喫茶店での約束
その店は突然
私の前に
現 れ た。
秋から冬になりかけた、日曜日の昼下がり。
駅向こうの美容院を出た私は、人気のない裏通りを歩いていた。
最終目的地は、“北通り”との角にあるパン屋さんだけど。かろうじて車がすれ違える程度のこの通りは、歩いているだけでも楽しい。
低層のビルや普通の家々の合間に、ひょこりと小さなお店がまざっている。
荒物屋さんに、花屋さん。仏具屋さんもあれば、『一見さんお断り』の雰囲気を漂わせる暖簾も。
そして最近では珍しくなった、木枠のガラス引き戸を半開きにした古い薬屋さんの横手。
短い袋小路への入り口は、いつ見てもネコの溜まり場になっている。
小春日和の今日も、日なたぼっこをしているキジトラの前でしゃがみ込むと、『日陰になる。退け』と言わんばかりの目でにらまれて。アヒル歩きで移動しながら謝る私の足元に、前脚だけにタビを履いたクロネコが体をすり寄せてきた。
「こんにちは。元気?」
挨拶がてら艶やかな毛を撫でると、咽を鳴らす。
「そうか、そうか。ご機嫌さんなんだね」
返事をするような鳴き声をあげて。クロネコは、スルリと歩き出す。
『行っちゃうのか』と、一つ息を吐いた私は、背後から聞こえたクロネコの、“もう一声”に呼ばれて。
体をひねりながら、振り返るようにして立ち上がりかけた時。
『チーズスフレ ドリンクセット』
上手いのか下手なのか。判別の難しい文字が目に飛び込んできた。
カンノンチクとカネノナルキ。
二つの植木鉢に挟まれたイーゼルの、本来キャンバスが置かれる所にクリアブックが開かれていた。その左ページをいっぱいに使って書かれた“チーズスフレ”が、『そろそろ、おやつにしない?』と誘っている気がして。腕時計を見てみる。
確かに。
時刻は、おやつ時の少し前。今日は、お昼が早かったし。
よし、決めた。と、立ち上がって。
何度か、瞬きをする。
ここは……何のお店だ?
薬屋さんの左隣。路地を挟んで建つ、古びた二階建て。
喫茶店があるつもりの場所には、小料理屋とか居酒屋といった趣きの玄関があった。
暖簾は掛かっておらず、片引き戸もピタリとしめられている。
どう贔屓目に見ても客を待つ体制ではないそのお店の、本来、暖簾が掛けられるべき腕木には、藍地に白い文字で“商”と書かれた折り紙サイズの下げ旗が、風に翻っていた。
これは……営業中、の意識表示だろうか?
どうしようか。と、格子戸と下げ旗の間で、視線が彷徨う。
何度目かの往復がオーバーランして。さっきのイーゼルまで流れる。
安価なクリアブックと見えたモノの、表紙が意外としっかりとした厚みを持つことに気付く。
例えていうなら。そう。
お蕎麦屋さんのお品書きのような……。
これはこれで、お店の雰囲気と合っているのかもしれないけど。やっぱり、喫茶店の雰囲気ではないよね。
うーん。と唸りながら、“チーズスフレ”の文字を睨む。睨めっこをしているうちに、口の中が完全にチーズを待つ体制を整えたような……錯覚を覚える。
負けた。
おやつの誘惑に。
ソロリと、引き戸を開ける。
「っらっしゃい」
低くて威勢の良い声が、開いた戸の間から飛び出した。
うわっ。
びっくりした。
びっくりはしたものの。
見た目よりも軽く滑った戸は、私の姿を隠す役には立たないほどに開いてしまっていて。カウンターの内側で立ち上がる男性と目が合ってしまった。
こういう造りのお店には、やっぱり。暖簾って、必要よね。
そんなことを考えていたのは、ほんの一瞬。
「お一人で?」
歯切れのいい声につられて
「はいっ」
学生のような返事を返す。
片頬で笑った彼はカウンター越しに手をのべて、壁際に四つ並んだ四人掛けのテーブルをしめす。隣とは背中合わせになるように置かれたテーブルも、お蕎麦屋さんっぽい。
「お好きな席へどうぞ」
その言葉に、会釈で応えて選んだのは、奥から二つ目。路地に面した窓の横に据えられたテーブルに、入り口に背を向けて座った。
壁に取り付けられた電灯は、竹を組んだようなシェードに覆われて。控えめに店内を照らす。
障子越しの柔らかい光が差し込む窓辺には、窓枠の延長のような十センチ幅ほどのスペースに、紺色の座布団を敷いて小さな招き猫が座っていた。黒い招き猫の手の形をまねて、テーブルの下で左右の手を交互に握ってみる。
タビを履いた左手を挙げているこの子は、招客のニャンコ。
そんなことをしていると、
「初めて、のご来店ですよね?」
良く通りそうな渋い声に尋ねられて、一つ頷く。
お絞りと一緒に、お冷やのグラスを運んで来た彼は、間近で見ると、かなり背が高いように見えた。
そして、メニューと重ねて、クリアケースに挟まれた紙が、差し出されて。
「当店の、“お約束”です」
約束、って。何事?
