一年生、HR中 (亜和野 睦月)
文月という男子生徒はなかなかにいい奴だった。
全くといっていいほど話しかけてこないし、数歩先を歩いてくれるから目を合わせずに済む。本当に便利だ。50メートル先右折してくださいとか、いちいち言わない静かなナビゲーションロボだと思えば人間不信を発揮せずに普通に振る舞えた。
おかげで私の考えはおおよそまとまった。
まず、保健室には行かない。養護教諭がどんな人だかわからない以上、担任教師のように一筋縄ではいかないだろう。もし追い出されたら、文月に教室まで連れ戻されるのがオチだ。それだけは避けたい。HR中に不良と教室に戻るなんて絶対嫌だ。注目されるのは当然だし、あらぬ噂をたてられたらたまったもんじゃない。
だったら最初から別の場所でゆっくり休んで、HR終了時刻を待ち、部活見学へ。その流れこそ理想だろう。担任には道に迷っている間に具合が悪化し、動けなかったとでもいえばいいのだ。
そしてこの作戦で一番邪魔なのが、彼――文月である。文月をどうにか撒けば、私の作戦通りに動ける。入学式をサボるくらいの奴だ。彼が私を追いて行ってしまったと言えば、弁解する彼よりも私の言葉を信じてくれるだろう。これが日頃の行いのよさって奴だ。中学の私の内申くらい、担任なら知っているだろうしね。
彼の背中を見つめつつ歩いていくと、三方向に分かれる交差路に辿りついた。左手は階段なので、彼が選ばなかった方に進もう。
文月は迷わず直進した。私は一歩だけその後へ続き、さりげなく脇道に飛びこむ。
「そっちじゃねぇぞ」
間髪いれず、彼が振り向き歩みを止めた。背中に目でもついているのかコイツ。
まあ、ばれてもいいだろう。ここでの出来事は私と彼しかしらない。いくらでもでっちあげればいいのだから。それにこんなやつなら別に嫌われたっていい。
彼の言葉を無視し、選んだ道を突き進む。
「そっちじゃ遠回りだっての」
彼は律義についてきた。予想していたよりも真面目なのかもしれない。
だったら口論に発展したっていいだろう。こいつになら嫌われてもいい。今はそれが合言葉だ。
「俺の話し聞いてる?」
歩幅の差ですぐに追いついてきた文月を睨む。
「聞いたからこっちに来てるの」
「訳分かんない事言うなよ」
「保健室なんてただの口実だから。案内はいらない」
「はぁ? 何言ってるんか全然わかんねぇ」
「仮病でサボりだって言ってるの」
「顔、真っ青だぞ」
あぁ、イライラする。なんでついてくるの。ほっといてよ。不良ならキレて校外に行けばいいんじゃんか。
目線は合わせない。見るのは正面。だけど、視界の端に彼の姿がちらちら見える。こっちは早歩きをしているのに、ペースを合わせてついてくるのが余計に腹出しい。
「うるさいな。私は人が嫌いなの。静かな場所に行ければ治るんだからほっといてよ!」
「だったらなおのこと待て!」
突然文月が声を荒げたかと思うと、肩を掴まれる。
「痛い!」
「あ、悪い」
別に痛くはなかったけど、反射的にそう言っていた。そのおかげですぐに手を離してもらえたから結果オーライかな。
ここまでされるとさすがの私も立ち止まる。精一杯睨みつけ、高圧的な態度をとる。
「急になに?」
私の怒気を帯びた声に動じた様子はない。やや困惑気味の顔で頬を掻いているが、私が怖くて言い淀んでいるというより、どう説明しようか悩んでいる風にも見えた。
私が続きを促すと、ようやく彼は口を開く。
「いや、あのさ、一人になりたいなら、その道はやめとけ」
「なんで?」
「そこの角からこっそり覗いてみろよ」
彼の言うとおりに行動するのは癪だが、用心するに越したことはない。訝しみつつも廊下の角に体を隠してその先を窺う。これで何もなかったらどうしてくれようか。
角の向こうは渡り廊下になっていた。隣の校舎とを繋いでいる廊下だが、壁が胸のあたりまでしかなく、廊下の中央は切り取られたように壁がない。どうやら中庭とグラウンドを結ぶ外用の道と交差しているらしい。
