HR終了、部活開始 (亜和野 睦月)
文月は私のハンカチを洗って返すとだけ言ってしまうと、黄色い台拭きで机を拭き始めた。
自然と沈黙する。気まずさはほとんど感じない。なんとなく彼の動きを目で追う。それだけでなんの不都合も生じなかった。
彼は台拭きと自分の手を洗い、再びお湯を沸かし始めた。私が使っていたティーカップはいつの間に彼の手にあった。もしかしたらお茶と一緒に投げていたのかもしれない。さっきはそんなことを意識している余裕もなかった。一応これでも反省している。
彼はティーカップにお湯を注ぐ。それから一度中のお湯を捨て、今度はティーバッグと一緒にお湯を注ぐ。まあ及第点。私が真面目に淹れた紅茶を飲ませたら、彼はどんな顔をするだろう。違いを分かってくれるかな。一度くらい飲ませてやってもいいかもしれない。
「ほら、今度はこぼすなよ」
「うん」
ようやく分かった。彼は不良じゃない。一連の行動をつぶさに見ることでよく分かる。
ぶっきらぼうで、口下手で、それでいて人に対しては真面目に向き合うあまり、目つきが悪くなる。なんて不器用な奴だろう。まるで私みたいじゃないか。私の場合は目つきより口が悪くなるんだけどさ。
でも、私以上に優しい。突然の事にもちゃんと対応できる。悔しいけれど信用したくなってしまった。嫌われたくないかもしれない。
ようやく席に戻った文月は改まったような顔で話しかけてきた。
「あのさ俺、許嫁がいるからさ、だからその……安心しろよ」
「なにそれ」
「いや、変に誤解されるよりいいかと思って」
「いまどき許嫁って……」
「事実なんだよ。悪いか」
「そういうわけじゃないけど」
いきなりそんなことを告白されても困る。真偽は定かでないし、確かめようもない。これで安心しろと言われてできるわけないのに……。でも私は安心した。できるかぎり私を気遣う姿勢が嬉しかったからだ。
彼は嘘をつかない。黙っているだけで、私が尋ねれば答えられる範囲で答えてくれる。だから少しだけその話しを聞いてみたくなった。
「彼女、いくつなの?」
「俺の一つ下。今年で高校入学だから、睦月と同い年だ」
「ん……? 文月君、留年してるの?」
「らしいな」
「らしいなって……」
「俺も今日、初めて知ったんだよ。おかげで担任と何回も出席日数を確認する羽目になった」
だからうちのクラスだけHRが遅れたのか。
とうとうと語る彼は、教科書を読むようにごく自然な表情をしている。
「悲観しないんだね」
「するだけ無駄だ――と言いたいところだが、俺自身、実感がわかない。俺はちゃんと学校に通っていた記憶がある。勉強もした。部活もした。三学期の期末テストも平均点以上だった」
「どういうこと?」
「わからない。俺は学校を休み続けていたらしい。出席日数が圧倒的に足りない」
「でも学校行っていたんでしょ?」
「なんなんだろうな。狐につままれた気分だ」
「なんかその表現、文月君には似合わないね」
「俺だって狐がどうとか、馬鹿らしいと思っているさ。けど、そういう類のもののせいにしたいっつー気持ちは分かったかもな」
昔から何かが起きれば、私達は自分たちの知らない『なにか』のせいにしてきた。そして『なにか』の恐ろしさや力を頼ったこともある。
雨が降らなければ神に祈願し、子供がいなくなれば天狗のせいにした。自分の失敗を誤魔化すために狐や狸の仕業だとでっち上げたこともあるだろう。呪いという曖昧なものですら人の命を奪う凶器になった。そして生命そのものさえもおおきな『なにか』に頼っている。
昔の時代だけじゃない。それは今も同じこと。テルテル坊主に願掛けしたし、ここ一番という時は神様仏様と節操もなく頼んでしまう。小学生の時に流行ったコックリさんだって漢字で書けば『狐狗狸さん』だ。狐に狗に狸。そんな獣の集合体に恋の行方を尋ねたりしていたのだ。そんなものに頼りたくなるほど人は脆く、何かに縋りつきながら生きる。