「お待ちの間にでも、目を通していただければ……」
「はぁ……」
なんか、面倒くさい店に入ってしまった。
「まず、お飲み物から、お聞きします」
「あ、じゃあ……コーヒーを」
「ホットで?」
「はい」
メニューを開く前なのに、勢いで頼んでしまった。
まあ、いいや。
時価とか言っても、コーヒー一杯の値段なんて、たかがしれているだろうし。
「お砂糖、ミルクは使われますか?」
「あー、いいです。ブラックで」
ファストフードならともかく、喫茶店では経験したことのない問いかけに、流されるように答えてから、少しだけ焦る。
ブラックで飲むことなんて、滅多にないのに。
大丈夫か? 私?
「かしこまりました」
暫しお待ちを、の言葉を残して、店員さんが立ち去る。
本当に、『まずは、飲み物』だ。チーズスフレを頼み損ねた。
テンポの摑めなさに、小さく肩をすくめて。テーブルの上に、メニューを開く。
チーズスフレと、プリンと、クレープ。それにワッフル。
わ、五種盛り、なんてのも。
あ。でもパフェとか、軽食メニューは無いんだ。
おしぼりで手を拭きながらそんなことを考えていると、隣に人の気配が立つ。
「他にご注文は?」
「あ、チーズスフレを」
「少々、お時間を頂きますが?」
「ゆっくりでも、大丈夫ですよ」
見上げるように答えると、微笑が返ってきた。
なんてことのない、愛想笑いなのに、つい。
こちらの口角も、笑みを形づくる。
店員さんの微かな足音を背中に聞きながら、お冷やのグラスを手に取る。現れた藍色のコースターには、白糸で施された幾何学模様のような刺繍。
民芸博物館とかに置いてありそうな模様が、お店の雰囲気と呼応しているように感じる。
変わった喫茶店だ。
そして。
一番変わっているポイントだろう『約束事』を手に取る。
色画用紙にカラーペンで書かれているのは、店の入り口で私を招いた“チーズスフレ”の文字と同じく、下手なのか上手なのかわからない文字だった。
メニューも手書きだったなぁ。そういえば。
・約束 その一。
『当店は、禁煙です』
最近、増えてきたよね。
タバコの臭いは好きじゃないから、これは嬉しい。
・約束 その二。
『コーヒー、紅茶の銘柄指定には、お応えできません』
ああ、居るねぇ、確かに。勉強熱心で、銘柄にこだわる子。
キリマンジャロがどう、とか。
学生時代の友人の姿をちらりと思い浮かべつつ、私には興味のない世界だと、スルーする。
・約束 その三。
『写真撮影は、ご遠慮下さい』
は? 写真?
なんじゃそりゃ?