その道を横断しているのは、様々なユニフォームを着た上級生たちだった。一様にグラウンドの方へ歩いていく。
ぞろぞろ。
うじゃうじゃ。
ぐだぐだ。
うようよ。
見るだけで鳥肌がスタンディングオベーション。全国ツアー最終日のライブ同然の沸き立ちぶり。絶叫が脳内にこだまし、今にも涙がこぼれそうです。
震えながらも文月の方へ向き、蚊の鳴く声で尋ねる。
「ナニ、アレ」
「3年生の運動部の連中だな。2年生はまだ入学式の片付け中だけど、3年生は先に更衣室で着替えて、新入生勧誘の準備だ。そこの道は更衣室からグラウンド、テニスコート、第二体育館までの近道になっている。皆、新入部員確保には躍起になってるから、お前があそこに行けば囲まれるぞ」
想像しただけで眩暈がし、気絶してしまいそうだ。体育会系特有の仲間意識やチームワーク、ライバル視なんて言葉……下手な怪談より寒気が走る。
あの和気あいあいとした空気、濃縮された光化学スモッグだよ……。地球大事にしようよ。もっと人類滅亡しようよ。エコノミー症候群だよ。…………あれ。ちょっと自分でも何言ってるか分からないくらい混乱してる。
それでも、一言くらい文月には礼を言った方がいいだろう。
「お礼くらいは言っておく。ありがと」
「どーいたしまして。じゃ、保健室はこっちだから」
ここまで一本道だったので仕方ない。その背を追う。ぴんと伸びた背筋をみて、姿勢だけはいいなぁと思った。かかとを踏みつぶしているくせに歩き方も静かで、なんだかアンバランスに感じる。
それはさておき、文月が意外と使えることに注目しよう。内部生だけあって高等部の地の利を得ているし、利用価値は高そうだ。うん、作戦変更。
「あのさ、文月君」
「なんだ?」
「保健室行くのは嫌なんだけど」
「俺に言われても困る。俺はお前を保健室まで案内するように頼まれているんだ」
「あんまり人が来なくて、図書館くらいに落ち着けるような場所を知ってる?」
「俺が素直に案内するわけないだろ」
「知ってるんだ」
そこで文月が足を止め、しかめっ面をこっちに向けた。目つきが悪いだけあって、その柄の悪い雰囲気がものすごく似合っている。
「お前、頭いいな」
「別に。それより、お前って呼ばないでくれる?」
「あぁ…………」
「案内してくれるの。してくれないの」
文月は彼なりの考えを秤にかけているのだろう。ややあって彼は大袈裟にため息をついた。その一瞬、光の粒が弾けたような煌めきが風にのって校舎中を駆け巡る。そんな景色が見えた気がした。
「じゃあ、今度はちゃんとついてこいよ。睦月」
彼の両手は相変わらずポケットに入ったまま。それでも何故か、差し出された手をしっかりと握って立ちあがった気がしたんだ。
―――――――――
文月に案内されたのは、やや古びた木造校舎だった。どっしりとした貫禄のある面構え。三階建という高さも手伝って、その迫力は本校舎の比ではない。時間というあらがえるはずのない大きな力を体現しているようにも思えた。
私が圧倒されていると、文月がぼそりと説明する。
「旧校舎は授業でも使っていない。よほどの物好きじゃなければ近寄りもしないさ」
「ふーん……」
文月はジャケットの内ポケットから鍵を取り出す。クローバーを模したアンティークな鍵だ。
さっすが不良。サボり慣れている。
中に入ると、静けさが身を包む。
旧校舎の外も人通りの少ない静かな場所だったが、そこですら騒がしいと思ってしまうほど、シンッと静まり返っている。ここだけ時間が止まっているようなにおいがした。
構造上のせいかやや暗い廊下だが、光をふんだんに取り入れた本校舎よりも落ち着く。この雰囲気、けっこう好きかも。
「あれ、チビ共来てたのか?」
