徒花(4)
「やっぱりここは落ち着くわね」
長く息を吐き出す先輩。その濡れた唇がなんとも艶かしい。そんな思考を振り払いつつ俺は缶コーヒーに口を付けた。
先輩はやはり自分の缶を時おり傾けながら、ただゆっくりと前方を見つめている。俺と先輩の間に遮るものは無く、手を伸ばさなくても容易に届く距離だ。
結局、今回もここに来てしまった。いや、これが先輩の本題だったのかもしれない。
ちらりと横を盗み見れば、先輩は手櫛で髪をかき上げ梳き直している。その間も視線はずっと変わらずに前方を見つめたままだ。
こちらから切り出すべきなのだろうか。だがどう切り出せばいいのか。
いや、もしここもあの日をなぞると言うのなら。
「ねぇ、駒木君」
先輩が先に口を開くはず。そう、こんな風に。
「何です? 麻倉先輩」
「デートに誘った理由、聞きたい?」
そういって悪戯っぽく笑う先輩。その姿はやはりあの日と同じ様に、でも少しだけ悲しげに見えた。
「聞きたいですね。間もだいぶ空いたわけですし」
背中を柵から軽く離し、先輩の方へ半身だけ振り返る。先輩は相変わらず両腕を柵に預けて、眼前に広がる街並みを見つめていた。
ここは駅を中心とした繁華街からは少し外れた所にある城址公園の一角だ。平城、一説では平山城であった城跡を整備した公園だが、小高い岡の上にあり階段で上がると結構な労力が必要だったりする。
その分、街並みを眺める景色は良く、風も抜けるためか夏でもそこそこ涼しい。さすがにこの時期、この時間では肌寒くもなってくるが。
「でもその前に、何であのルート取りなんですか?」
ここに至る道は当然一つじゃない。わざわざあの道を選んで通る必要など無いのだ。
「それはー……ま、興味本位よ。後は最短ルートだからかしら」
そう答えて軽く笑う。そしてこれが本心だと言うのだから尚更性質が悪い。
俺を試して遊んでるのかもしれないし、ある意味で俺を信用してくれている証拠なのかもしれない。何となく納得出来ない部分がある気もするが、これ以上はやぶ蛇になりかねない。
「ま、俺くらいにしてくださいよ。そういう真似するの」
「分かってるわ。向こうじゃこんな真似しないわよ」
いちおう釘を刺せば、当然という返事を頂いた。分かっていても言いたくなる事もあるというに。
「分かってるならいいです。それで、理由って何ですか?」
話を戻す事にする。そっち方面の話題を続ける気はさすがに無い。
「理由ね。ほら、あの日はあくまで仮初めだったじゃない?」
先輩の言葉に「ああ」と声が漏れた。確かめる必要も無く、それは事実だと自分も認識している。
「あの昇降口での、が発端でしたっけ」
「そう。彼を納得させるための演技。そう言ったわね」
「たまたまそこに居合わせたのが俺だったから、でしたね」
先輩は少しだけ顔をこちらに向けて「そうね」と微笑んだ。
その言葉が意味するものは何なのか。文字通りなのか。それとも。
そんな風に考えるのは自惚れなのかもしれない。そんな事は分かっていた。
ただ、そう思ってしまう理由もあった。
「あの時の彼は結構しつこかったわ。ああしたのも、やむを得なかったのよ。もっとも、今言ったら言い訳かしら」
さらりと風に流れた言葉。その中に後悔の様なものを感じ取る事は出来なかった。
「偶像を追うだけの人とつき合う気は無い、でしたか」
「よく覚えていたわね」
今度は幾分か嬉しそうに肩を震わせる。
「そりゃ覚えてますよ。正直俺もびっくりしましたから」
「あの頃のあなたは、そう、可愛かったわ」
先輩は横目でこちらを見て、再び缶を口に運ぶ。
「どこか引っかかる気もしてたんですけどね。さすがに分かりませんでしたよ」
言って再び背中を柵に預ける。そのまま空を見上げれば、夜空が空を覆いつくそうとしていた。
思いのほか明るいのは、街灯だけでなく月が明るいのもあるだろう。視線を戻せば、咲き始めた桜の木々が公園の覇権を握ろうとしていた。そろそろ花見客も多くなる時期だ。
「さて、理由だったわね。あの日の仮初めのデートを、仮初めで終わらせたくなかった。本当よ」
「それはー」
さてどこまで本当か。いや、本当だとしたても、その他に並列的な理由がありはしないか。