首を傾げていると、視界の隅に手が見えた。
さっきグラスの下に敷かれていたような紺色のコースターが、置かれて。その上に、大ぶりのお湯飲みが静かに“座った”。
コーヒーの香りが、流れてくる。
「お菓子の方は、もうしばらく……」
かけられた声に、頷きで応えて。
ひとまず、『約束事』をテーブルに置いた。
両手で包み込むようにして、お湯飲みを持ち上げる。茶色の濃淡で彩られた厚手の器を通して、じんわりとした温もりが掌に伝わる。
そっと、唇に寄せて。
湯気を先導に、一口。
舌に触れる熱さと、コーヒーの苦味が交わる。
あぁ。おいしい。
これは、ブラックで飲みたいコーヒーだ。
『お砂糖とミルクは?』
そんなことを、あえて尋ねるこのお店は、きっと。
この“味”に誇りを持っている。
おいしいコーヒーを傍らに、再びクリアケースへと目を戻す。
・約束 その四
『おしゃべりの声は、控えめで』
“お互い、心地良く過ごせますように”って、付け加えられた一言が、クッションにはなっているものの。
細かいことを言うなぁ、と思ってしまって。
軽く振り返るようにして、店員さんの居るだろうカウンターを見やる。
大きな体を屈めて、真剣な表情で作業をしているその姿は、作務衣を着ているせいか、職人のように見えた。
職人なら……当たり前、かも。細かいことを言うのは。
一人で納得しつつ、コーヒーを飲む。
うん。職人さん、職人さん。
さて、次の約束は……。
・約束 その五。
『会計や注文に、すぐには応じられないことがあります』
厨房からキャッシャーまで一人で担っている都合上、すこし待って欲しい、とか。
私と同年代。三十代に見える彼は、店員さんじゃなくって、マスターらしい。
それはともかく。
これも一つ、職人のこだわりだねぇ、と、声を立てずに笑っていると、こぶりの籠に入ったカトラリーが、そっと置かれた。
お、ついに。主役の登場、だ。
期待に胸を弾ませている私の前に差し出されたのは、焼き魚が似合いそうな、灰褐色の細長いお皿。角切りのキウイやオレンジが散らされた真ん中に、両手で包めるほどの大きさのスフレが鎮座していた。
フルーツの間には、ベリーらしきソースが水玉のように散らされていて。
食べるのが惜しいほどの、彩りだった。
「お待たせいたしました」
「いえいえ」
“約束事”のおかげで、そんなに待った気がしない。
「コーヒーのお代わりも、してますので」
ごゆっくりどうぞ、の声に軽く頷いて。フォークを取ろうと覗き込んだ籠には、刺し子の布巾が敷かれていた。
店構えから始まって。あっちもこっちも、喫茶店らしくない雰囲気だなぁ。
でもそれが、このお店の個性、なのだろう。
手書きのメニューや、“約束事”と同じで。
そんなことを考えつつ、キウイを口に運ぶ。
わ。甘い。
果物がおいしいって、幸せだなぁ。一人暮らしでは わざわざ買ってまで食べないから、余計にうれしい。
う・ふ・ふ、と鼻唄まじりでスフレに入れたフォークに伝わる、シュワっとした手応え。
そして。
ひんやりとした食感と、しっかりしたチーズの香りに、口の中が『チーズ! チーズ!』とはしゃぐ。
これ、好きだわ。私。
果物とスフレを交互に食べて、合間にコーヒーを楽しむ。
私の他に客のいない店内は、ひっそりとしていて。その静けさも、不思議な心地よさだった。
少し前まで、洗い物らしき物音を立てていたマスターの存在が、なんとなく気になって。
カウンターを振り返ると、針仕事をしているらしき姿が見えた。
「なにか?」
顔を上げたマスターの声に、我に返る。
「あー、と」
「はい?」
「コーヒーのお代わりって……」
「プラス、二百円になりますが」
とっさに出た言葉だけど。口にした瞬間、本意になる。
注文を伝えて。
カウンターから、物音が生まれてくる。
ヤカンにあたる水音。
ガスコンロに着火する火花。
豆を挽くミルの、小気味よいリズム。
一人暮らしには懐かしい、実家の台所を彷彿とさせる音の数々を、湯呑みに残ったコーヒーとともに味わう。
ちょっと変わっているけど。
良いお店を見つけた。
駅のこっち側に来るときは
また、ここでおやつにしよう。