文月が床を見て呟いた。よく聞き取れなかったので聞き返すと「いや、なんでもない」というそっけない返事がくる。それ以上追及する気はなかったが一応気になったので、床をよくよく見ると小さな手形が四つ。やや小柄な私よりも小さい。二人の子供が等間隔に手をついたような……いやまさかね。こんなところに小学生がいるわけないし、偶然そう見えただけかもしれない。
「床、ところどころ抜けたり段差があったりするから気をつけろよ」
彼はすたすたと歩き、私は彼が踏んだところを同じように歩く。私が歩きやすいように歩幅を合わせられてる気がしたけど、指摘するつもりはない。
彼は何の迷いもなく、廊下の突き当たりの教室の前に立つ。扉の隣を見上げてみると『一年三組』というプレートが下げられていた。昔のクラス分けはABCじゃなくて数字だったんだな、とどうでもいいことを思った。
教室の中は意外にも清潔感があった。ほこりは積もっておらず、窓も曇っていない。掃除が行き届いている証拠だ。
電気ケトルや電気ヒーター、扇風機などの電化製品や、ティーカップに砂糖といった日用品があるおかげで生活感すら感じた。
すべて木で造られた昔ながらの机と椅子は、教室の半分より後方に押しやられており、すっきりとした空間が黒板前に広がっている。この空間には一台の長机が置かれ、それを囲むように椅子や古ぼけたソファーが置かれていた。
「なに、ここ……」
もっと鬱屈とした埃まみれの場所かと思いきや、かなりの快適空間ではないか。
文月は何か文句を言いながら、机の上に放置されていた空き袋を片づける。外国のお菓子だろうか『Zopf』ってなんだろう……。読み方すら分からない。ドイツの国旗が描いてあったしドイツ語なのかも。
片付け終えた文月は適当な場所を指す。
「好きなとこ座れよ。指定席とかないから」
「なんなの? ここ」
「図書館くらいに落ち着ける場所」
「いや、そうなんだけどさ」
私は少し迷ったが、入口から一番近い場所にある椅子に座る。細かい刺繍が施された分厚い座布団のおかげで、硬い木の椅子もふかふかだ。
文月は窓際の水道から電気ケトルで水を汲み、お湯を沸かし始めた。水道も電気も通っているなら本当にここで生活できそうだ。一泊や二泊なら余裕だろう。
「コーヒーと紅茶しかないんだが飲むか?」
ティーカップなどが置かれている台に、インスタントコーヒーや紅茶がある。とくに紅茶は種類も豊富でなんだかおいしそう。
「一番高そうな紅茶がいい」
ずけずけと言っている私だが、もちろん誰に対してもそういう態度なわけじゃない。文月になら嫌われてもいいから素の私でいようと思っただけだ。
文月は文句を言いたげに口を開いたが、何も言わず「……わかった」と言った。
お湯が沸くまでの間、私は少し冷静に状況を把握し始めていた。
なりゆきとはいえ、親しくもない男子とこんなところにいてもいいのだろうか。居心地がよいのはいいが、案内してくれたのは不良。そういう類の人達のたまり場だったらどうしよう。それにしては紅茶があったり、刺繍つきの座布団があったりと無駄に女子力が溢れているんだけど。
この長机を囲む椅子の数から察するに7、8人には座れそう。ところどころ穴のあいたソファーなんかいかにも不良のアイテムってカンジだし。
大丈夫かな。
人間不信についてではない。この後の約束のこととか、そもそもちゃんとここから帰れるのかが不安になってきた。
だってここ、人気がないって言ってたし、思いっきり叫んでも外には聞こえないだろうし、あれ? 入口の鍵はあいたままだっけ? 見ていないからなんともいえない。
……うーん。もしかして相当危ない橋を渡っているんじゃないのかな。
「ほらよ」
暗雲を断ち切るように目の前に紅茶の入ったカップが置かれた。思考が打ち切られ、かわりに紅茶のいい香りが体中に沁み渡る。この香り、ダージリンかな。
カップの中で花が咲き乱れている。私はそっと口をつけ、花の蜜を飲み込んだ。
