魔女の秘薬の作り方
本にまみれたハクアの部屋に表れたのは、ククだった。彼女は鬼気迫る表情をしている。
「ハクア、私に惚れ薬のつくり方を教えてほしいの。」
「この時を待っていたわよ。魔女クグレック。」
口元にうすら笑みを浮かべてハクアは承諾する。
ハクアはこれまで何度もククに惚れ薬精製の話を持ち掛けていた。だが、自分の恋愛に魔女の力を使いたくないというククの頑なな心を前に頓挫していた。ハクアは魔女が作る本物の惚れ薬を販売すれば高価で取引されるだろうと、常日頃から思っていたのだ。
「惚れ薬のレシピはそこの本に書いてあるから、読んで御覧なさい。」
ハクアは徐に本の山を指差した。ククは山の中から目的の本を一冊引き抜くと一心不乱にその書物を読み始めた。
魔女のレシピ集は料理のレシピ集のように分かりやすく書かれていない。どういうわけか古い言葉で詩のように記述されているから難解で理解するので一苦労だ。
『満月の光が想いを抱く。血が滴るような紅の薔薇の真髄を絞り出し、香しいその御香は月光落とし込まれた乙女の泉水を満たす。花の蜜壺と雪の糖蜜があの人を誘う。その眼差しはあなただけを見つめる。クピドを虜に満月の女神を降臨した時、アーユスとヴェヌスの粉を蜜に閉じ込めよ。女神に誓約せよ。希え。女神は月光の詩を所望する。熱情の空気に絶頂に達する詩を詠え。月光に湛えよ。さすれば夜明け前に、汝の望みは叶うだろう。』
「まぁ、作り方に関しては難易度はそんなに高くないわね。アンタのためにもノーヒントで行くから、自分で解読してごらんなさい。解読結果をまとめてくれたら、答え合わせをしましょう。一応、そこの本棚に辞典はあるから参考にしなさい。」
「分かった。」
そうしてククはハクアの部屋を出て、レシピの解読に励んだ。
魔女のレシピは慣れれば解読も楽になるらしい。だが、ククは魔女の知識の一切を忌み嫌って学んで来なかったため、そのコツが分からなかった。ハクアはククの魔女としての素質を買っているので、時々魔女に必要な知識が集約された書物をククに貸し出して読ませている。そんなわずかな知識を頼りにククはレシピの解読を行った。
一週間後、ククは惚れ薬のレシピの解読に成功したので、答え合わせのために、ハクアの部屋を訪れた。ハクアはいつもの通り机に向かっていたが、ククが訪れると、静かに向き直り、口元に薄ら笑みを浮かべ、足を組んで居構える。
「来たわね、クグレック。答え合わせをしましょう。まずは材料から。」
ククにはそんなハクアの様子が少しだけ嬉しそうに見えた。
「薔薇の精油、上白糖、蜂蜜、湧き水、金粉、ムクナ豆の粉末、シナモンパウダー。」
ククは淡々と答えた。
「他は?」
「…私が必要だと思ったのは以上だわ。」
「そう。残念。足りないわ。クピドと満月の女神の召喚方法と術式は?あと、乙女の泉水は理解できている?」
「えっと、エウロパの魔法陣を基盤にしてクピドと満月の女神の文言を融合する。確か、赤で魔法陣は作らなければならないはず。」
「まぁ、略式はそれでいいかな。でも、正式に行うならば、クピドは赤鉄鋼で、満月の女神はルビーで魔法陣を作る必要があるわ。」
「それは知らなかった。」
「で、乙女の泉水は?」
「それは理解できなかった。」
「これはまんま取りなさい。乙女の涙が必要ってことよ。乙女って何かわかる?」
「…分からない。」
「初潮を迎えて、処女を保ち続けた女性のことよ。ククの涙でも、大丈夫だと思うわ。」
「処女って何?」
「は?あんたそんなことも知らないの?本気?」
