徒花(1)
今年の桜は例年より早く開花した。いつもならこの辺りはだいたい四月になる頃に開花を迎える事が多い。だが今年は平均よりも一週間ほど早く開花宣言が出された。
早い開花が示すように、春の陽気はとても暖かく、過ごしやすい春休みだと言えた。
そんな休みの中、数日ぶりに高校最寄り駅の改札を抜ければ、平日にしては大きな喧騒が辺りを覆っていた。
コンコースを抜けて北口デッキから歩道に下り、目的の建物へとたどり着く。ガラス扉をゆっくりと開ければ、ふわりとコーヒーの香りが漂ってくる。この瞬間がいつのまにか好きになっていたのだが、この店に来るのも何回目になるだろうか。
チェーン店でもあるこの店では、注文をカウンターで受け取る仕様だ。
「麻倉先輩」
ちょうどカウンターに目的の人物を見つけ、レジが終わるのを待って声をかければ、見慣れた微笑が返された。
「席、取っておくわ」
先輩は小さく告げて窓際の席へと歩いていく。そんな彼女の持つトレイにはグラスの他にドーナツが一つ載っていた。
自分の注文分のトレイを置き、先輩の対面へ腰を落ち着ける。
「あなたとこうするのも久しぶりね」
「そうですか? 一ヶ月ぶりくらいだと思いますが」
「そうね。私の入試が終わった頃ね」
その時は二人ともホットコーヒーをオーダーしていた。あれから一ヶ月ちょっとしか経っていないのに、トレイの上の飲み物の季節は変わってしまっている。
そんな事を思いながらアイスコーヒーにミルクとガムシロを入れくるくると混ぜれば、渦を巻いて琥珀色へと変わっていった。
麻倉先輩はアイスカフェオレのストローに口をつけ、一口飲んでゆっくりと息を吐く。思えば、先輩の顔を見るのは卒業式以来だ。
「この店にもしばらく来れなくなるわ」
「向こうにも同じような店はあると思いますが」
しれっとそう答えれば、たしなめる様な視線を向けられる。が俺はそれに気付かないふりをしつつストローをくわえた。
「確かに向こうの駅前にもあったわ。行くかどうかは分からないけれど」
変わらないトーンで告げられる。言いたい事を直接言わないのはいつもの事だ。いや、今のはこちらが無粋なのか。
「向こうはどんな感じですか? もちろん印象で構いませんけど」
「印象、ね。駅前はこちらよりもちょっとだけ都会かしら。大学の周辺は普通の住宅街よ。メインの国道にお店が並んでいる感じね」
麻倉先輩の進学先は隣県の大学だ。電車だと路線の都合もあり約三時間かかるので、向こうで一人暮らしをするという。
自分の受験は来年だが、先輩の話は実体験として参考になると思っている。
「住んでみたら印象も変わるかもしれないけど。向こうでの生活が落ち着いたら、授業の様子も含めて教えてあげるわ」
「よろしくお願いします」
軽く頭を下げて、ついでに自分のトレイのドーナツを手に取る。なんのデコレーションもされていないシンプルな物だが、個人的にはこれが一番好きだったりする。
向かいの先輩のはチョコレートでコーディングされたものだ。この人はどちらかと言えばシンプルなのを好む。そういう部分で自分達は似ていると思っていた。
気が合う、というのとも少し違う。自然体というほど気も抜いておらず、かといって緊張しているとか、畏まるとか、特別尊敬しているつもりもない。
この曖昧な距離感こそが俺と先輩との関係そのものであり、俺自身この距離感を気に入っていた。
「先輩は、地元を離れるのをどう思ってます?」
ドーナツを一口食べてから問いかけてみる。先輩はストローをくわえたまま軽く首を傾げ、ゆっくりと一口を飲み込んでから軽く笑み浮かべた。
「あら、寂しいと思ってくれるのかしら?」
「誰がです?」
間髪をいれず切り返す。
「そういう意味じゃなくて?」
笑みを浮かべたままの先輩。楽しそうで何よりです。
「まぁ先輩が寂しいと思っているのなら、それが答えでいいですけどね」
言い置いてまたドーナツを口にする。さくっと割れる食感がたまらない。
そんな俺を見て先輩はくすっと声をこぼし、自分のドーナツへと手を伸ばした。チョコレートに包まれたドーナツを紙ナプキンで挟むように持って口へと運ぶ。
それを横目にアイスコーヒーを一口。こうするのも最後になるかもしれないと思うと、慣れた味も特別に思えるのかもしれない。
「ま、駒木君がそう思うなら、それでいいんじゃないかしら」
相変わらずの笑顔。見る人が見れば妖艶にも見えるし、無邪気にも見えるだろう。
「ん。ところで今日はどんなご用件で?」
ドーナツを嚥下して話題を変える。あのままだと確実に先輩のペースになってしまうからだ。
今日は先輩に呼び出されてここに来ているのだが、そもそも何の用件なのか中身を聞いていなかった。
用件も聞かずにのこのこ出てきた理由は他でもない。単に予定が無かっただけだ。あと若干ではあるが、この人を怒らせなくなかったというのもある。