おいしい。砂糖は入っていないけど紅茶本来の甘みが舌に残り、じんわりと口内に広がる。
気持ちがいくらかほぐれ、ふうっと息を吐くと、正面に座っていた文月が物珍しそうにつぶやいた。
「紅茶飲むだけでそんな幸せそうな顔するんだな」
「………………」
「紅茶、好きなのか」
「別に。ティーカップあたためてないから冷めちゃってるし、香りもイマイチ。そもそもこれティーバッグでしょ。それだけ種類があって全部がティーバッグなわけないし……。こんな紅茶、好きでもなんでもない」
「悪かったな。ていうか相当紅茶好きだろ」
黙秘権を行使する。別に好きじゃないし。幸せそうな顔なんかしてないし。でももったいないので飲む。やっぱり冷めるのが早いな。
半分ほど飲むと、ふいに文月が「あっ」と小さく言う。
「自己紹介遅れたな。俺は文月佐助。呼び捨てでもなんでも好きに呼んでくれ」
意外とまともでかっこいい名前で驚いた。一月生まれだから睦月と名付けられた私に比べて、親の願いがなにかしら込められていそうだ。ちょっと羨ましい。
「私は亜和野――」
言いかけて、ハッとした。文月の言うとおり、私達は自己紹介をしていなかったのだ。知っていたのは担任の教師が呼んだ、それぞれの名字だけ。それなのに、さっき文月は……。
「どうして私の名前を知っているの」
廊下で私の名前を確かに呼んだ。クラス割の時、見られたの? それなら何故? 何のために?
文月は少しだけ目を見開き、私から視線を外した。
「……ほんと、頭いいよな」
その口ぶりが全てを物語っていた。
彼は私の事を知っている。なにか目的があって、私をここに連れてきた。なんのため? いや、それだけのことが分かればいい。
彼は危険だということが充分すぎるほどよく分かった。
私がサッと立ちあがると、すぐさま彼も反応し、立ちあがる。とっさにティーカップの中身を彼に向かって投げた。少し冷めてはいるけど、怯ませることくらいはできるだろう。
すぐうしろにある扉に手をかけ、教室を飛び出す。
――と、床のわずかな段差につまずき、バランスを崩した。あっ、と気付いた時にはもう遅い。硬い木の床がみるみる近づいてきて……。
「危ない!!」
ふっと体が浮いたかと思うと、床への接近が一瞬止まる。
間髪いれず腕を掴まれ、強い力で引き戻された。この力強さは文月のものだ。片腕だけで引かれ、半身をひねった腰にもう片方の腕が差し込まれる。そのままグイッと引き寄せられ抱きとめられた。
「なにしてんだよ」
私を立たせるとすぐに手を離し、紅茶まみれの男は元の席に戻った。その一連の行動があまりに淡々としており、何のアクシデントもなかったように錯覚してしまいそうだった。
私は扉の前に立っているだけ。彼は椅子に座っているだけ。彼の長めの前髪から滴る紅茶だけがひどく不自然だった。
私は少しだけためらう。本当に少しだけ。すぐに扉を閉め彼の元へ歩く。一度だけ振り返ったがとくに変わった様子はない。「危ない」と言われたあの声は、文月のものではなく可愛らしい女の子の声だった。そして一瞬だけ感じた浮遊感……。しかし誰もいないのならば気のせいだろう。ひょっとしたら自分の心の声だったのかもしれない。今はそのことを考えている場合ではなし、忘れてしまおう。
「ごめん」
座る彼の前に行き、ハンカチを差し出す。彼は短く礼を言うとハンカチを受け取った。手持無沙汰になる前に元いた自分の席に戻ることにする。
「変に警戒されるようなこと言って悪かったな」
「うん……こっちこそホント、ごめん」
ここで間を開けるわけにはいかない。きちんと正面から彼を見つめ、あぁ視線が逸れる。でも頑張らなくちゃ。声がかすれそうになるけど構わない。勇気と言葉を同時に絞り出した。
「あと、ありがとう」
「おう……」
文月という男子生徒はなかなかにいい奴だった。