知っていて当然でしょう?と言わんばかりに聞き返すハクアに、ククは不快な気持ちを抱いたが、こうやって人を挑発するような話し方をするのがハクアなのだ。ククは、ふうと一息吐いてもやっとした嫌な感情を吐き出した。
「私は世間知らずなところは沢山あるけどさ。」
「…まぁ、これに関してはおいおい話すわ。とりあえず今回はアンタの涙ね。とりあえず必要な材料は以上よ。3つ足りなかったわね。これくらいのレベルなら分かって欲しかったけど、まぁ、これから勉強していきましょうね。」
「御免こうむる!」とククは拒否したかったが、何も言わなかった。
「さぁ、じゃぁ、次は精製方法ね。どうだったかしら?」
ハクアは腕を組んで興味深そうにククを見つめた。
「満月の夜に精製しなきゃいけない。湧き水に薔薇の精油を1滴加えて、あ、多分乙女の涙を加えた湧き水かな。で、その後上白糖と蜂蜜も加えてクピドと満月の女神の魔法陣に捧げる。そしてクピドと満月の女神の召喚儀式を行って更にシナモンパウダーとムクナ豆の粉末を加えて、女神に古代の劇の「エルピティウム」の一説を唱和して、一晩放置する。太陽が昇る前に回収することが出来れば、惚れ薬は完成。」
「そうね。正解。分量は大丈夫?」
「前に作った興奮薬の応用で良さそうだと思ったんだけど…。」
「正解。あと、エルピティウムの一説とは?」
「闇は何も隠さない。貴方は私の全てを照らす。闇を打ち消さずにあなたの輝きが私を魅了する。その柔らかな甘さで私を優しく噛んで頂きたい。」
「それ、古代ヘレニア語でね。」
「分かった。」
「まぁ、それでいいわね。じゃぁ、次の満月の晩から精製しましょう。材料の準備から全て満月の夜にやらなきゃダメだからね。薔薇の精油も満月の夜に行うのよ。温室に薔薇は育ててあるから、収穫は次の満月の時にやるわよ。時間がかかるかもしれないけど、やるわよ。」
ククは黙ってうなずいた。その眼には力づよさが宿っていた。
ククはハッシュにこの惚れ薬を使って、好きになってもらうのだ。ククがひたすら片思いを続ける男性八ッシュ。ククはハッシュの傍にいたかった。そのためならば、どんな力でも利用したい、という気持ちがククの中にあった。
そして、ある満月の夜に、ハクアの手ほどきを受けながら、ククは惚れ薬の精製を行った。
まずは日没と共にハクアが植物を育てている温室へと向かい、カンテラの明かりと月光を頼りに赤い薔薇を採取する。この温室にはその他白や黄色、桃色、青色などの様々な薔薇が栽培されていた。
「大量に摘むからね。棘で指を切らないように注意なさい。」
「う、うん。」
温室に育った赤い薔薇は今晩全部摘んでしまうこととなった。薔薇の精油はわずか数滴しか必要ないのだが、数滴抽出するのにも大量の花弁が必要となる。
「ハクア、この薔薇、全部ハクアが一人で育てたの?」
「え?そんなわけないじゃない。アリスが全部手入れしてくれてるのよ。あの子はアタシの弟子だからね。」
アリスはハクアの治癒術を継承するために、ハクアと師弟関係を結んでいる。ハクアのことだから、アリスをまるで召使のごとく扱っているのかと思えば、そうでもない。アリスは対人に関してはやり手だ。上手い具合にハクアとの距離感を保ちつつ良好な師弟関係を結んでいる。
「クグレックも、私の門下生にしてあげてもいいのよ。アタシ、アンタの力を買ってるんだから。」
ククはハクアに良いように使われるのではないかと思い、「考えておくよ。」と一言だけ返した。
