reverberation
朝晩はだいぶ冷え込むようになった。暖房のスイッチを押す日もそう遠くないだろう。
そろそろ冬服の用意をしなければならないか。今年の冬は暖冬の予報が出ているけれど、今年も新しい服は欲しい。金銭的余裕はあまり無いのだけれど。
家に帰って誰も居ない事には、さすがに慣れた。自炊も手馴れてきたし、家事全体も面倒とは思わなくなった。
それでも、疲れている時は手抜きになっている。それくらいは大目に見て欲しいところだ。
新しい生活も半年経てば、気の合う友人も何人か出来た。その中には同じ様に一人暮らしをしている人もいる。
苦労話も話の種だ。似た様な失敗談を聞くとなんとなくほっとしてしまうのは、どういった心理作用なのだろうか。
「ねぇ、明日葉って今は彼氏いないんだよね?」
集まればこの手の話題は当然増える。今現在どころか、いた事も無いのだけれど。
正直にそう答えれば、ほぼ驚かれる。そんなに自分は男慣れしているように見えるのか、と明日葉は思わず自問自答してしまう。
体裁良くしてしまうのは、もはや習い性だ。中学時代の一件以来、上手く受け流し立ち回る事を覚え、そう振舞ってきた。
自分が我意の強い人間だという事は分かっている。みのりの側に立ったあの一件がその証左だ。正しいと思ったのは間違い無い事だが、それで離れていった友人がいたのも、否定出来ない事実。
自分は独りで戦えるほど強くない。みのりの様に正面から挑む真似は、とてもじゃないが出来ない。
恭香さんの立ち振る舞いが理想だった。話を振られればやわらかく受け止めて、その頭脳は的確に物事を読んでいく。本を片手にそう振舞う恭香さんは、話の中身から硬軟を使い分けて相手に接する。
相談事であっても、本人の前では嫌な顔一つせずに応じ、建設的な意見を述べていく。
そして相談相手が背中を向けた時に、目を細め軽く笑ってみせるのだ。
その表情で気付いていた。これは恭香さんの処世術でしか無い事に。
かといって真似なんか出来るわけが無い。それでも自分なりにバランスを取ってきたつもりだ。
もっとも、みのりにはバレていたし、彼にもすぐに見破られてしまった。それでも彼に接してきたのは、何かしらのヒントがあるのでは、と思ったからだった。
そして何気なくした質問に、彼の顔を曇らせてしまった。
多分彼はもうその事を覚えていないだろうが、明日葉の中には苦い記憶として生きていた。
それでも自分の我意は止められず、彼とは曖昧な関係を維持した。あの恭香さんを身近に見てきた彼がどういう風に思っているのか、そして彼自身がどんな人物なのか、興味は尽きなかった。
自分でも身勝手な事をしてきたと分かっている。それでも、もう止められなかった。
気ままにからかう真似もした。あえて距離を詰めたりと、あざとい事をした自覚はある。
それでも自分から越えられなかったのは、やはり負い目からか。いや、単に臆病なだけだったかもしれない。
だからあのやり直しで、断ち切るつもりだった。自分といるよりも、みのりと一緒にいる方が彼も楽しそうに見えたのもある。
それでいいと、思っていたはずだった。
夏の帰省の日、バスターミナルで彼を見た時、明日葉は衝動的に行動を起こしていた。彼が面食らうのにもかかわらず、強引にその予定を押さえた。
思い返しても、あれほど強引な自分は過去に無い。自分がそんな行動を起こした事に、誰よりも自分自身が驚いていた。
その後はすぐにバスに乗ってしまった。みのりが隣にいたけれど、何とかいつも通りに振舞う事が出来ていたと思う。
そして一日でリセット出来た自分を褒めてやりたかった。彼と会う日には、いつも通りの自分でいられたのだ。お茶を飲んでいた時も、お店を見てまわった時も、最後バスターミナルで別れるまで、前回と同じ様にいられたはずだ。
少なくとも、慌てて取り繕う様な場面は発生しなかった。
もちろん彼に確認をしたわけじゃない。それどころか、あれから連絡を取っていないのだ。
決して楽しくなかったわけじゃない。彼が何か気に障る事をしたわけでもない。
これ以上は本当に、抑えられなくなりそうだからだ。
彼は大学受験を控えている。偏差値がどれくらいなのか、彼は語らなかったし、こちらも訊かなかった。
みのりの数字は本人から聞いていた。それよりも上らしいという情報しか持ち合わせていない。
無駄な期待をしないためだ。自分のせいで、受験勉強の邪魔をしたくはない。去年は気遣われていたのだから、今年自分が逆に邪魔をするなんて、許されるわけが無い。
そしていつか、時間が経てば忘れるはずだから。
そんな風に思っているだなんて、周りの友人に言って納得してもらえるだろうか。何言ってんの、とダメだしされるのが現実的な反応ではないか。
「ま、機会と人に恵まれれば、かな」
当たり障り無い言葉を発し、明日葉はまた曖昧に笑う。
「そんな事言ってないで、ちゃんと掴みに行かないとー」
友人はそう言う。それを否定するつもりも無いけれど、あくまで一面にすぎないのでは、と思ってしまうのだ。
それでも微笑を絶やさず会話に興じる。意見の違いはあろうとも、そういう話が嫌いではない。
ただどうしても明日葉は思ってしまう。
自分はなんて面倒くさい女なんだ、と。
女子の集まりが終わり、短い家路を辿る。ふと空を見上げれば、綺麗な上弦の月が浮かんでいた。
そういえばあの夏の日は、ほぼ満月だったわね。
自分は欠けたところばかりだ。明日葉は自嘲的な息を吐き出し、家路を辿る足を速めた。