徒花(3)
水の音。静かな校舎にただそれだけが響く。
上履きの鳴らす音がノイズの様に響き、俺はまた足を止めた。
この時間まで残るつもりではなかった。ただ先輩に薦められた小説が面白く、区切りを探っていたら思いのほか図書室で時間を過ごしてしまった。
ま、たまにはこんな時間もいいのかもしれない。そう前向きに考えるとしよう。
自分の教室に寄り鞄と傘を回収し、昇降口へと続く階段を下りる。朝から降り続ける雨は、予報通り夕方でも止んでいなかった。
昇降口まで来ると、どこからか話し声が聞こえた。少し覗いてみるも、一年の下駄箱からではない。上級生という事か。
「本当に、ごめんなさい」
靴を下ろした時に聞こえた声。それには確かに聞き覚えがある声だった。俺は靴に足を差し込んで思わず息を凝らす。
「理由を、教えてくれないか?」
問い詰めるような男の声。続いたのは困惑したような女性の声で、相手の名前を呼ぶものだった。
見ないふりして去るべきだろう。そう思い軽くつま先で地面を蹴って感触を確かめてから、こっそりと足を踏み出す。
極力音は立てず、気付かれないように校舎を出る、つもりだった。だが何の悪戯か。向こうも同時に下駄箱の影から姿を現した。
向こうを見る俺の目と、向こうから俺を見つめる四つの瞳。うち二つの瞳は、予想通り見覚えのあるものだった。
「あら。遅かったじゃない、駒木君」
「麻倉先輩?」
思わず疑問形が口をついた。遅かった、と聞こえたが気のせいだろうか。
「待ってたわ。さ、駒木君。帰りましょう」
麻倉先輩はそばの男子生徒に軽く頭を下げると、俺に向かいそう言い放った。ただ強くこちらを睨んで。
「あ……はい。お待たせしてすいません」
状況は読み込めないままだが、先輩の視線に気圧されてか、何とか返事をする事が出来た。
「麻倉」
「それじゃ、行きましょう。ごめんなさい、先に失礼するわね」
男子生徒の言葉を遮るように、麻倉先輩は声をかぶせた。
俺は先輩に促されて傘を開き校舎から出る。間際にちらりと視線を走らせれば、男子生徒は眼鏡をかけていて、上履きのままだった。
水たまりの見える歩道を、傘を並べて歩いて行く。最寄り駅までは十分ほどの道のりだ。駅から先輩はバス、俺は電車が通学手段だった。
赤信号に引っかかり歩みを止める。その拍子に傘同士が軽くぶつかった。
「ごめんなさい」
「いや、大丈夫ですよ」
軽く手を上げて答えてみせる。
「それと、さっきはありがとう」
さっき。昇降口での出来事か。少し圧力のある視線を受けたが、感謝されるほどかというと、そんな必要も無い気がする。
それよりも、先輩がそんな眼力を見せた事に驚いた方が大きい。
「丁度良いタイミングであなたが見えたから、話を切る理由にさせてもらったの。話を合わせてくれて助かったわ。だからお礼くらい言わせて」
信号が青に変わる。再び先輩の歩幅に合わせて歩き出す。
「ま、後々トラブルにならなきゃ構いませんよ。先輩にはお世話になってますから」
主に勉強関連で、だが。
「トラブルにはならないと思うけれど……。そうね」
先輩は思案するように軽く傘をうつむけた。少なくとも先輩を悩ませるつもりなど無かったのだが。
「まぁ今日の事、俺は見なかった事にしますよ。その方がいいでしょう?」
返事は無い。俺もそれ以上何も言わずにただ足を進める。
お礼を言われたが、正直首を突っ込みたい空気では無かった。置いてきた男子生徒――おそらくは先輩にあたるのだろうが――からすれば確実に邪魔をしてしまっただろう。
まぁその辺は麻倉先輩が上手くさばいてくれると思っている。面倒見の良さは身をもって知っているから。
それでも余計なごたごたを背負い込みたいとは思わない。
それが色恋沙汰だというならば、尚更だ。
確証は無いが、おそらくはそっち方面の話だったと思われる。聞こえてきた言葉と表情を見た限りだが。
個人的には水内から言われるだけで十分だ。
そんな事を思っているうちに、いつしか南口を抜けて改札前へと着いていた。
俺は当然改札を通り電車に乗って帰るわけだが、改札上部の時刻表を見るに発車時刻まで五分という何とも良いタイミングだった。
「それじゃ先輩。ちょうど電車もあるんで、ここで」
先輩は北口のバスターミナルを利用するので、改札前は通過するだけだ。そして先輩の乗るバスは電車よりも本数が多い。水内も同じバスなのだが、あまり時間を気にしなくても良いのはちょっとばかり羨ましい。
「そうね。駒木君、ちょっといいかしら」
そう言うと先輩は俺の左側に身を寄せ、伸びをするように顔を近づける。
そして俺だけに聞こえる声でゆっくりとささやいた。
「今度、デートに行きましょう」
驚き振り向いた時に見た先輩の表情は、これまでに見たどの表情よりも楽しそうで。普段の頼れる落ち着いた先輩像からはとても窺い知れない、口の端を上げた無邪気な笑顔をしていた。
俺は麻倉明日葉という人間を見誤っていたのかもしれない。そして同時に、改めてこの人に興味が湧いた瞬間だった。