しかし、本当のところは、ハクアから魔法の手ほどきを受けてみたいという気持ちが少しだけあった。ハクアは魔女ではないにせよ、膨大な知識を持っている。特に薬系に関しては、治癒薬以外にもこういった魔女の秘薬といった特殊な薬など際限なくすべての知識を網羅しており、精製することが出来る。魔女であったククの祖母も秘薬の精製に関しては長けていたので、ククも祖母の様に秘薬を精製できるようになりたい、と密かに思っていた。
そして、赤い薔薇の花を摘み終えると、次は薔薇の精油の抽出だ。
今晩は天気が良い満月の夜なので、野外で事を成す。
日中、ニタに準備をしてもらった大釜に薔薇の花弁のみを入れ、ハクアがその中に謎の液体を放り込む。液体はくらっとするようなきつい臭いがする。
「さ、こっから精油を抽出するわよ。ちょっと時間かかるから、その間に魔法陣でも作っちゃいましょう。」
「うん。」
と、頷いて、ククは一旦大釜の中を覗きこむ。ハクアはその様子に気が付き、得意げに解説する。
「この花が溶けて来たら、火をつけてとろとろ煮込むからね。ハクア様オリジナルの精油作成用の特別な薬だから、通常よりも早く出来上がるわよ。ふふふ。」
怪しく笑うハクア。彼女は完璧なる惚れ薬精製が嬉しいらしく、終始上機嫌なのである。
そして、ククは魔法陣を作り始める。中央の満月の女神の術式をルビーの原石を砕いて作った塗料で記し始める。その様子をハクアは見守る、が、何も見ずに術式をスラスラ記していくククを見てつい声をかけてしまった。
「アンタ、暗記してんの?」
「え?うん。暗記するほどでもないけど…。術式は頭に入り込んで来て、すぐに浮かぶし…。」
「さすが、本物の魔女…。」
ハクアは感心しながらククの様子を見つめる。
実は、魔女の知識を完備するハクアであっても、術式は暗記出来ていない。魔法陣は複雑なのだ。ハクアは常に傍らに参考書物を置いて魔法陣を完成させていた。しかしククは参考書物も必要とせずに魔法陣を作成する。魔女とそうでない者の格の違いを見せつけられたハクアは、愕然とするよりも、わくわくするような興奮に駆られた。
魔女が作る薬とそうで無い者が作る薬の違いは、当然魔力があるかないか、というところで変わって来る。分岐点は精霊の召喚。召喚と言っても、精霊がその場に現れるわけではない。が、儀式の一環としてそこに精霊の力が注入される。ハクアの様に魔力がなくても手順さえしっかりしていれば精霊は降臨する。が、注入される力は微々たるものだ。ハクアの魔女の秘薬の効果の高さは、精霊の力ではなく、高度な薬の精製技術と豊富な知識による術式の完全再現によるところが大きい。
魔法陣が完成すると、大釜の中の薔薇の花弁たちは溶けだしていた。
ククは大釜の下にくべられている薪に魔法で火を放ち、とろ火で煮込み始めた。
「ねぇ、ハクア、惚れ薬って、役に立つのかな。」
「え?」
「ハクアは惚れ薬を売ろうとしてるんでしょ。惚れ薬を買う人のうち、本当に幸せになるために使ってくれる人ってどのくらいいるんだろう。」
「本当の幸せ、ねぇ。」
ククの問いにハクアは考え込んだ。
ハクアは惚れ薬を狂ったように使っていた頃があった。
かつてハクアはその辺の見目麗しい旅人を捕まえては、惚れ薬を飲ませ、骨抜きにしてこき使っていたことがあった。そして惚れ薬の効き目が切れるころに、彼らを自作の薬の実験台にした。成功したら再び惚れ薬を飲ませ、こき使い、そして再び実験体にするという狂気のサイクルを繰り返していた。時に薬の強い副作用を被ってしまい、人として生きられなくなってしまう者もいたが、その頃のハクアには関係がないことだった。副作用を被った者に関して、ハクアは放り出して、捨てた。彼らがどうなったのか、ハクアの知るところではなかった。興味がなかった。
