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店内は、禁煙です

 会社を出る時、雨はまだ降ってなかった。


 『夜には本降り』と朝の予報で聞いていたから、折りたたみ傘は持っていた。

 残業帰りの空腹と、冬の雨に濡れる冷たさとを秤に掛けて。

 途中のコンビニで一口チョコでも買えば、空腹はごまかせると、外食せずに帰ろうとしたのに……。


 電車の窓ごし。雨に濡れる夜の街並みを、恨めしく眺める。



 ため息をもらして、冷蔵庫の中身を思い浮かべる。

 確か、タマネギの使い残しと、ピーマンが一個。それから、ニンジンが半分ほど居たような……気がする。

 あー、でも。冷凍のご飯は昨日、食べてしまったな。

 淋しい冷蔵庫の中身を補う買い物は、二年ほど前から閉店時間が遅くなった駅前スーパーに行けば、まだ間に合う。


 間に合う……のだけど。


 スーパーで買い物をして、帰宅するのに三十分。それからご飯を炊いて……なんて、考えただけで気が遠くなる。 

 もういいや。お弁当でも買うことにしよう。



 最寄り駅を出る頃には、さらに雨が激しくなっていた。

 地面を叩く雨音と、開いた折りたたみ傘特有の臭いに、一段と重くなった足を引きずるようにして、雨の中へと踏み出す。

 ああぁ。雨なんて、嫌いだ。



 閉店間際の値引きセールで買った、オムライスとカップスープがこの日の夕飯だった。

 レンジで温めたオムライスに、ケチャップで大きく顔を描く。

 さっき見た鏡に映っていた顔は、自分でも嫌になるほど疲れきっていたから。

 上書き修正するつもりで、ニコニコの笑い顔を描く。



 うん。成功、成功。

 変な液だれもなく、いい顔が描けた。


「いただきます」

 まさに自画自賛しながら軽く手を合わせて。薄焼き卵の端にスプーンをいれる。


 帰宅からつけっぱなしのテレビをお供に、一口。また一口。ケチャップ絵の笑顔のパワーが、おなかに積もる。

 合間に飲むポタージュスープの熱さは、雨に冷えた気持ちを温めて。

 満ちたおなかに、人心地がついた。



 最後の一口。しっかり噛んだ鶏肉を 飲み込んで。ごちそうさま、をする。

 そして、ざっと後片付けをしたあとは、お米を研ぎながら、朝食の算段。

 

