風紋(2)
翌金曜日。昨日の予想通り天気は良かった。だが早ければ夕方から雨になるかも、という予報が出ていた。降られると面倒なので、とりあえず鞄に折り畳み傘を突っ込んでから家を出た。
「おっすー」
変わり映えのしない通学路を経て教室へ。やはりいつも通りの挨拶を交わしつつ自分の席へと腰を下ろした。
「おはー、駒木」
「駒木くん、おはよう」
水内と椎名も普段通り返してくれる。それにひとまず安堵。
全てがいつも通り。でもそんな日もだんだんと少なくなっていく。ただ実感が無いので、意識しづらいものなのだろう。
そんな事を思っても、何か特別な事が出来るわけでもなく。何の波乱もなく一日は流れていく。
そんな放課後は、昨日と同様に図書室へ。試験期間ではないので席の確保は難しくなかった。
今日の課題は三角関数の演習だ。サインやコサインを使う数式は、嫌な単元ランキング上位に君臨していると思う。それでもセンター試験を考えれば、おそろかには出来ない。
姉貴に聞けばコツくらい教えてくれるかもしれないが、そうしたくないのは、ささやかな反発心からだと分かっていた。
「ふう」
問題の切れ目で顔を上げる。良いペースとは言えないが、今は少しずつでも進めるしかない。焦っても仕方ない事は、三年前の受験の時に身をもって知っている。
数学はここまでにして、英語の予習をしておこう。そう思って鞄の中を見るが、辞書が見当たらなかった。どうやら教室に置いたままのようだ。
取りに戻るか。いや、そのまま教室で予習だけして帰る方が効率的か。
そう考え荷物をまとめて図書室の出口へ向かう。その途中で、書棚の前で本を開いている知った顔を見つけた。
「椎名」
「あれ、駒木くん」
椎名は俺の声に気付いて本から顔を上げ、そのまま本を閉じると書棚へと戻した。その背表紙を追えば、昨年文芸賞で話題となった本だった。
「そういう本読むんだ?」
これまでだと椎名の好みはミステリーだと思っていた。
「んー、気になってたから、めくってみただけ。暇があったら読んでもいいんだけど」
夢中になるほどではなかったらしい。俺も気にならないとは言えないが、今読むつもりはさらさら無い。
「そっちは勉強?」
「ああ。でも辞書を置いてきちゃったから、教室に戻ろうかと」
鞄を軽く持ち上げてみせれば、らしくないね、と笑われてしまった。
「もう教室、誰も残ってないよ」
「そうなんだ?」
「うん。みのりが帰る時に、わたしが電気消して教室を一緒に出たの。金曜だからかな。皆帰るの早くてさ」
早いと言えば早いか。別段不思議と思うほどではないが。
「で、椎名は帰らないのか?」
「わたし?」
軽く首を傾げる椎名。それからわずかに笑みを浮かべて見せた。
「何となく帰る気にならなかったの。理由なんて、無いよ」
一瞬、間のようなものを感じたのは気のせいなのか。まぁ突っ込んで欲しくない事もあるだろう。
「んじゃ、英語の予習付き合ってくんない?」
軽い調子で切り出してみる。椎名がいれば予習が楽になるという思いも当然あった。
そんな俺の言葉に、椎名は人差し指をピンと立てて微笑んだ。
「えー……一本おごってくれるなら」
「自販機のでいいなら」
ギブアンドテイクは基本だ。先日簡単な賭けで直紀から一本せしめていたから、その分で椎名の頭脳が借りられるなら安いものだ。
「仕方ないなぁ」
「よし。んじゃ回って教室に戻りますかね」
あくまで軽いノリのまま無事同意を取り付け、俺達は図書室を後にした。
教室に戻り自席で英語のテキストを開く。予習といっても演習部分の問題を解いておく事だ。
問題をただ解くだけではなく、問題と似た単語や連語、文法表現のチェックに辞書は不可欠だ。手元には電子辞書と紙の辞書の両方がスタンバイさせている。
それらを使いつつ解答欄を埋めていく。その間、椎名は俺の前の席に横を向いて座り、手元に文庫本を広げていた。
その本には生憎とカバーがかかっていて、何の本を読んでいるのか分からない。そして明らかに俺よりも読むスピードは早く、一定のリズムでページがめくられていく。
それでも、こちらの質問にはきっちり答えてくれるのだ。
「be to 構文の意味っていくつあったっけ?」
「ん? 五つかな。運命、予定、義務、意図、可能だったはず。可能の場合は否定的な文が多いかも」
こんな感じである。全くもって恐れ入るしかない。
だがやはりそのおかげで進みは速い。椎名様々だ。
「と、こんなもんかな」
一通り問題が終わる。所要時間は二十分というところか、一人だったら多分、倍の時間がかかるのではないだろうか。
「お疲れ様でした」
椎名はそう言って栞を挟み本を閉じる。
「何読んでたんだ?」
「これ? 吹奏楽部を舞台にした学園ミステリー。その三冊目」
カバーをめくって表紙を見せてくれる。シリーズ物のその本は以前読んだ事のあるものだった。
「俺、その本の話したっけ?」
「多分してないと思うよ。君から聞いたのは、前に借りた海外物と、去年聞いた古書店物くらいじゃないかな」
そういえばそんな話をしたような気もする。遠い記憶を引っ張り出しながら、教室に戻る前に買った紅茶のペットボトルに口を付けた。
ちなみに椎名の手元にはレモンティーのボトルがある。交渉通り俺のおごりだ。