そんな狂気に包まれて、平然としていたハクアのことなので、ククの問いにすぐに答えることが出来なかった。
「惚れ薬は、一人の利己的な幸せを達成するものにしかすぎないわ。」
「そっか。」
「でも、例えば、ううん、そうねぇ、政略結婚で結ばれた人たちに惚れ薬を使ってあげれば、仮初ではあるけれども、幸せな状態になるんじゃないのかしら。」
そのハクアの答えに、ククは悲しそうな表情をしていた。彼女が求める答えではなかったようだった。惚れ薬に正義など存在しない。人の欲望を目にしてこそ楽しいのに、とハクアは思った。
そして、しばらく時間が経過し、精油の抽出が完了すると、作業は一気に進行する。
ミルラのお香を炊きながら、湧き水に必要なものをどんどん調合していく。
乙女の涙は、ククがどうしても涙を流すことが出来なかったので、霧吹きに入れた無添加の催涙スプレーを浴びて、乙女の涙の摂取に成功した。そのため、しばらくククは涙を流しながら作業していた。
そして、魔法陣の真ん中に小瓶を置き、ククが召喚呪文の詠唱を始めると、魔法陣が光り出し、空気が振動しだした。しかし、ククはそれに怯むことなく詠唱を続ける。魔法陣に向かって月光も激しく降り注がれる。その瞬間、ククは譫言のように呪文を口ずさんでいたが、急に声を張り上げて、古代ヘレニア語という異国の地の古い言語でエルピティウムの台詞を朗読する。
『闇は何も隠さない。貴方は私の全てを照らす。闇を打ち消さずにあなたの輝きが私を魅了する。その柔らかな甘さで私を優しく噛んで頂きたい。』
すると、満月の神秘的かつ甘美な光は一層輝きを増した。
光に包まれながらもククは詠唱を続け、全て唱え尽すと、光は一閃にまとまって小瓶の中へ注がれ、消えた。
再び静かな満月の夜が戻って来る。
ククはふうとため息を吐き、額に滲んだ汗を拳で拭い取る。
これで惚れ薬の精製は終了だ。あとは小瓶のなかで精霊の力を落ち着かせるだけだ。
ハクアは、一仕事終えたククにパチパチとまばらな拍手を送った。
「お疲れ様。あとは夜が明ける前に回収すればおしまいね。」
「ありがとう、ハクア。」
「あら、お礼なんていらないわ。今回はちょっとだけ多めに作ったから、今回作った惚れ薬を3割程度頂ければそれで結構よ。」
「…この惚れ薬の効果はどの位あるんだろう。」
「おそらく、その瓶全部飲めば、一生続くほどの力はあると思うわよ。一口飲めば一週間ってところかしらね。」
「そう。」
ククはちらりと惚れ薬を見つめると、ハクアの方に向き直って真剣な表情で話しかける。
「ハクア、私、これは一口分あれば十分だと思う。私、やっぱり魔女の力でハッシュにずっと好きになってもらいたくない。せめて1週間、夢見る時間があればそれで良い。だから、残りは全部あげるから、世の中のこの薬を必要としている人に売りつけてしまって構わないよ。」
「あら、そう?じゃぁ、アタシが作り置きしてたぶんがあるから、そっちをアンタにあげるわよ。多分効果も薄いと思うし。」
「ん、じゃぁ、そうする。」
「ふふふ。交渉成立ね。」
そうして二人は、魔法陣以外の大釜やら何やらの片づけを始めた。
惚れ薬の瓶は満月の光に湛えられ、刻々とその名の力を蓄えている。
力のある魔女が作った惚れ薬は、今後一体誰の「利己的な幸せを達成」するのだろうか。そこに訪れるのは誰かの悲哀か幸福か、作った本人にも分からないことであるが、魔女は望む。カリソメの中に存在する微かな希望を。