月読(4)
いつも通りと言えばいつも通りだ。
今日も結局ここに来てしまった。別に苦手とか嫌いとかではないが、ここは色々と印象が強すぎる。
日の入り時刻を向かえ、空は赤く染まって来ている。それは見える街並みも同じだ。
「ここに来るの、何回目かしら」
「俺は四回目ですけどね」
仮初めの日、やり直しの日、夏休み、そして今日。
「ここは一人で来るイメージが無いんですよ」
「そう、私は一人でも来るけれど」
視線は街並みに向いたまま。寒いので両手はポケットに突っ込んだままだ。
高台というのもあり、街中では弱かった風もいくぶん強く感じる。
「向こうには、こう見晴らしの良い所が近くに無いのよ」
「そうなんですか。それは……残念ですね」
「どうして言いよどんだのかしら」
「向こうの地理を思い浮かべてただけです。他意はありません」
N大周辺はたしかに平地だ。展望公園の様な施設は近くに無いのだろう。
「まぁいいわ。本題に入りましょう?」
いつもの声。いつもの表情。この場所での麻倉明日葉、その人のイメージと寸分の違いも無い。
だから俺は、先手を取る。
「訊きたい事があります。何故俺に帰省予定を教えたんですか?」
「あら。知り合いに予定を連絡するくらい、普通じゃない?」
しれっと返してくる先輩。
「デートをしておいて、その次が帰省の連絡。さすがに苦しいと思いませんか?」
「……そうね」
あれだけ強引に予定を押さえておきながら、その前後は連絡を取ってこない。
「先輩にとって、都合のいい遊び相手だったのかもしれませんね」
「否定はしないわ」
先輩はあっさりと首を縦に振る。
「もっともそれはお互い様だと思うけれど?」
「そうですね。お互い都合の良い面だけを受け入れてきたわけですからね」
それは共通認識だった。少なくとも、あのやり直しまでは。
「あのやり直しは、それの外。先輩は踏み越えたんですね」
「一つだけ付け加えさせて。結果的に、よ」
「結果的に、ですか」
踏み越えるつもりは無かった、と言いたいのか。それともそういう意思が初めからあったのか。どちらであっても結果は変わらないのかもしれないが。
意識した方が負けなのか。ならば俺は完全に敗者だ。だが現状に勝者はいない。
吹き抜ける風が、先輩の髪を揺らす。前にもこんなシーンを見たような気がする。
たしか、あのやり直しの日だ。夏の時は風が無くて早々に撤退をしたのだから。
そう。仮初めでなく思い出としてやり直したい。それが理由の半分だったはず。
柵に背中を預けて、大きく白い息を吐き出す。
「あの時言っていた半分、文字通り本気だった、って事ですか」
「……正解よ」
こちらを向いて微笑む先輩。だがその眉尻は下がっていた。
「本当は、気付いていたのでしょう?」
「言ったら、単なる自惚れじゃないですか」
今度ははっきりと笑われた。やれやれだ。
後ろ頭をかいて、もう一度息を吐き出す。
「それに、あの時点で言っていたなら、確実に断っていたでしょう?」
「そのつもりだったわ。連れ込まれてもいい覚悟はしていたのだけれどね」
またそういう事をさらりと言ってくれる。それが出来るくらいなら、こんなに悩む事も無かったというのに。
「元から、今もですが、色々曖昧にし過ぎたのかもしれませんね。それ故に、水内にも心配をかけてしまった」
「それだけは、本当に誤算だったわ」
水内がこんな行動に出るとは考えてもいなかった。いくら気が合うと言われていても、考えている事が分かるわけじゃない。
水内は、以前に椎名が言っていたように、ずっと気を使ってくれていた。
俺は明確な言葉を口にせず、それでいながら志望校をN大にしている。それをあいつが結びつけて考えるのは当然の事だろう。
