第78話 サルザンカの宝-『荒れ狂う本と黒』
「それでは、私は帰ることにするのですぅ」
ミータスは、足元に転がっているロンロンの頭をその白い手で掴むと、それをずるずると引き摺りながら、リョウたちに背を向けて歩き出した。
「待てよ。ロンロンをどうするつもりなんだ」
リョウがミータスを呼び止めると、彼女は不思議そうな顔で振り返って立ち止まる。
「ロンロン? 誰のことですか?」
「その獣人のことだよ」
すると、ミータスはそれを自分の顔付近まで持ち上げて、リョウにニコリと笑ってみせる。
「獣に名前を付ける趣味があるのですね。素敵なことだと思いますぅ」
「違う。そいつの名前だ。それに、話を逸らすな」
「ふむぅ〜。これをどうするのか。そうですねぇ。とりあえず、拠点に持って行くのですぅ。運搬保護が、私の仕事ですぅ」
「そうじゃなくてだな」
要点をえないミータスの返答にリョウは、頭を掻き毟りながら不満を表現した。
「ミータス。その獣人は何の目的があって捕獲するんだ。ことによっては、それを阻止するが」
どう聞けばいいか分からなかったリョウに変わって、アヌビスが聞く。だが、アヌビス自身は馬鹿馬鹿しい質問だと思っていた。ただ、リョウの口を塞ぎたいがための代弁である。そうでもしなけば、震えだした木刀を怒りの根源に振り下ろしてしまいそうだからだ。
「機密事項ですぅ。それに、これに関する任務は、絶対遂行で最優先事項なのですぅ。例え相手だ誰だろうと、絶命覚悟でやり遂げなきゃいけないのですぅ」
口調はふざけているが、その目は鋭くアヌビスを睨み返すほどだ。それを見たアヌビスは、諦めたかのように肩を落とす。
「あーそいうかよ。リョウ、諦めな。こいつ、話さないと一度口にしたら、絶対に話さない奴だからな」
ミータスのことを知っているかのような口ぶりのアヌビス。それをさらに強調するかのように、ミータスは自分の口を手で塞いで笑っていた。
「それじゃあ聞くがよ。その任務って言うのは、何十人もの仲間の命を消し去ってまで、やり遂げる価値があるのか?」
リョウは、その拳を震わせながらミータスを視界に縫い付ける。その怒りをミータスは関知したのか、嫌味のようにニコリと笑ってみせる。
リョウは、ロンロンを連れ去ることに腹を立てているのではない。その過程が気に入らないのだ。
ロンロンの周りには沢山の警備隊員がいた。彼らは確かにロンロン捕獲を諦めて、逃げ出そうとしていた。
だが、それはその時までの話だ。
もし、あの時ミータスが普通に現われていれば、彼らは再び戦う気力を取り戻していたかもしれない。
しかし、ミータスはその確認すらせずに一方的に彼らを拒絶排除した。
ミータスがロンロンを連れ去る過程で、彼らに攻撃を加える必要があったのか。リョウはそれが知りたかったのだ。
だが、ミータスが出した答えはとても分かりやすく単純なものだった。
「うん。あるのですぅ」
あっさりと肯定したミータスは、その軽い答えに呆気に取られているリョウを無視して、話を続けた。
「それに、あれ仲間じゃないですぅ。彼らは、街の警備隊。つまり、街の治安維持部隊ですぅ。街の安全管理は、国土内部軍事省の管轄ですぅ。そして私は、外の国と戦う部署。国境外軍事省の所属ですぅ。むしろ、正反対の敵対組織ですぅ。でもぉ、軍事でくくるのなら、同じ頭首を持つので、同じかもしれませんねぇ」
リョウはそんな複雑な政治関係を聞きたいのではない。包み隠さず聞かなければ、ミータスから何かを聞きだすのは無理だと彼は理解した。
「なら、はっきり聞いてやる。あの警備隊を殺さなくても、そいつを連れ去ることぐらいできたんじゃないのか?」
「うん。できたと思うのですぅ」
「じゃあ、なぜ殺した!」
再びミータスの即答。それに対して間髪入れずリョウの怒鳴り声が飛ぶ。
流石のミータスもその早さには驚いたのか、黒く丸い瞳をくりくりさせながら驚いていた。
リョウが既に用意していた質問に、ミータスは数秒だけ考えて、ニコリと笑って答える。
「だって、邪魔だったんですぅ」
「邪魔だった……だと?」
ニコニコ笑いながら答えるミータスに、リョウは視線を送らず、その体から淡い橙色の光を出しながら聞く。