彼は今までそんなものに頼ることなく己の強さだけで生きてきたのだろう。それはとても素晴らしいことだし、尊敬に値する。そして今、未知なるものの存在に日常を脅かされつつも、彼らしく生きているのだ。
「視野、広がったんだね」
「そうかもな」
私の中の人間不信はどこへ行ったのだろう。文月と出会うことで広がった、私の世界のどこかへ旅立ってしまったのか……。それともやたらと固く冷たいくせに、ほんの少しあたためれば消えてしまう、氷の欠片だったのかもしれない。
「居心地いいね、ここ」
「気に入ってもらえてなによりだ」
それから、とりとめのないことばかり話した。彼がどうして私の名を知っていたのか、彼の目的はなんなのか。そのことに触れるタイミングが分からずにいた。
紅茶の入っていたカップはとうに空で冷たくなっている。黒板上の時計が私の空腹を気付かせてくれた。いつの間にかこんなに時間が経っている。
HRは終わったかな。鞄にいれた小さなおにぎりの事を考えると、お腹が鳴りそうで慌てて意識から追いやった。
「腹減ったな」
文月が立ち上がり、肩を回す。そういうところも羨ましい。知り合ったばかりの男子に空腹を訴えるなんて私にはハードルが高い。なんか、恥ずかしいじゃないか。
「ちょっと教室戻って鞄取ってくるから。ついでに担任には適当に言っておく」
「うん。そうだね……」
「なんだ? ちゃんと睦月の鞄も取ってくるぞ」
「それは当然。私が気になってるのは先生の方だよ」
私はあの教師を信用していなかった。たしかに生徒想いで優しそうな人だけど、肝心なところが抜け落ちている気がしてならないのだ。
私はともかく、文月のことを後回しにされた気がした。
もし私が素直に保健室に行き、文月は教室に戻ったとする。待っているのは何の事情も知らないクラスメイト。私が気付いたようにすぐに入学式には参加していなかったと気付くだろう。それに留年しているとなれば当然色眼鏡で見られるに違いない。極めつけがこの誤解されがちな見た目と態度。ちゃんと向き合えば彼のよさというものも見えてくるが、ちゃんと向き合おうと思えるかどうかといえば、あまり期待できるようなものじゃないだろう。
担任の教師は私に助けを出す代わりに彼を犠牲にした。
良かれと思ったことが裏目に出る。だから下手に信用したくないのだ。
と、まあそんなことを文月に言うつもりもないので言葉を濁すことにしよう。
「あの先生、文月君のことをちゃんと考えてない気がしたから好きじゃない」
「そうか?」
「だって入学式サボりでHR遅刻で留年生なんてすごく誤解されそうじゃん」
「あぁ。いいんだよ。俺はクラスに馴染むつもりは一切ないって言い切ったからな」
「それでも教師としてどうかと思うよ」
「そうでもない。先々のことを見通しているいい先生だ」
「ふーん」
いまひとつ納得がいかない顔をしている私に「ある意味暗躍してる先生に対して、無粋な話しだけど」と前置きして彼は一つの真実を教えてくれた。
「俺が保健室まで案内するように頼んできたのは、俺が拒絶しているクラスメイトと関わりを持たせることともう一つ。睦月のボディーガードの為だ」
「私の? なんで?」
たかが保健室に行くくらいだというのに大仰な。
ナビゲーションの間違いじゃないのか。
「保健室があるのは特別教室棟だ」
特別教室棟というのは学級ごとの教室のある棟とは別、理科室や美術室などがあるところだ。旧校舎よりも天井が高いが同じく三階建て。調理室やパソコン室もあったはず。HR中の一年はいないし、二年は片づけで、三年は……。
「あ……」
そこまで考えてやっと分かった。同時に冷たい汗が背中をつたう。
文月は私の考えを読みとったのか重々しく頷きを返した後、続きを語った。
「つまり、文化系部活動の活動場所だ」
先ほど見た運動部系の集団――あれの文化系バージョンの巣窟になっているのだ。
二年生になる予定だった文月がいれば、私は安全に保健室に行ける。文月は人に親切にできるという実績が彼の良い一面を見出してくれる。