その事を先輩に伝えたいとも思うだろう。だが試験は水物。自分自身が当落線上であがいている水内は、それが痛いほど分かっているはずだ。
それにプライベートである事を気にしたか。そういう部分でも気の回る奴でもある。
「でも、ほんといい奴ですよ。あいつは」
今まで過ごしてきたシーンを思い出し、つい笑みこぼれる。
ゲームセンターだったりカラオケだったりと遊びに付き合う事が多かったが、総じて楽しい思い出ばかりだ。
「ほんと、いい顔をするわね」
そんな俺の横から、吹く風の様に冷たい声が響く。
「先輩?」
「いつも思っていたの。みのりといる時のあなたは、本当に楽しそうだと」
視線が外され、街並みへと向けられた。
「別に怒っているわけじゃないわ。私といるのが楽しくないの、なんて訊くつもりもない。野暮だもの。でもね」
さらに視線が上がる。夜はもうじき空を覆いそうだ。
「私に無いもの持つ二人が笑っていると、正直複雑よ。凄く似合ってると思ってしまうもの」
「先輩……」
ここまで弱気な先輩は見た事が無い。去年の入試の時でさえ、笑って試験会場へ向かっていったのに。いやそれよりもまずは。
「俺が先輩に無いものを持っている?」
「ええ。もちろん恭香さんのことでは無いわよ」
姉貴が俺の所有物なわけがない。むしろどちらかといえば俺が使役される側な気がする。下に生まれた者の宿命だとしたら、ただ嘆くしか出来ない。
「姉貴以外であるんですか? 先輩に無く俺に有るものが?」
先輩は俺の方を横目で見て、軽く口角を上げた。
「秘密よ。教えたらつまらないじゃない」
これである。さっきまで弱気な顔をしていたのに、すぐいつも通りに戻っている。コロコロと変えられて掴みどころが無い。これも一つの先輩らしさだ。
こうなった先輩から口を割らせるのは容易では無い。こちらは素直に引っ込める事にしよう。
「先輩も、俺達をそう言うんですね」
「事実だもの。お友達にも言われてるのかしら?」
「ま、似たような事は」
息が合う、と呆れられる程度には言われている。それでもそれ以上を訊かれた事は無かったはずだ。
噂されていたかどうかまでは、さすがに知らない。それほど目立った行動もしていない、と思う。強いて言えば、一時期ゲーセンに通い詰めた事くらいか。
それも半年以上前の事になる。つくづく早いものだ。
「本当は、そういう意味も込めて、あの子を頼むと言ったつもりだったんだけど、ね」
「え?」
聞き間違いかと顔を向けるも、先輩はいたって真面目な顔つきだった。
「そうなったらいいと思っていたのよ。あなたになら彼女を任せられる。心配いらないと思ったのは事実よ」
「先輩は、俺にはあいつの隣が似合ってると言うんですね?」
「反対、かしら。あの子の隣には、あなたが似合う。そう思ったわ。あの子のこと、嫌いじゃないんでしょう?」
「それは……」
嫌いという事は無い。水内ほど気軽に接する事が出来た女子はいなかった。
もっとも、それはあいつのキャラクターに因るものだと思う。あの勢いと人当たりの良さがあったからこそ、現在の関係が築けている。
たしかに物理的に突っ込まれる回数は、俺が一番多いのかもしれないが。ただ単に気安い関係だとも言える。
それに結果論ではあるが、俺達の関係に一役買ったのが先輩の存在である事は、疑う余地が無い。
結局は三人それぞれの思惑が絡まって、今の現状が出来上がっているのだ。
それでも最もはっきりさせるべきだったのは、ここの関係であった事も揺るがない事実なのだろう。
「もちろん嫌いでは無いです。でも、そういった感情を持って見ていたつもりも無いですね」
「私は男女間の友情を認めない方なのだけど」
「それはそれで構わないんじゃないですかね。ただ俺自身はそういう風に思ってる。もちろん向こうがどう思っているかなんて、分かりませんけれども」
