用意しなくては……と考えながら、日影を伝うように歩く。


 すっかり手に馴染んだような引き戸を開ける。

 いつも通り彼の声に、迎えられる。


 暖簾をくぐった、一瞬。思わず視線が店内を彷徨う。

 奥のテーブルと、手前から二つ目のテーブルに二人ずつ。さらにカウンターにも一人、座っている。

 このシチュエーションは、想像してなかった。

「少し、お待ち頂くことになりますが?」

 ドリッパーを片手に確認してくるマスターに頷くと、

「あちらの席に」

 空いた手が、いつもの席を指し示す。


 窓際の招き猫は、いつも通り座布団に座っていた。

 『今日は繁盛している』なんて、考えながら腰をおろす。

 いや“今日は”じゃないな。

 この前の連休。千賀子と来たときも テーブルが全て埋まっていた。

 これはどこかで宣伝があったか。

 それとも。

「キミの甲斐性?」

 コソコソと尋ねた黒ニャンコは、返事もせずにお客を招いている。



 コーヒーを入れることに集中しているマスターを、遠目に眺めていてもいいのだけど。 

 お冷やも出されていない状態で、じっと見つめるのは、『早くしろー』って、プレッシャーをかけることになりそうだと、思って。システム手帳を取り出して、シャープペンシルを握る。

 

 来月あたりに、大学時代の友人五人と『ランチに行こうね』って言っている。頼子が久しぶりに出てくるらしいから……あの子の好きな、イタリアンか、な? 

 だったら、去年新しくできたお店にするか、学生時代によく行った西隣の市のお店にするか。


 そんなことを考えながら、手帳の余白に落書きをする。

 チーズにトマト。ピザは……なんだか失敗。


「上手いですね」

 降ってきた声に、本気で驚いてしまった。

「お待たせして、申し訳ありません」 

「いえいえ」

 お冷やのグラスがセットされて、メニューが差し出される。

 見上げた顔が、何かを唆すように笑っていた。


 彼は仕事中。

 私は今、恋人ではなく、

 客として、ここにいる。


 これは多分。オフィスラブ的なカモフラージュ。


 形だけメニューをめくって。

「ホットコーヒーをブラックで」

 いつもの注文に、彼の笑みが深くなる。 


「あ、マスター」

「はい、なんでしょう?」  

「店内でスケッチするのは、かまいませんか?」

 撮影禁止のお店だから、一応、聞いておかないと。

 伝票を書く手を止めて、彼が頷く。

「それは大丈夫ですけど。何を描くんです?」

 と尋ねられて。馴染みの黒ニャンコを指差す。


 描きやすいように、と、座布団と一緒にテーブルへと下ろされた招き猫を見て、思わず

「おざぶ-、おーざぶ」

 小さく口ずさむ。

 聞こえたらしきマスターがクスリと笑い声を溢す。


 元歌は『デジャビュ感じる 云々』って歌詞の、織音籠の超マイナーな曲で。なんとなく語呂が合うから、自宅で一人、座布団を干す時とかに、歌っている。

 招き猫が座っている時には分からなかった刺繍が、この座布団にも施されているのを見て、つい。

 歌ってしまった。


 マスターの許可を貰った事で、安心して。

 手帳の前の方。空いているページを開く。

 正面よりも、少しだけ斜めからの方が、いいかな?