卒業し地元を離れる先輩を雑に扱うのは、さすがに気が引けるのだ。
「そういえば、用件を言ってなかったわね」
言ってストローをくわえる先輩。ほどなく先輩の白い喉が揺れた。
「あの日、のやり直しをしておこうと思ったの」
あえて抑揚を付けて、ゆっくりと叩きつけられたその言葉に、俺はただ大きく息を吐く。
だが同時に思う。
これでこそ、麻倉明日葉その人らしいと。
「何で今になってなんです?」
アイスコーヒーを一口飲んでから質問を口にすれば、先輩はドーナツを口に運びながら目を細めた。
「今のうちにしておかないと、それこそチャンスが無いでしょう? あなたは受験生になるわけだし、何より私がこっちにいないんだもの」
ごもっともな理由だ。特に後者については反論の余地が全く無い。だが根本的な理由にはなっていない。あれをやり直さなければならない理由では無いと思うのだ。
「乗り気じゃないみたいね」
「いや、あまりにも予想外な提案でしたので」
返事をして残りのドーナツを口にする。指先を紙ナプキンでふいてから手元のスマホをチェックするも、ディスプレイに着信の表示は出ていなかった。
スマホをテーブルに伏せ、再びストローをくわえる。
正直あれをやり直す事がそれほど嫌なわけではない。なんせ麻倉先輩は高校では知る人ぞ知る存在だ。
どこぞの物語のように「学園のアイドル」とか「高嶺の花」等と評されていたわけではないが、落ち着いた印象と面倒見のよさから慕われていた存在だった。先輩は二年間図書委員を務めていたが、男子委員の間ではコードAAと呼ばれ情報が共有されていたという。
いや、どこまでか真実か分からないし、確かめる気もない。
まぁ俺自身もクラスメイトが先輩と同じ中学で尚かつ親しかったという偶然が無ければ、知り合いにもなれなかっただろう。折り重なった偶然が作用して、今このような状況になっていると考えると、それはそれで不思議だとは思う。良いか悪いかは別問題としてだが。
「ここで押し問答をしても、俺に選択権は無いのでしょうね」
「あら、そんな事無いわ。あなたが断ったなら、私は一人、家に帰って寂しく引っ越しの用意の続きをするだけよ」
特に何を気にする様子もなく返された返事。先輩はドーナツを完食して、ゆっくりとカフェオレを飲んでいる。
どこまでが本心なのか。判断がつかない。もちろん無理にとは言わないだろう。その辺はきちんと分かってくれる人だ。
ならば結局は自分がどうしたいか、ということなのか。
テーブルの上のスマホが震える。先輩のだ。
「ちょっとごめんね」
先輩の声に俺は軽く手を上げて返事とした。
一つ息を吐いて窓の外を見る。春の暖かな日差しが街路樹を照らし、行きかう人の服装もだいぶ軽くなったようだ。
ストローをくわえてアイスコーヒーを喉に流し込めば、ほろ苦い甘さが滑り落ちていく。
先輩は何も言わない。時おりカフェオレを飲みつつスマホをいじりメッセージを返していた。
難しく考えすぎなのかもしれない。今やり直したところで、今の関係が変わる事は想像出来ない。
もしあの時にやり残した事があるのなら、それを叶えてあげるのも、餞の一つじゃないだろうか。
少なくとも、つまらない顔で先輩を送り出したくはない。これはプライドの問題か。
「麻倉先輩」
先輩がスマホをテーブルに戻すのに合わせて声をかける。
「いいですよ。あの日のやり直し、しましょう」
受け入れた俺の言葉に、先輩はやはり目を細めてみせる。
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいわ」
ああ、この人の思い通りなんだろうな。ふとそう思ったが、不思議と悪い気はしない。
いや、元々先輩と一緒にいる時間を嫌だと思った事は無い。多少扱いに面倒と思う部分あるが、それも含めて麻倉明日葉という人間なのだろう。
欠点を上げれば、俺の方が数え切れないほどだろう。だからこそ不安である部分もあるのだが。
残りのアイスコーヒーを飲みきって紙ナプキンで口をふく。時間を確認しようとスマホを手に取れば、ちょうどメッセージが届く瞬間だった。
スマホを目線の高さにあげれば、先輩はそっとうなづいてみせる。気にしないで、という事だ。
タップして開けば、差出人にはクラスメイトで友人の水内みのりの名前が。俺と先輩を引き合わせたあいつがこのタイミングでメッセージをくれるとは。これも何かの縁なのだろうか。
中身はシンプルに今日暇かを問うものだ。おそらく俺以外の何人かにも同様のメッセージを送っていると想像がつく。
水内には悪いが一足遅かったようだ。俺の予定は、ついさっき決まったところなのだから。
用事がある旨の返信をしスマホを伏せる。視線をあげれば、先輩はグラスを空にしたところだった。
「じゃあ始めましょう。あの日のデートのやり直しを」
ゆっくりと、はっきりとした麻倉先輩の小さな声に、俺はただうなづいてみせた。