「うん。邪魔だったのぉ。だってぇ、ゴミの山から獣を見つけるのは、大変だと思わない?」
「ゴミだと……」
リョウが一言発するたびに、橙色の光は背中へと集まってゆく。
「うんうん。ゴミゴミ。戦わずウジャウジャと逃げ惑うだけなら、むしろ虫けらですぅ。戦闘員としての素質を失った戦士は、利用価値も存在理由も生存権利も無いのですぅ。そんなものは、焼却処分して、再粒子化するのが一番の有効的利用法ですぅ」
「人間をそんな扱いしていいと思っているのか」
「そうですねぇ……ものにもよりますぅ。価値があって、残さなければならない人間もいると思うのですぅ。でもおぉ……」
一息置いてミータスはリョウの視線を自分へひきつける。そして、ねっとりとした笑みを見せて挑発する。
「あの程度の人間にはないですねぇ。クズがたくさん集まろうと、所詮クズなのですぅ」
「てめぇ、ふざけたことぬかしやがって!」
リョウは、橙色の光の尾を引きながら走り出す。その先には、ピクリとも動かないミータスが笑っている。
「いい加減にしやがれ!」
だが、リョウの突進は、腹部を突き刺す一つの激痛によって止まった。その停止と同時にリョウを包んでいた橙色の光は、砕けるように散って空気に溶けていった。
リョウの懐には、その小さい体を丸めて、木刀を突き出しているアヌビスがいた。その木刀は、リョウの柔らかい腹に深く刺さっているが、血などは一滴も出ていない。ただの木の棒を押し付けられただけだからだ。
「ふぅがあ」
だが、己の足の力と、無防備な腹部への攻撃。そんな攻撃でもリョウは胃液で喉を焼いた。
「あ、アヌビス何を」
「黙れ!」
下を見ようとしたリョウの顎を振り上げられた木刀の剣先が叩く。
「くっ、」
さらに、大きく喉を見せたリョウの首を木刀が横に殴る。その威力はアヌビスの腕力のみ。それだけしかないのに、リョウを揺るがすほどはあった。
「おい、まだ死ぬのは早いぞ!」
アヌビスは、倒れこもうと地面にひきよれられるリョウの皮ベルトを掴む。それを無理に引っ張りリョウを立たせる。そして、脇腹へ木刀を叩き込む。その衝撃でさらに胃液をふきだしたリョウを拒絶するかのように、蹴り飛ばして地面へと送る。
背中から叩きつけられたリョウにとって、木刀の痛みよりも胃液の焼けるような痛みの印象が強かった。
長い間何も食べていないリョウの胃の中は空っぽだ。何か食べていれば大量に吐いて楽だったかもしれないが、今の彼が胃から出せるものは、朝食を待って準備された胃液だけだった。
「はあぁ、な、なにぉお」
喉が焼けて酷い声のリョウは、目の前の黒を見る。
「まだ話せるなら、死んではいないなぁ」
その黒は、木刀を高く青空に振り上げてリョウへと振り下ろしてきた。
咄嗟に両腕でそれを防ぐ。だが、少年が振り下ろした木刀の威力は尋常ではなく、簡単に左腕を心地良い音を立てて折って見せた。
「ぐっうぅ……」
「あはは、これじゃ苦しいだけで死なないなぁ。まあ、それも面白いがな」
あまりの痛みで涙が滲んだリョウだが、痛みと文句の声を出す前に次の一振りを知る。
それに対しても同じ対処法しかできないリョウは、自分が何をしたのか何が悪いのかわからなかった。
「アヌビス!」
だが、二振り目のそれは右腕を折ることなく、リョウの腕に触れず止まった。そして、その恐怖の木刀は、主の手からするりと転げ落ちて地面へと逃げる。
リョウに圧倒的力をぶつけるアヌビスを止めたのは、小さな少女ミルの一言だった。
その名を呼ぶ一言で止まったアヌビスは、自分の震える右手を左手で押さえ込んで、リョウから離れた。
「くそ、こんな時に……」
その震えるアヌビスの右手は、まるでアヌビスの意思に反して動くようで、その動きを防ごうとするアヌビスの必死さは珍しいものであった。
「ふざぁあけるななぁ! これは、俺のものだあぁぁああ!」
誰にでもなく地面に向ってそう叫んだアヌビス。いつもの脱力感のある表情や不気味な笑みではなく、血管を浮かべた形相からは、彼には似合わない汗が流れている。
雄叫びを上げたアヌビスは、その両肩を上下させながら息を整えようとする。だが、その真っ赤な瞳からは、先ほどの恐怖の炎がまだ燃えていた。
そのアヌビスの隙を見計らって、ミルがリョウの側に近づき彼を心配する。