 お味噌汁には、タマネギと薄揚げ。それから、おにぎりを二個。具は塩昆布と梅干し……じゃなくて、カツオのふりかけをまぶす。

 さっき買い足した卵を、メインの目玉焼きにして、と。

 いや、待てよ。

 ご飯が炊きたてだし。卵が新鮮なうちに、卵かけご飯ってのも、捨てがたいよねぇ。

 うーん。悩むなぁ。



 好きな物を、好きなように食べる。

 実家の両親が見たら卒倒しそうな食生活は、私にとっては“一人暮らしの醍醐味”なんだけど。

 バブル期を共に過ごした学生時代からの友人たちには、『里香ったら、悪食? もうちょっと、なんとかならない?』と呆れられる。


 そのうちの一人、千賀子が『おいしい無国籍風居酒屋を見つけた』と連絡してきたのが、先週のことで。少し遅めの新年会を二人ですることになったのが……来週の金曜。

 そんな約束を思い出しながら、だしジャコを鍋に入れて、水を張る。


 よーし。これで、朝ご飯はオッケー。完璧。



「で? 相変わらず、ジャンクな食事をしてるわけ?」

 シザーサラダを取り分けている私の向かいで、千賀子の声がする。 

「ジャンクって……ひっどぉー」

 膨れて見せて、取り箸をサラダボウルに戻す。

 “二人きりの新年会”で頼むメニューが、野菜から始まるあたりが、お肌の曲がり角を過ぎた三十代。

「朝ご飯が、乾燥シリアルとか」

「シリアルは、普通乾いてますー」

「牛乳もかけずに、バリバリ噛んでるんでしよ? 里香のことだから」

「……」

 あれは、その。

 牛乳がね。賞味期限がね。


 学生時代。酔った千賀子を泊めた時の失敗を持ち出されて、黙り込む。レタスをかじる。

 シンプルなサラダだけど、このお店。千賀子が褒めるだけあって

「おいしい。レタス」

「レタスって、おい!」

「だって。コンビニのサラダとは、違うわよ。やっぱり」

 大量生産で、作ってから時間もたって……と考えると、仕方のないことだとはわかっている。

 分かっているからこそ

「出来たて、って、おいしいよね」

「作りなさいよ。サラダくらい」

 あきれ顔で、千賀子がサラダのエビを口に放り込む。


「一人暮らしで一玉買ってしまうと、持て余すのよね。レタスって」

 だからといって、半玉売りは切り口から傷む。

「サラダにするような生野菜って、冷凍できないし」

「トマトはできるじゃない」

 湯むきしたみたいに皮も剥けるし、と言いながら千賀子は、取り皿に残ったレタスの最後の一枚を摘み上げる。


 その言葉に、湯むきトマトの食感を思い出して。

 眉間に皺がよる。


「野菜と果物は、鮮度が命!」

 冷蔵庫のCMのような主張をしながら、ビールグラスを手に取る。

「特にトマトは、もぎたてに塩をかけたのが、一番!」

「そんなのが? おいしい?」

「あの香りだけで、トースト一枚いける」

「やっぱり悪食……」 

「悪食じゃ あ・り・ま・せ・ん」 

 別に、不味いものが好きなわけじゃない。

「おいしいと思う“ストライクゾーン”が、広いだけですー」

「はいはい」

 おざなりな返事をした千賀子は、やって来た店員さんから、“鶏皮のパリパリ焼き”を受け取った。



 互いに仕事の愚痴を零しては、一緒に腹を立ててみたり、通勤電車内での出来事に、手を打って大笑いしたり。

 時の経つのも忘れて、おしゃべりと料理を楽しむ。


 そろそろデザートを頼むか、河岸を変えてお茶でもするか。

 そんな相談をしていると、隣のテーブルにサラリーマンらしき三人組が座った。


 千賀子が、乾いた咳をする。

 隣から流れてきた煙草の煙から、顔を背ける。


「出ようか?」

 ケホケホと咳込みながら頷く千賀子を、先に行かせて。私も伝票を手に席を立つ。 



「ゴメン。里香」

 店を出て、路上で割り勘の清算をしながら、千賀子が謝る。

「いいって。私も煙草は嫌いだし」

「でも……」

 季節の変わり目とか、疲れとか。

 千賀子はストレスが喉に来る体質、らしい。時々、乾燥した空気やホコリに反応して、咳き込む。

 私の悪食と同様に、友人の間では、いつものこと、だった。


「あーあ。里香に、あそこのデザート、食べさせたかったのに……」

 咳が治まった千賀子が、ぼやく。

「何? そんなにおいしかった?」

「うーん」

 軽く尋ねた私に、千賀子はいたずらめいた笑みを浮かべて、言葉を濁す。

「ちょっと千賀子? なによー」

「えー。言っちゃうと、つまらないし」

「はぁ?」

 どうやら、驚きのデザートメニュー、らしい。



 『次こそはデザートまで食べよう』って約束して、駅で別れて。

 帰りの電車では、吊革に軽く掴まりながら、週末の予定に思いを巡らせる。


 明日は、朝一でターミナル駅まで出て、映画。ご飯は、近くの豚カツ屋かな? 久しぶりに土曜日限定のレディースセットを食べよう。

 で、通勤カバンをそろそろ買い替えたいから、デパートに行って。

 帰り道には、駅向こう。“約束事”の喫茶店で、おやつ。


 冬の入口に偶然見つけた、チーズスフレがおいしくて少し個性的な喫茶店には、あれ以来、毎週のように通っている。

 三度目くらいで、顔を覚えられたらしく、“約束事”の紙が出てこなくなって。先週は、 メニューを出されるのと同時にマスターから『コーヒーで?』なんて尋ねられた。 

 これが、いわゆる……常連、てヤツかも。 



 翌日、一通りの用事を済ませて、薬屋横の路地で猫たちにも挨拶をして。

 さて、本日の最終目的地。


 軽く手をはたいて立ち上がると、いつもと違った喫茶店の姿が目に入った。

 軽い引き戸を注意深く開ける。


「いらっしゃいっ」

 いつも通りの渋い声に迎えられて、真新しい紺色の暖簾をくぐると、カウンター内の定位置から作務衣姿のマスターが、窓の方へと手を伸べる。

 『いつもの席へ、どうぞ』

 そう言っているような彼の仕草に軽く会釈を返して。

 奥から二番目のテーブル。手前の椅子に、脱いだコートと手荷物を置いた私は、奥側の椅子を引いた。

 