 うん。この角度から。



 私が訪れた時が、一時的なピークだったらしく。

 スケッチをしながらゆっくりとコーヒーを飲んでいる間に、新しく来た人は、いなかった。 


 私の背後、一番奥のテーブルにいたカップルが出ていくと、店内は、私と彼だけになった。


 最後の客を見送ったマスターが、こちらへとやってくる。

 テーブルを片付けるのだろうと思っていると、ストンと私の向かいに腰を下ろした。

「朝から、待ってた」

 嬉しさが滲むような声で言われて、鼓動が跳ねる。

「一昨日、こうやって里香さんと過ごした時間が、夢だったかもしれないって」

 自信がなくなって。

 なんて言いながら、テーブル上の手をシャープペンシルごと握られた。

「今は“孝さん”の時間?」

「うん。“お客さん”が来るまでは」

 空いた手が、シャープペンシルを抜き取って、招き猫の横にそっと置く。その手が湯飲みも壁の方へと場所をずらせて。


「里香さん」

 喉声で呼ばれた名前と、見つめてくるアーモンド型の目に捕らえられた。

 テーブルに身を乗り出すようにして、孝さんが近づいてくる。

 触れた唇に、男性の体温を感じる。


 もっと

 触れたい。

 触れ合いたい。



「夢じゃないのよね?」

 吐息交じりに溢した声に、額へのキスが答える。

「夢じゃないって……今夜、確かめる?」

「孝さんって、そういう人だったの?」

「うん?」

「浮世離れっていうか……俗欲からは遠いイメージがあったから」

 お店の雰囲気とか、仕事中の様子とか。第一印象がほら、“職人さん”だったし。

「欲? まみれているよ?」

「そう?」

「今日は、このまま臨時休業にしようかと思うくらい」

 里香さん、危険だよ? どうする?


 艶を含んだ声に、夜の店内を思い出す。

 背中がゾクゾクする。


「毎度ぉー」

 引き戸の開く音に、孝さんが立ち上がる。

 ビニール袋を片手に入って来たのは、北通りとの角にあるスミレベーカリーの店長さん。

「昼メシの注文は、これで良かったよな?」

「はい。OKです。いつも、すみません」

「いや……こっちこそ、お邪魔しちゃった?」

 そんな会話をしながら、お金のやり取りをして、カウンターの上にビニール袋が置かれる。

「女の子、口説くときには、暖簾しまっておきなよ?」

「通り中に、言い触らしてることになりませんか? それは」

「臨時休業してたら、言い触らしてやるよ。『孝の邪魔はするなよー』って」 

 ニヤニヤと笑うパン屋さんを戸口まで送っていく孝さんが、声を立てて笑う。

 いや、笑い事じゃないって。


 悪戯を見つけられた悪ガキのような表情で、肩をすくめて見せて、私の後ろのテーブルを片付け始める。

 さっきまでの危うい空気の消え去ったお店の戸が再び開く。

 新しいお客さんが、やってくる。


 そろそろ潮時。

 彼の作業の合間を見定めて、会計を頼む。


 システム手帳から抜いたフリーページを一枚、伝票と重ねて差し出す。

 『夕方、また来ます』の文字に、彼の目が笑う。



 その夜、私たちは。

 お店の二階、孝さんの自宅で、

 互いの存在が“夢じゃない”ことを、確かめあった。



 二人の休日が全く合わないことは、付き合う前から互いに分かっていた事で。

 一緒の時間を過ごすのは、基本的に夜になる。

 お店が休みになる木曜の夜。仕事の後で待ち合わせての、夕食とか。

 土曜日の夕方に彼のお店に出かけて、そのまま閉店までお客としての時間を過ごした後で、彼の自宅にお邪魔しては泊まっていったり。

 たまに、日曜日のお昼ごはんを、スミレベーカリーで買ってきて、“お昼休み”の孝さんと二人で食べることも、ある。


 『欲まみれだよ』って言っていた彼だけでなく、私自身も彼に触れて気づいた“欲”があったりはするけど。

 仕事をおろそかにして……なんてことは、さすがにいい年をして、できなかった。



 そんな感じで生活の新しいリズムができつつある頃、世間はお盆に入ろうとしていた。

 私の会社のお盆休みは、例年、一週間のお盆休みがある。今年は、木曜日から水曜日までの一週間で。

 初めて孝さんと、昼間のデートを楽しんだ。


 駅で待ち合わせて、電車に乗って。市の東部にある水族館で休日を過ごす。

 夏休みとあって、周囲は赤ちゃんから小学生まで、子どもたちでいっぱいだった。

 ラッコの水槽前なんて、人だかりで。近づくために行列ができていた。

 並んで待つ私たちの前には、小さな男の子を抱っこしたお父さんと、女の子の手を引いたお母さん。お父さんの肩ごしに、男の子と目が合う。合った途端、はずかしそうにお父さんの肩に顔を伏せて。それでも気になるらしく、チラリチラリとこちらを伺っている。何度目かに顔を上げた時、ヒョットコのように口を尖らせて見せると、ケタケタ声を上げて笑う。