目から鱗が落ちた気分だ。
私と文月。たった数歩の距離にいるはずなのに、ずいぶん違った景色が見えていることに驚いた。なんていうか悔しい。それと恥ずかしい。教師に対して申し訳なくもある。
これが歳の差というものだろう。教師はともかく、文月佐助。あと一年で私は彼のようになれるのか? 認めたくないけれど認めざるを得ない。この人はすごい。
「ま、これ以上解説するのも野暮ってもんだ。けっこういい先生だからなんかあったら頼れよ」
「うん。そうする」
「じゃ、教室行ってくる」
「よろしく」
彼が帰って来たらちゃんと聞かないといけないな。彼の目的についてを。
一応約束の時間は決めていなかったけど部活見学もしなければいけないので、早く切りだしてしまおう。
文月なら大丈夫。私に害を及ぼすような目的ではないはずだ。
文月が扉に手をかけた時、ピリリリリリリと乾いた電子音が鳴り響いた。
私のスマホは教室の鞄の中。しかも電源はオフになっている。とすれば考えられるのは一つだ。
「睦月、悪い」
私に断わってから文月は窓際に移動した。ここの電波が悪いのか文月のスマホが悪いのかのどちらかだろう。ズボンのポケットから黒のスマホを取り出し耳に当てる。紅茶で壊れていなくて本当によかった。
「おう、弥生か。……今? 部室だけど。そう、オカルト部の。……あ、それじゃあ悪いけどよ、一年A組の教室に寄ってくれないか。俺の鞄と出席番号一番の奴の鞄。……って、実行済みかよ、早いな。あぁ、助かった。それじゃ」
短いやりとりだけど会話の内容がとてもよくわかった。
文月はスマホをしまうと、少し困った顔をしてこちらに向き直る。
「今からちょっと二年生が来るんだが……。会いたくなければ隣の教室に移動してくれればいいからさ」
私の人間不信を気遣ってくれているのだろう。あまり楽しい話題ではないからなるべく言葉を選んでくれている。
でも、もうその必要はないかもしれない。
「あのさ、文月君」
「なんだ?」
「文月君はさ、オカルト部の人なの?」
「そう……だな」
なんていうか本当に愉快な気持ちになった。
なんだ、そういうことか。霧が晴れて全ての景色が見渡せるような爽快な気分だ。
「文月君。あなたがオカルト部で一番うるさい、非協力的な駄目人間なんだね」
「………………も、もう一度、言ってください」
「あなたがオカルト部で一番頭がかたくて、文句しか言わないというツッコミデストロイヤー・スーパー馬鹿フーミンね」
「四割増しで罵倒するんじゃねぇよ! 誰からそんなでたらめ聞きやがった!」
そのときガラリと扉があいて、四人の人物が入ってきた。
小学生と間違えそうな身長で童顔の双子。女子の中で一番背の高い黒髪の麗人。私の鞄を高らかに掲げた型破りの変わり者。
私は迷わず部長に手のひらを上にして指し示す。
「知留夜部長から説明を受けています。フーミン先輩」
まだ霧の晴れていない文月は困惑した表情だ。鋭い光を宿す目は見開かれ、口がわずかにあいたまま。あいた口がふさがらないという奴だ。ツッコミマスターもここまで予想外なことがあると反応が鈍るらしい。
それなら私からちゃんと言葉にしよう。というか自己紹介を忘れていた。せっかくなのできちんと挨拶するべきだ。
「はじめまして。私は亜和野睦月。昨日よりオカルト部に仮入部しております。本日は部活見学をさせていただくことになりました。なにとぞよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げて微笑む私に対し、彼はなおも呆けた顔をしている。
「……どういうことだよ」
鳩に豆鉄砲という言葉の方が似合いそうだな。
―――――――――
「――話をまとめると」
文月が心底疲れ切った顔で切り出した。疲れだけではない。呆れや脱力、行き場のない怒りはため息となって吐きだされる。苦労しているのがありありと分かり、私は少しだけ同情した。