 最初のうちは、入口に背を向けて座っていたけど。こうして通ううちに、店内を眺められる奥側が、“いつもの席”になった。

 今日も定位置に腰を落ち着けたところで、カウンターを抜けたマスターが、塗りのお盆を手に歩いてくるのが見えた。



「暖簾、かけたんですね」

 お冷やとお絞りを運んできたマスターに話しかけると、

「ええ。やっと完成しました」

 うれしそうな声が返ってきた。

「どうしても自分で作りたくって」

 開店には間に合わなかったけど……と、言われて思わず戸口と彼の顔を見比べる。


 自分で、って……あの暖簾の文字、刺繍だったよね?

 “きっさ”って、書いてある文字は、ひらがなだったけど。


 唖然としてしまった私に構わずマスターは、コースターとお冷やのグラスをテーブルにセットする。

「あ……」

 もしかして。

「コースターの刺繍も、マスターが?」

「はい」

 東北の方に伝わる、刺し子の一種、らしい。

「コースターは、伝統柄なんですけどね。暖簾は、アレンジをしてて」

 アーモンド型の目を僅かに細めたマスターは、空になったお盆を一度カウンターに置くと、代わりに数枚のコースターを手に戻ってきた。


 テーブルに並んだ紺色のコースターは、どれも白い糸で模様が描かれていた。

「クロスステッチ、とは違うんですね」

「布地は、近いかもしれませんけどね。糸が、絶対に交わらないんです」

「はあぁ」

 長い目、短い目を織り交ぜて。幾何学模様が、浮かび上がる。


 マスターに断ってから一枚を手に取る。 

 古くから伝わる土のパワーが形になったような、不思議な感慨に浸る。


「コーヒーで?」

 確認された声に、我に返る。

「あ、チーズスフレも、お願いします」

「承知しました」

 暇つぶしに、ゆっくり見て下さい。

 そう言ってマスターは、カウンター内へと戻って行った。



 店内にコーヒーの香りが漂い始めた頃。引き戸の開く音がした  

 私以外の客がいる日、なんて。珍しい。

 そう思いながら、コースターを手に顔を上げると、寒そうな顔で一人の男性が入って来るところだった。

 確かに今日は、日なたぼっこをしている猫たちの数も少ない、底冷えのする日だった。


    

「ホット、一つ」

 父くらいの年頃で小太りの男性は、注文と同時にどさりと音を立てて入り口近くのテーブルに腰を下ろすと、ジャケットの胸ポケットから一本取り出した煙草を咥えた。

「あと、灰皿もな」


 “約束事”を知らないらしい、この人はきっと初めての客なんだろう。

 マスターどうする気かな?