当然何か思い当たるものがあるわけじゃない。予想するにも材料を持ち合わせていない。
「信じられないかしら」
「それだけ、と言うのなら」
「素直じゃないわね」
「鍛えられてますから」
答えてから残りのコーヒーを喉に流し込む。最後まで飲みきってから拳で口をぬぐい、息を吐き出す。
「さすがは恭香さんの弟さんね」
「そう言われるのは好きじゃないんですが」
「分かってて言ってるわ」
でしょうね。そうだと思っていました。
知り合った当初から感じていた、微かな引っかかり。今となればそれが何なのかが分かる。
この人は似ているのだ。自分の姉と。
「恭香さんはK大だったわね」
「あの人は何でも出来ますから」
姉の駒木恭香は俺の三つ上、麻倉先輩にとっては二年上の先輩に当たる。そして今年先輩が卒業し、今自分が在籍する私立緑翠学院高校の卒業生でもある。
俺は姉と入れ替わるように進学校でもある緑翠に進んだが、多くの先生方が姉の事を覚えていた。まぁ全国でも名前が通るK大に合格したのだからそれも当然なのかもしれない。
そして当然のごとく、自分は比較される立場になる。これは中学の時もそうだったし、覚悟はしていた事だ。
だから比較の言葉はてきとうに受け流す事が出来たし、幸いな事に友人達にも恵まれたと思う。少なくとも緑翠での高校生活を嫌だと思った事は無かった。
比較はされ続けるとしても、その本人はもうこの学校にいない。あの整った上っ面に悩まされる事も無い。
だけど出会ってしまった。何処となく姉に似た雰囲気を持つこの人に。
そして思ってしまった。もしかしたらこの人は姉以上に猫を被っているのではと。
「図書委員の頃に面識があるけれど、良くも悪くも存在感のある人だったわね。その成績の噂は当時の一年生、私達にも伝わっていたもの」
姉は三年間図書委員を務めていた。訊いたら理由は単純、司書室で本が読めるからだった。
「家ではただグータラな人なんですけどねぇ」
オンオフの切り替えと言おうか。姉はそれがひどく極端なのだ。部屋は基本的に物で溢れていたし、リビングには本が積みあがってる事がたびたびあった。本人いわく、効率性を重視しているらしいが、端から見れば単なる物ぐさにしか見えない。
一方で気が乗るともの凄い勢いで片付くのも事実だった。普段からそうすればと思うのだが。
そして外では鉄壁の優等生ぷりを見せるのだから、あの人の思考は正直分からない。
それでも一緒に暮らしてきた時間は伊達では無いのだろう。習慣と言うべきか、読める行動はやはりあったりする。
だが目の前のこの人はどうだ。さっきのルート取りもそうだが、俺の予想外の行動ばかりする。
予想外。それは学校での麻倉明日葉をイメージしているからだと今は分かっている。最初のデートの日に、それを嫌というほど思い知らされた。
この人は貪欲に、好奇心の向くままに進む人なのだ。
特にあのルートを通らされた時と言ったら……、いや、もう過ぎた事か。
「誰しも二面性を持っているものでしょう。意識化でも、無意識でも。それの一面を持ってイメージが違うと言われるのは、主観の押し付けじゃないかしら」
「それが嫌だったんですよね」
うなずく先輩の髪が揺れる。
「なら、学校でも普通にすればいいじゃないですか?」
「それはそれ。印象ってものがあるでしょう? 世渡りには大事よ?」
「うわ。ドン引きですよ」
「そうでもないくせに」
横目で笑われる。その笑みは取り繕った学校用とは違う、やわらかな笑い顔だ。
「うん。こんな私でも引かないあなただから、仮じゃなく、やり直してみたいと思ったのよ」
腕は柵に預けたまま、先輩は顔をはっきりとこちらに向けた。
流れた髪が風になびき、ふわりと揺れて元に戻る。
そんな髪を視界の端に留めつつ、その意味を考える。
そのままストレートに受け取るべきなのか。それとも遠回しに何か別の意図があるのか。
ストレートだとしたら、俺はどうするのか。いや、俺はどうしたいと思うのか。
手に持った缶を無意識に口元に寄せるが、中身は既に空にしていた事に気付いてそのまま手を下ろす。
顔が熱い気がするが、気のせいって事でいいだろう。
「ふふっ……あはは」
唐突に笑い声が俺の耳を突いた。もちろん出所は俺の隣の人物からだ。