「最近は新しいの読んでないの?」
「そうだな。読み始めると時間食うからな。ここんとこは手持ちのを読み直してる感じだな」
新刊を買うと、現金はもとより読む時間を取られる。どうしても読みたい物は考えるが、基本的には自重したい。
「そっか。まぁそれも仕方ないかな。センターまでの我慢だね」
「まだ早いような気もするけどな」
「危機感を持つのは悪い事じゃ無いと思うけどなー」
危機感から、というわけでは無いのだが。かといっていちいち説明をするのも気が引けた。
「そういや、椎名は模試の結果どうだった?」
この学校で上位の人間がどのくらいの数字を出しているのか。椎名の結果は気になるところだ。
「模試ねぇ。とりあえず、M大はB判定だったよ」
M大と言えば、全国でも名前が知られている都内の大学だ。自分は書いていないので判定は分からないが、おそらくD判定といったところだろう。
「あれ、椎名の第一志望ってたしか」
言いかけて口を閉じる。さっきの判定から推して知る事は出来る。
「うん。J大。判定知りたい?」
「いや、遠慮しとくよ」
さらりと言われたが、俺は手を立てて横に振る。自分では手の届かないところを聞いても、現状では意味が無い。
「そっちはどうだったの?」
「俺の方は、I大がBてところだ。椎名さんには敵いませんて」
軽く肩をすくめて見せれば、椎名はただ笑って流してくれる。
「そういや、駒木くんもお姉さんがいるんだよね?」
「ああ。前に言ったかもしれないが、ここの卒業生だよ」
「うん。多分だけど、わたしの姉さんと同級生じゃないかな」
予想外の椎名の言葉に、ペットボトルを口に運ぼうとした手が止まった。
「姉貴と同級生?」
椎名にも姉がいるのは知っていた。ここの卒業生である事も。だが姉貴のクラスメイトだった事は初耳だ。姉弟とはいえ、姉の交友関係まではさすがに把握していない。
兄弟姉妹といえど、家庭外の事には干渉しないのが普通だと思うし。いや、双子は例外かもしれない。
「K大に行った駒木さん、で合ってるなら、間違いないと思う」
「ああ、間違いないわ、それ」
世間は狭いと言うべきか。この偶然に居合わせる確率はどのくらいだろうか。
「椎名のお姉さんは、どこに行ったんだ?」
「姉さんは、R大よ」
「秀才姉妹じゃないですか」
そんな俺の言葉に、椎名はわずかに遠くを見るしぐさをし、そしてやんわりと笑ってみせる。
一瞬だけ出てしまったもの。それに気付いてしまったのは、やはり同じものを抱えるからなのか。
だからこそ、大きく息を吐き出しながら軽く切り出す。
「あー、すまん。下の立場も色々大変なんだよな」
「分かっちゃうかー。まぁ君も同じ様な立場だしね」
「俺の方が椎名よりも深刻だよ。いや、比べても意味の無い事か」
「そうだね」
思わず浮かべる苦笑い。お互いに似たような過去を想像したんだと思う。
オールラウンドに優秀で、外面の良い姉の存在。それは関係無いと思っていても、どうしても切り離せずに付きまとう影のようなもの。
小さい頃は自慢の姉だった。だが長じるにつれ、少しずつその思いは変わっていく。
あの子の弟だから。弟なのに。自分とは直接関係無いところから聞こえ伝わってくる評価。
自分では頑張って掴んだ結果でも、弟だから、と流されてしまう。そして結果が良くなければ、今度は弟なのにと冷たい視線を向けられる。
まだ周りを意識していない頃は良かった。だが学年が上がるうちに、姉を知っている先生からは期待のこもった視線を向けられる事があるのに気付くようになった。
それでも期待されれば嬉しいと思う。子どもならば尚更だ。そりゃ観察眼も鍛えられるし、どういう態度が良いのかも考える。
幸いな事に、小中学校の勉強では大きな苦労は少なかった。多少分からないところがあっても、家で姉貴に訊けば嫌々ながらでも教えてくれた。
そうやって成績を上げれば、今度は委員長だ何だと指名される機会も出てくる。頼られるようにもなる。
それでも評価の基準は変わらない。常に比べられる存在が側にいる。
ただ友人達はそんな事を気にしていなかった。三年間というズレは子どもには大きな時間なのだろう。周りにとやかく言う同期がいなかったのが、本当にありがたかった。
勝手に期待し、勝手に評価をしていくのは、身近な大人だけ。
だがそう分かっていても、いや分かっているからこそ、その評価を超えてみたいと思った。それは小さな反抗心からかもしれない。
だからこそ勉強の手は出来る限り抜かなかった。中学のテストもそうだし、ここ緑翠を進学先に選んだのも、そんな思いからだ。
だが結果どうかと言うと、自分が及ばない事を思い知るだけだった。姉貴の様に学年トップを取る事は出来ず、緑翠の入試結果もコースこそ同じだが、特待のランクでは下だった。
そして現状の模試の結果。一地方で名が通る大学で精一杯であり、とてもじゃないが全国区の大学に通う姉貴には敵いそうもない。
特別落胆しているわけじゃない。そんな事はとっくに分かりきっていた。それでも足掻いてみせるのは、そうした大人への最後のアピールなのかもしれない。
もうそうする事が癖なのだろう。それも含めて今の自分が出来ている。そういうものなんだろう。