あまり真面目な会話をしていないというのが実際のところか。
他愛無い会話を繰り返している時間が、なんとなく好きであり、水内と正面から論戦めいた事をした記憶は無い。
椎名とはそれっぽい話をした事があるが、他の友人ともあまりそういう事はしてこなかった。多分、姉貴の影がちらついてしまうからだろう。
「そう。……ままならないものね」
先輩は虚空へと白い息を吐くが、すぐに風に流れて消えていく。
「不思議なものね。私自身、こんなに未練がましいとは思っていなかったわ」
「それは俺も似たようなものです」
本当に諦めて、過去にしてしまえていたならば、また違った環境にいたのかもしれない。だがそれこそイフの話だ。
「自分でも驚くしかなかった。そして本質的には変わってないなって、そう思った。いくら体裁を整えても、なかなか本質までは変わらないものなのね」
初めて聞く自嘲的な言葉。その表情は淡々と街並みを見つめたままだ。
「私は皆が思うほど、出来た人間では無いわ。何事もそこそこの人間だった。ちょっと巡り合わせが良かったのかもしれないけど」
また空を見上げる。つられて視線を上げれば、いつのまにか空は夜に覆われていた。よく見れば星の光と月も確認出来る。
「俺だってそうですよ。反発しながら、結局はどこかで姉貴の真似をしていた。巡り合わせが良いのかは分かりませんけどね」
「恭香さんね。あの人の様に在りたかったわ」
姉貴の学校での面を指して言っているのだろう。ぱっと見の態度だけなら負けていなかったと思うが、先輩は線引きが曖昧だったのかもしれない。
姉貴は笑顔で一刀両断するタイプだ。しかも切れ味良すぎて一瞬では気がつかないほどに。
「姉貴には恋人がいるそうですよ。正直想像できませんけどね」
「へぇ。まぁ不思議では無いわね。あれだけの器量の持ち主だもの」
その器量はどちらの意味だろう。いや、両方なのか。
優等生の猫を被っていた姉貴だが、決して孤高というわけではなく、気の合う友人とは深く付き合っていた。そんな友人を家に連れてくる事もあったし、その度に肩身の狭い思いをしたものだ。
多分その人たちは猫を被らない姉貴を知っていたと思う。姉貴がその辺の使い分けをミスするとは思えない。
「姉貴に言われましたよ。アンタはコピーじゃないんだからって。良い子ぶる必要なんてない。好きにやれってね。ほんと、良い姉貴ですよ」
軽く肩をすくめて笑う。
「羨ましいわね。そして、やっぱり遠いなぁ」
先輩は上を向いたまま、右手を頭上へと伸ばす。もちろん何かが掴めるわけでもなく、ただ拳を握り締めるだけにしかならない。
「私は、恭香さんの様に器用には出来なかった。ある程度は受け流す事が出来ていたかもしれないけど、本音と建前を混ぜすぎちゃったみたいね」
「俺からすれば、十分器用だと思いますが」
「でも結局は、自分を抑え切れなかった。だから今、私はここにいるの」
俺の方へ向き直る先輩。その右手がゆっくりとこちらに伸ばされる。
「もう一度、思い出が欲しいと言ったら、あたなはどうする?」
俺の左頬に触れるか触れないか、ギリギリのところで手が止められた。
「私のわがまま。でも本当は怖くて震えてるの。分かるでしょう?」
先輩の手はたしかに震えている。だがそれは寒さのせいではないのか。
だが先輩の真っ直ぐな視線は揺らいでいない。それを受け止めて、俺は目を閉じる。
決めている事はある。それでも揺らいでしまうのは仕方ない事なのか。
いや、違うだろう。
「お断りします」
目を開けて、きっぱりと言い切る。
何一つ決まっていないこの状況。また思い出にして過去にしたいというのなら、俺はそれに応じられない。
「ずいぶんとはっきり言うのね」
「そりゃそうですよ。一度失敗しているわけですから」