「リョウ、大丈夫?」
骨折の痛みと焼かれる痛みで声を出すのが酷なリョウは、優しく聞くミルに対して首を振る返事しかできなかった。
「おい、ミル。それを、ここから、遠ざけろ」
「な、なあ、」
それ呼ばわりされたリョウは、必死に何か聞きだそうとする。だが。
「黙れクズが。感情で動き回って、貴様は何が目的だ。それになんだその戦い方は。刃物を握らせてもらった餓鬼と変わらないだろうが。何を斬っているのか。何をしたいのか。分かってやっているのか」
「お、おれ、は、人を」
「貴様は獣も人も殺そうとしただけだろうが! その場の感情で己の信念を変えるぐらいなら、己の理想なんぞ語るんじゃねぇ!」
怒鳴るアヌビスの手は自然と剣の柄へと伸びている。だが、アヌビスの視界にミルが入る。
その少女の不安そうな顔を見たアヌビスは、大きく足を広げてリョウたちと距離を作る。
そして、その剣を抜いて進める足の先は、その状況をボケーと見ていたミータスだった。
「ミータス。相手しろ」
ずかずかと近づいてくるアヌビスの重圧から逃げようと、ミータスは笑いながら後退りする。
「全力拒否ですぅ。なんですかぁ? 最近は大人しくなったって聞いていたんですがぁ……これじゃあぁ、討伐時代の荒々しさと変わらないのですぅ」
「そうかもな。それに、それが分かっているなら、覚悟もあるんだろ!」
一息でミータスとの距離を縮めたアヌビスは、その勢いを乗せた剣を振り下ろす。だが、ミータスはその小さい体をひねるようにして剣を避ける。そして、ウサギのように飛び跳ねながら後ろへと下がってゆく。
「そんな覚悟はできてないのですぅ」
ミータスはニコリと笑ったが、アヌビスの雰囲気に答えるかのように真面目な目付きで彼を見つめ返す。
「もし、私を本気で殺そうとするのなら、私もそれなりに戦うのですぅ」
そして、下手に出ていたミータスは、胸を張ってアヌビスを見下す。身長差ではアヌビスの方が上だが、ミータスの自信はそれを簡単に埋めるほどあった。
「それに、傲慢発言だとは思うのですが、今の貴方様程度が相手なら、私一人でも倒せそうですぅ。ぬふふ、竜の群れを作ってから、弱くなったって言うのは、本当だったんですねぇ」
「ミータス! 馬鹿にしているのか!」
逃げようと飛び跳ねるミータスをアヌビスが追いかける。そして、足が速いアヌビスがミータスを剣の間合いへ入れた。
そして、アヌビスはその白い剣を横に振る。だが、ミータスは身軽に足を曲げてその剣を飛び越える。それどころか、その刀身の上に乗りそれを踏み台にして、さらに高く飛んでアヌビスから逃げる。
「馬鹿にしているのではないのですぅ。事実発言なのですぅ。それに、昔の貴方様なら、今の一撃で私を殺していたのですぅ。私に一撃すら入れられなくなったことは、弱体化したと罵る理由にはならないですかぁ?」
身軽な飛び跳ねを繰り返しながら、アヌビスとの距離を大きく作ったミータスは、別れの挨拶とばかりに笑顔を見せる。
「私は、昔の強い貴方様が大好きでしたのですよぉ。また昔みたいに誘いに来てくれるのを待っているのですぅ」
ミータスはロンロンを掴んでいる手とは逆の手を左右に振りながら、アヌビスに別れを告げて街の方へと消えていった。
「くそがあぁ」
馬鹿にされた事と怒りと悔しさをまとめたアヌビスの叫びは、振り上げた剣を叩きつける力へと変わろうとした。
「アヌビス、落ち着けよ」
だが、その力の誕生は、彼の恐怖をまったくといって感じない単純馬鹿のアンスが止めた。
怒りしか沸いてこない体。その肩にアンスの手が置かれる。それに振り返る顔は誰でも脅えそうなものだ。だが、その表情はアンスを見て徐々に和らいでいった。
「アンス……か」
仲間の顔を見て落ち着いたアヌビスは、その振り上げた白い剣をそっと鞘に戻した。
そして、仲間が集まった光景を見て、やはり一人足りないと再確認する。
今のアヌビスは、目の前で治療を受けている魔道書より、姿の見えないアレクトを気に掛けていた。
この物語はフィクションです。
登場する人物名・団体名・地名などは全て空想のものです。
実際に存在するものとはなんら関係がありません。
一部、誤解を招きやすい表記があるかもしれませんが、ご了承ください。