 する必要のない心配だけど、そっと、カウンターを窺う。

 ヤカンを下ろしたマスターは、注文の復唱とともに砂糖やミルクなどの好みを確認したあと。

 まじめくさった声で。

「申し訳ありませんが、禁煙にさせていただいてます」

 とだけ言って、ドリップを外した。



 ライターを手にしたままの男性の脇を通り抜けて、コーヒーが運ばれてくる。

「お待ちどうさまです」

「あ、いえ」

 テーブル上に広げてあったコースターのうち、最初に私が手にした一枚が、湯飲みの下に敷かれる。

「スフレの方は、後でお持ちしますので」

「あ、あちらの注文の後でも……」

 ライターを弄ぶ男性に、三年前に別れた恋人の姿がだぶる。

 私の転勤をきっかけに別れた彼は、ヘビーを通り過ぎたチェーンスモーカーで。『タバコを吸うな』なんて言われたら、手の付けられないほど虫の居所が悪くなっていた。

 この男性も、ほんの些細なことで機嫌を損ねるかもしれない。

 どうせ私の方は、予定も何もないし。



 『すみません』と、小さく口が動いて。マスターがテーブルを離れる。

「なあ、灰皿。一個も置いてない、なんてことないだろ?」

 カウンターに入った彼に、男性が未練がましく灰皿を所望する。

 マスターは、軽く首を振って。

「申し訳ないですが……」

「『コーヒーの味が分からなくなる』とか、分かった風なこと、言う気か」 

 両手で包んだ湯飲みごしに、二人のやり取りをながめる。

 しつこいというか……必死だなぁ。


「女の客が居るからって、カッコつけやがって」

「自分も、やっとの思いで禁煙したんで。誘惑しないで下さいね」

 苦笑が混じった声のマスターは、そう言いながらミルで豆を挽き始めた。


「禁煙、なぁ。分かっちゃいるけど、なかなか、これが……」

 火を着けないままの煙草をパッケージに戻しながら、男性がぼやく。

「世の流れ、でも、あるんだろうけどさ」

「人生トータルで吸った本数が多い程、大変だと言いますね」

「そう。そうなんだよ。まして、周りのヤツが吸ってると、な」

「煙草もライターも捨てたのに、貰い煙草してしまったりね」

 いつしか二人は、禁煙の大変さで盛り上がっていた。


 マスターと煙草、か。 

 咥え煙草で、軽く顔を顰めて刺繍をしている姿は……想像できなくもない。

 あー、でも。コーヒーを入れている時の煙草は、アウトだな。

 作務衣姿の彼と煙草のシチュエーションを、色々思い浮かべながら、コーヒーを飲む。



 スフレが運ばれてきたころには、すっかりコーヒーを飲みきってしまっていた。

 空の湯飲みを覗いたマスターに、

「おかわりをいれましょうか?」

 と、聞かれて。

 頷くより先に、さっきの男性が会計を頼む声がした。


 『おかわり、頂きます』と答えた私に会釈を残して、マスターが、カウンター内へと戻る。

 会計を済ませた男性が

「禁煙、頑張って続けろよ」

 とか言いながら、店を出て行く。


 おかわりを入れてもらう間、チーズスフレをお預けにしようか、とも思ったけど。

 やっぱり、チーズの誘惑は強すぎて。

 端っこを小さく崩しては、口に運ぶ。


 ストライクゾーンの広すぎる私だけど。

 これは、直球ど真ん中。

 絶対に千賀子や友人たちもおいしいと言うに違いない。

 それに、このお店だったら。千賀子の喉にも優しいだろう。


「今日は、手際が悪くて、申し訳ありません」

 そんな言葉と一緒に、新しい湯飲みがテーブルに置かれた。

「いえいえ。マスターも大変ですね」

「好きで始めた店なので……」

 “大したことではない”と微笑む顔が、職人の誇りのようなものを、感じさせる。

 

「マスターは、お店のために、禁煙を?」

「いえ……」

「すみません。立ち入ったことを」   

 言い淀むような返事に、『これは、拙い』と、会話の軌道修正をはかる。 

 この辺りの匙加減は、仕事でも神経を使う。

 入社二年目に配属されて以来の営業部で、叩き込まれたけど。まだまだ修行の最中だ。


 そんな私の、ヒヤリとした気持ちをよそに、

「会社勤めをしていた頃、『お金燃やして、不健康になるなんて、ばかばかしい』みたいなことを、彼女に言われたと後輩が言っていましてね」

 のんびりとした口調でマスターが語る。

「身内に、煙草を嫌う者もいましたし。いい機会だと」

 そう、話を締めくくった彼は、いつものように『ごゆっくり』の言葉を残して、テーブルを離れた。



 カウンターから聞こえる洗い物の音をBGMに、チーズスフレを口に運ぶ。


 『知り合いの話だけど……』というのは、得てして自分自身の話であることが多いらしい。

 マスターの語った“後輩”も、実は彼自身だったりするのかもしれない。


 煙草を嫌う“身内”が恋人と考えると、辻褄もあう。

 話しながらマスターは、大事な物を見るような目で、窓の方を眺めていたし。


 仕事の一部とはいえ、手刺繍を嗜む男性って。

 彼女からは、どう見えるのだろう。

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