そっと先輩の震える手首を握り、その腕を下げさせる。短い時間であったにもかかわらず、その手は冷たかった。
伏せられた先輩の瞳。その表情にまた決意が揺らぐ。
どうあったとしても、期待を持たせてしまう事になる。持たせない方法が浮かばなかった事が、俺から連絡をしなかった理由なのだ。
だがもうそんな事は言っていられない。またこのまま過去にされるなんて受け入れられないし、今度ばかりは水内も黙っていないだろう。
掴んでいた手首を離す。伝え伝わった熱量が離れ、冷たい風が吹き抜けたその拳を握る。
「追いついてみせます。だから、過去の思い出にはさせられません」
俺の言葉に先輩は顔を上げる。小さく口を開けたその表情は、とても先輩とは思えないほど可愛らしく見えた。
「そんな事を言っていいのかしら?」
「先輩が信じてくれるなら。今の俺にはそうとしか言えません」
期待をする立場。それに応える立場。どういう思いを抱くかは分かっている。
普段ならそんな風に自分を追い込む真似はしなかった。常に保険をかけて予防線を引いて、過度な期待をされないよう立ち回ってきた。
でももうそんな事は関係無い。言うならば、これは俺のわがままでしかない。
どれだけ対策を練ろうと、不確定な未来の事は分からない。確証を持って語る事など出来はしない。
もっとも先輩はそんな事分かりきっているだろう。去年は逆の立場であり、俺にそんな期待を持たないようにしていたのだから。
去年の状況で、俺も気軽に言う事は出来なかった。耐える時間と天秤にかけて、全てを曖昧に終わらせた。
なんて大きな遠回りだろうか。
それにも何がしかの意味があったのか。それはこれから表に出てくるのかもしれない。
「ずいぶん強く言うようになったわね」
「色々思うところありまして、ね」
やわらかく微笑む先輩。俺はその目尻に浮かぶものに気がつかない振りをした。
今はここまで。後は自分次第。
「本当に追いつけるか。見ていてあげるわ」
待っている、とは決して言わない。最後まで言葉を選ぶ辺り、本当に明日葉先輩らしい。
そんな先輩の顔を見ていられず、俺は視線を夜空へと向ける。
上り行く月は七分といったところか。センター試験の頃は反対に二分程度の月になっているだろう。
「そろそろ帰りましょうか。風邪も引きたくありませんから」
「そうね。行きましょうか」
階段の街灯が辺りを照らす。春に咲く桜も、まだ枝のままだ。
「今年もここの桜が見れますかね」
「見れるわよ。望むなら、ね」
ゆっくりと階段を下り、駅までの道を辿る。隣を歩く先輩の気配を感じながら、俺はただ繰り返し白い息を吐き出す。
「今年はどんな年になるのかしらね」
「どうですかね。色々ありますが、楽しかったと言えればそれでいいかと」
「それもいいわね」
面倒な事、辛い事、当然色々あるだろう。目の前のセンター試験にしても、もう勉強なんかしたくないのが本音だ。
それでも後で楽しかったと言えるなら、それでいいんじゃないだろうか。
「それじゃ、また」
「ええ。またね」
バスターミナルで先輩を見送る。次にいつ会うかなんて決めない。必要な時期が来れば、会う事になるだろう。
それはどこか確信めいた予感だった。
発車するバスを見て踵を返し、改札口へと向かう。
帰ったらまた姉貴に質問をしよう。嫌な顔をされるかもしれなが、必要な事だ。
コンコースは相変わらずの混雑振りだった。そんな人の群れに紛れるように電車へと乗り込む。
こんなイレギュラーな正月があるだろうか。今更ながらそんな事を思いながら窓の外を流れる景色に視線を向ける。
また今日から気合を入れ直していこう。試験は待ってくれないのだから。
俺は視線をスマホに戻して、いつも通りに英単語アプリを起動した。
踏み越えた以上、立ち止まる時間はもう無いから。