 怪訝そうなお父さんの顔が、振り向く瞬間に、顔を戻す。


「里香さん」

 隣で肩を震わせて、孝さんまでが笑う。

「子供って、好き?」

「まあ、嫌いじゃないかな?」

「歳の離れた弟とかいる? 子供慣れしてる感じだけど」

「一つ下に、憎ったらしいのが一匹」

 私の答えに、また笑う。


「里香さんと年子ってことは、俺の弟と同学年か」

「ってことは……孝さんの三つ下?」

「生まれ年は、四つ下だけど。アイツ、早生まれだから」

 孝さんにも、弟がいるんだ。


 こんなところも。

 私たちは、仲間だ。



 水族館に行った翌日から一泊だけ、実家に帰って。

 土曜日の夕方は、いつもの通り彼のお店へと向かう。


 閉店前の店内には、一番奥のテーブルに一人、男性客が座っていた。


 あれ?

 あの人、もしかして……。


「マスター。今日は、カウンターでも良いですか?」

 いつものテーブルを示す彼を遮るように、声をかける。

 ちょっとだけ、驚いた顔をした孝さんは、それでも穏やかに微笑んで。

「構いませんよ。どうぞ」

 と、白い招き猫の方へ、手を伸ばした。 


「マスター、奥のあの人……」

 お冷やのグラスを運んできた彼にこっそりと話しかける。

「プライベートで来られているので……」

 そう言って、グラスを置いた右手の人差し指を立てて口元へと、当てる。

 『騒がないで』ってことらしい。


 コーヒーを注文してから、そっと体を捻るようにして、テーブル席を覗う。


 白っぽい紅茶用の湯飲みを前に、分厚い本をめくっているのは。


 織音籠のボーカル。

 JIN だった。



 視線を感じたように、JINの頭が上がるのを見て、慌てて前を向く。カバンを探って本とポーチを取り出す。

 中から出てくるのは、シャトルに巻いた糸と、その先に繋がったレース編み。


 カチ、カチ、カチ、カチ

 音をたてて糸を繰り出し、本を広げて。

 コーヒーミルの音を聞きながら、編み目を数える。 



 閉店までの時間をつぶすのに、毎度毎度招き猫のスケッチをしているわけにもいかなくって。

 何かないかと覗いた本屋で見つけたのが、タティングレースの本だった。作品に興味を惹かれて、孝さんが行きつけにしている大型手芸品店で相談してみると、簡単に道具も揃って。