「俺以外のオカルト部員は昨日、入学式の準備が終わった後、睦月の自宅に押し掛けて勧誘。睦月も仮入部を承諾。今日の午後から一緒に活動する予定だったと?」
「そうよ! やっぱりフーミンには荷が重すぎると思って急遽予定を変更したの! 結果はいうまでもないわね!」
「「だーいせーいこーう!!」」
自信に満ち溢れた部長と拍手喝采をおくるユウとレイ。
なるほど、これだけ騒がしくなるなら人気のない旧校舎がぴったりだ。
昨日にもまして賑やかな状況に早くも慣れた自分がすごい。というか、昨日が予想外すぎたせいで感覚がマヒしているのかもしれないな。
玄関あけたら四人の女の子が菓子折りもって微笑んでいるんだもんなぁ…………。
戸惑いはしたけれどとてもうれしかった。生徒会長という自分のしてきたことが認められ、評価され、必要とされる。努力が報われたと言ってもいい。心の底から嬉しかった。
きっかけは肩書きでも経歴でもかまわない。そのきっかけから他の誰でも無い私を見てくれるというなら、私はその手を拒む理由なんてないのだ。すでに鞄の中には入部届けが入っている。部長と文月の言い争いが終わったらちゃんと渡すことにしよう。双子が拍車をかけているせいもあって、当分終わるきがしないけど。
「だいたい、今朝会ったときに報告しろよ!」
事情を話してから、文月はすっかりいつも通りの態度を表に出していた。一応あれでも私を気遣って大人しくしていたみたい。種明かしをした今、そんな文月と接することがないのがちょっと惜しかったりもする。分かっていればもうちょっとからかえたのになぁ。
「朝はフーミンが怒ってて話しにならなかったじゃない! 危うく入学式に遅刻するところだったわ」
「元はといえばお前が!」
「私のせいにしないでよ! 魔女裁判なみの言いがかりだわ!」
「俺の怒りで火あぶりにしてやりてぇよ!」
「「わーい。フーミン、焼き肉しよー!」」
「お前らは黙ってろ!」
発言内容と共にヒートアップする言い争い。それを横目に弥生先輩とお話をする。
この喧騒の中でも冷静な先輩といると自然と落ち着く。まさにオカルト部のオアシス。
「あの、私、文月君と一緒にいても大丈夫でした。これからもやっていけそうです」
「それはよかった」
弥生先輩の目はとてもきれいで、深い黒の世界を見せてくれる。まるで心の内を見透かされていそうでドキドキするけれど、不思議と嫌なカンジはしない。むしろ好感がもてるくらいだ。
この人も私を見てくれる。ちゃんと正面から向き合える。これから先も大丈夫。
弥生先輩の美しい瞳の下にある、赤い口元がふっと綻ぶと、とても安心できて思わず笑みを返す。
「あ――」
文月がこちらを見て、小さく感嘆をもらす。
「なに?」
「ちゃんと笑うとそういう顔になるんだなって」
教師に見せたあの笑顔が偽物だとばれていたようだ。あの笑顔、けっこう自信があったんだけどな。意外と人の内面を見る目があって驚いた。
「別に笑ったっていいでしょ」
「まあな」
「紅茶ぶっかけられたいわけ?」
「な、あれだってお前が急に!」
「誰が原因だと思ってるの?」
返事に窮する文月。こういう面ならこいつに負けそうにないな。
にんまりと微笑むと文月がため息をつきながら睨んできた。
「お前って……ほんと……」
頭がいいわけではないよ。そう言われたら言いかえしてやろう。
「性格悪いな!!」
「――――うん!」
そうだよ。それが私。頭がいいわけでも、優等生でもない。単に性格の悪いひねくれ者。それが私だ。
落ち着きは弥生先輩から。大胆さは双子から。口が達者なのは部長から。そして、巻き込まれやすさは文月からかな。
私は一番の笑顔を浮かべると文月に言った。
「類は友をよぶって言うでしょ」
彼は眉間に深いしわをよせ、わざとらしいくらい大きなため息をついた。
旧校舎一階一年三組。通称『オカルト部部室』。
「それじゃあ、今日はむっちゃんの歓迎会よ!」
部長の一言で今日も楽しい部活が始まるのだった。