「ごめんなさい。駒木君があまりにも味のある顔をしてたから、つい……ふふっ」
味のある顔とはこれいかに。いったい俺はどんな顔をしていたのか。
気になる。とても気になるが、ここでその質問は地雷である気がしてならない。
「ふふっ。半分は冗談よ。せっかくだし、きちんと思い出にしておきたかった、というのが本音ね」
微笑む先輩。だがそれは学校用の笑顔であり。
「……残り半分は自分で考えろ、って事ですかね」
俺が言葉を返すとご明察、と言わんばかりに口の端を上げて笑う。
やはりこの人は俺の手が届かない人なのだろう。その思考は読めず、予想を裏切る言動はいつも俺を揺さぶる。
だからこそ気になってしまう。その刺激が嫌だと思わないから。
この感情は何なのか。一言で表して良いものなのか。
その解は、いまだに見つかっていない。
「さて、そろそろ夕ご飯の時間ね」
先輩は柵から腕を離して軽く伸びをしてからそう言った。
「そうですね。何にします?」
「これから旅立つわけだし、フルコースでの晩餐なんてどうかしら?」
「あー、んじゃファミレスでいいですかね」
そんなお金があるわけない。というか今日が突発だったので、どちらかといえばカツカツだったりする。
「仕方ないわね。行きましょうか」
柵から離れて、来た道を戻る。階段まで来ると、斜面の桜の木がライトアップされていた。
ゆっくりと階段を下りていくと、途中でひらりと一枚の花びらが落ちてきた。
「あら?」
それを見て足を止める。周囲の桜を見回すが、散っているようには見えない。まだ満開にもなっていないのだから当然だ。
風で飛んだのだろう。もしかしたら開花宣言時に咲いていた花なのかもしれない。
「花は散るのが定め、か。私達も、いつかは散るのよね」
先輩がぽつりとこぼす。その表情を見るも、何を思っているかは分からない。
「まだまだこれから、じゃないですかね」
俺はそう言って笑ってみる。
まだ二十年も生きていない。食べさせてもらって、養われる立場だ。同時に、花を咲かせるための栄養を蓄える期間でもあると言えよう。
「そうね。どんな経験も、無駄にしないようにしたいわね」
返された笑顔。風に吹かれて髪が踊る。
その髪を手で押さえて、先輩はまた桜を見上げた。
それからゆっくりと目を閉じて、小さく唇を振るわせる。
バイバイ。
その声は聞こえなかったけれど、唇はそう動いた気がした。
「さ、行きましょう」
先輩は目を開けると、いつもの調子で俺を促す。
そんな先輩が階段を下り始めるのを確かめて、俺もその隣に並んだ。
「今日は楽しかったわ。本当にありがとう」
夕飯を終え、最寄りのバス停まで先輩を送る。この時間ならバスが遅れるという事も無いだろう。
「いえ、こちらこそありがとうございました」
「出る前にいい思い出が出来たわ」
「大学生活、楽しんでくださいね」
テンプレートのようなやり取り。これもお約束という事だろう。
そうしているうちにバスが来て、そのドアが開く。
「麻倉先輩。また」
「ええ。またね」
先輩は乗車口に向かい足を踏み出す。
次がいつかなんて分からない。決める事じゃない。そして期待する事でもないのだろう。
「あ、そうそう」
ステップに足をかけたところで先輩が振り返る。
「みのりの事、よろしくね。それじゃ」
先輩はそういい残してバスに乗り込み、乗車口が閉じられた。
そして呆然とそれを見送っていると、今度は先輩が窓際の席から小さく手を振っているのが見えた。
片手を挙げてそれに応じれば、バスはゆっくりとその姿を小さくしていく。
交差点を曲がり見えなくなったのを確かめて手を下ろす。
「最後が水内の心配とはな」
何とも麻倉先輩らしい。伝えてやれば水内も嬉しがるかもしれない。いや、悔しがるか。
そんなあいつを想像して思わず笑みがこぼれた。
「さて、帰るか」
言い聞かせるように声に出して駅に向かい踵を返し、ポケットから飴を取り出して口に含む。
レモンの甘酸っぱい味が舌に広がり、思わずつばを飲み込んだ。
「これで良かった、んだろうな」
言ってしまえば、さらに寂しさだけが増した気がする。
そんな俺の背中を、三月の暖かい風がゆっくりと押してくれた