 基本のモチーフから、練習を始めている。


 くぐって、こえて、しめる。

 こえて、くぐって、しめる。

 くぐって、こえて、しめ……る向きを間違えた。

 一目戻って。


「大分、進んだ?」

 コーヒーの香りと一緒に届いた声に、生返事を返す。

 飾り編みが一目と……。

「手元から、少し離して置いてあるけど、気をつけて」 

「うん、ありがとう」

 あと、二目で。一つの区切り、と。


 シャトルをテーブル上に置いて、ぐーっと、伸びをする。

 普通の編み物と違って、手を休めても編み目が落ちないのが、タティングの良いところだと思う。それから、目を拾うわけじゃないから、手元が少々暗くっても編めるところと。  

 孝さんが気を遣って置いてくれたお湯飲みを、コースターごと引き寄せる。

 白い招き猫と、目が合う。


「今日はまた、すごいのを招いたねえ」

 小声で白ニャンコに話しかける。そして、コーヒーを一口。

 洗い物を終えた孝さんが、カウンターの向こうで腰を下ろしたのが、見えた。

「マスター」

「はい?」

「前から聞きたかったんですけど……」

「何でしょう?」

「窓際の黒い子と、この白い子はペア?」

 目の雰囲気が似ているような気がする。


「どうでしょうかね? あまり深くは考えてなくって……」

 窓とカウンターを見比べた彼の視線が、レジの方へと流れる。レジ横の黒い子は、右手を上げている。

「そういえば、このお店、招き猫が多いですよね? 猫好きなんですか?」

「ええ。実家でも猫を飼っていましたし」

「じゃあ、店の周りも猫だらけで、うれしいでしよ?」

「うーん」

 唸りながら首を傾げた孝さんの視線が、チラリと背後に流れた。後ろに座っているJINへと注意を払うように。 

 さすが“職人さん”。おしゃべりをしていても、店内に気を配り続けているらしい。


「俺よりも多分、弟の方が喜ぶかな? 店を見に来た両親にも言われたけど」

「あー、三つ下の……」

「実家で最初に飼った猫も、小学生の頃にアイツが拾ってきた猫で」

「へぇ」

「子どもの頃から、野良猫でもいつの間にか手懐けるヤツでね。俺の吸うタバコを嫌うところまで、猫と同調してて」

 懐かしそうに話す孝さんの言葉に、背後から咽せたような咳が聞こえた。



 振り返るとJINが、口元を手で覆うようにして、大きな体を丸めていた。

 カウンターから出たマスターが、ハンドタオルを差し出す。

「Thank you」

 ステージ上と変わらぬ低い声が、礼を言う。

 おお。生の声を聞いてしまったよ。マイクを通してない。



 咳が落ち着いたらしきJINが席を立って、孝さんとレジを挟んで、向き合った。

 なんだろ。あの二人。雰囲気が似ているような気がする。

 さっき話題に出た、招き猫たちのように。


 孝さん、織音籠のファンだし。

 影響されることだって、あるだろう。


 そんな事を考えながら、お湯飲みに口をつけていると、お釣りを受け取るJINが、孝さんの耳元で何かをささやく。 


「大丈夫。分かっているから」

 孝さんが、そう答えたように聞こえた。


 そして、引き戸を開けるJINの後ろ姿に

「また、いつでもどうぞ」

 と、穏やかな声をかける孝さん。


 JINは振り返ることなく、後ろ手に手を振って。  

 夜の中へと帰っていった。



「孝さん」

「うん?」

 テーブルを片付けている彼に、

「JINって、よく来るの?」

 本人の前では聞けなかった事を聞いてみる。さっきの帰り際のやりとりは、かなり親密そうに見えた。

「里香さんほどじゃないよ」

「いや。そこを比べるのは、どうかと」

「月に一回……は、来てないか。忙しいだろうし」

「最初は、やっぱり驚いた?」

「まあ、それなりに?  開業してすぐ、だったからね」

 よく見つけたなぁ。マスター本人が『わかりにくい』と自覚しているようなお店。

  

「JINにも、“約束事”見せたの?」

「いや、あれは……」

 洗い物を始めた彼が、言葉を探すように黙って。

 その沈黙で、閃いたこと。


「撮影禁止なのは、JINがくるから?」

「あー。ばれた?」

「うん」

「店のルールにしてしまえば、彼も断りやすいかな、くらいの気持ちで」

 そんなに騒ぎになるほど、うちの店が流行ってないのが痛い。

 そう言って彼は、水道を止める。


 それでもJINのサイン色紙を飾ったりして、宣伝に使おうとしないところが、孝さんらしい。


「里香さん」

「はい?」

「そろそろ、ラストオーダーにしようかと」

「あー。おかわりは、結構です」

 マスターとお客の時間も、そろそろ終わり。


 これから朝までは

 恋人としての時間。

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