結果として俺はその提案を受け入れ、デートは梅雨の合間に実行される事になった。
スクリーンは終盤を迎えていた。
役目を終えた客船は爆破解体される事が決まった。
最後の記念にと船内に入る数人の元船員達。その中の一人、楽隊のメンバーだった者が船内の隅で彼を見つける。現状を説明し、船から下りるように必死の説得を試みるが――。
上映が終わりシネコンを出た時、時計の針は五時を回ったところだった。
普段ならどこかに腰を落ち着けて感想戦、といきたいところなのだが、今日はあくまでやり直しだ。
「ちょっと本屋に寄っていいですか?」
俺の言葉に先輩はただくすりと笑う。あの時そうした事をもちろん覚えているのだろう。
同じビルに入居する本屋へと移動する。個人的に学校帰りによく利用する店なので、本の配置は覚えている。
「あら、新刊出てるのね」
平積みされた文庫本を眺めていた先輩が一冊を手に取った。
「そういえば発売日過ぎてたわね。引っ越しの準備で忘れていたわ」
表紙を見るにシリーズ物の最新刊だ。過去に薦められた記憶があるが、生憎と俺はまだ手を付けていない。
「今買うんですか?」
「一冊くらい邪魔にはならないわ。移動中のお供が欲しいと思っていたところなの」
荷物になるのでは、という心配は余計なお世話だったようだ。
気を取り直して自分も新刊をチェックする。センセーショナルな帯の文句に釣られて手にとってみるが、どうも自分的にはピンと来ない。
以前、先輩にお薦めの本を教えてもらっていた時、インスピレーションは大事だと言っていた。もちろんハズレを引く事もあるけれど、面白そうと思った事自体が読むモチベーションになるというのだ。
だから無理せず合いそうだと思った物から読みなさい。先輩はそう言った上でいくつかの本を挙げてくれたんだった。
「興味を引く物が無いみたいね」
「残念ながら」
そう毎回読みたいと思える本と出会えるわけじゃない。だからこそ不意に出会えた時がとても嬉しい。最近それが分かってきた気がする。
「最近は何を読んだの?」
「最近ですか。休みに入ってからは読んでいないんですが」
棚の作者名を追い、目当ての本を見つけて抜き出す。
「これですね」
抜き出した本は、高校を舞台としたミステリー。人の死なない物で、日常の謎と言われるジャンルだ。ちなみに主人公は探偵役ではなく、その推理を聞いて驚く方だったりする。
「学園ミステリー物ね。私も後で読んでみようかしら」
是非、と薦めつつ本を戻す。新刊チェックも終わった事で、とりあえず用事は済んだ。
「さて、どうします?」
店内を一周してから先輩はレジに向かった。俺はそれを待ち、店を出てから問いかけた。
「もちろん、決まっているでしょう?」
先輩は当たり前と言う様に返事をくれ、先に立って歩き出す。
ここだけは違っていて欲しかったのだが。やり直しと言っている以上、避けては通れないものなのか。
小さく息を吐き、先輩の隣に並ぶ。この後を分かっていても、分かっているからこそ後ろを付いて歩くわけにはいかなかった。
外は茜色に染まりつつあった。街灯や看板灯、ネオンサインが光を放ち始めていて、街自体の雰囲気が変わっていく、何とも不安定な空気が流れていた。
そんな街の中、先輩と並んで歩いて行く。隣を歩くその足取りに迷いは感じられない。
北口駅前通り、通称いちょう通りを進み信号を二つ越えてから、コンビニの角、信号の無い交差点を右に折れる。
曲がった先、視界には白やレンガ装飾の建物、シンプルな低層ビル等が立ち並んでいる。ただどの建物も看板を下からだったり、バックライトで照らし目立たせている。
いわゆるホテル街と呼ばれる場所だ。こんな所で学校関係者に出くわせば詰問は免れないだろう。だがそんな事など気にしていないかのように、歩調は緩まない。緩めない。
「相変わらずね。この辺は」
「そりゃそんなには変わらないでしょう」
最後にここを通ったのは、前回の時までさかのぼる。あれからまだ一年と経っていないし、その程度では目に見える変化なんてそうそう出ないだろう。その当時から工事なり何なりしていれば別だが。ああ、閉店ていうのもあるか。
「まぁ変化が分かるほど通ってもいませんしね」
「そう」
会話をしながら白い建物の前を通り過ぎる。そばの案内板に書かれた料金体系が何とも生々しい。
しかし、やはり落ち着かない。分かっている事ではあっても、慣れる事は無いんだろうな。
軽く後ろ頭をかきつつ、歩調だけは緩めずに先へ先へと進んでいく。
ふと思い出し、ポケットから取り出した飴を口に放り込めば、甘酸っぱい味が口の中に広がった。オレンジ味。その風味が、さっきの香りを否応無く思い出させる。
これは失敗だったかな。
かといって吐き出すわけにもいかず、歩調に合わせて口の中を行ったり来たり。ほどよい甘さが舌にまとわりついて、つばが口の中に溜まっていく。
いったい俺は、何を期待しているのか。
つばを飲み込み、半分くらいになった飴を噛み砕く。
それから欠片を飲み込んで、勝手ながら一刻も早くこの場を脱したい気分になった。