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9/12


 ルーナが帰った。


 最後に、「早く帰らないと。ひょっとしたら次の瞬間にでも世界一美しくなっちゃうかもしれないんだし」と、軽いんだか重いんだかよく分からない冗談を残して。




 窓を開ける。



 冬がそこまで来ていた。


 木枯らしが運んでくる少しばかり焦げ付いた香りが、頬を撫で、鼻孔をくすぐって去って行く。



 冬は嫌いだ。



 肌は乾燥するし、花も枯れる。美しさを求める者にとっては死の季節と呼んでもいい。



 冬は嫌いだ。



 あの忌まわしい出来事から、もう10年経つ。冬は死の季節。別れの季節。もう、思い出したくもない。



 冬は嫌いだ。



 10年目の冬は、今度もまた新しい別れを連れてこようとしている。苦楽を共にした姉弟子と、小生意気だがどこか憎めない小娘。



 冬は──



「あの、お母様。入ってもよろしいでしょうか」


 思索を妨害するのは、またも愚図で頓馬な我が娘。

 今の私は、すこぶる機嫌が悪い。それはもう、何かに八つ当たりをする気力も失せるほどに。


 だから、私は何も考えずに娘を部屋に呼び入れた。

 白雪姫は、いつものように何が面白いのか分からないのに笑みを浮かべ、手には何かを持っていた。


「今日はアップルパイを焼いてみたんです。お母様、ここのところお忙しそうでしたから、元気を出していただこうと。お稽古の合間を縫って、密かに練習してきたんです」


 この娘は……そんな暇があったら少しでも自分の美しさを磨く時間に割けば良いものを。

 そうすればおめおめとルーナに順位を奪われずにすんだんだ。


 しかし、確かに今は疲れている。たまには甘いものを食べて脳に栄養をやるのも悪くない。


「お寄越し」


 そう言うと、白雪姫はぱっと顔を輝かせ、いそいそとパイにナイフをいれ始める。


「今朝の市場で買ってきた新鮮なリンゴを使ったんです。お口に合うと良いんですけど」


 切り分けられたパイを口に運んでみる。すると──


「……甘すぎる」


 この馬鹿娘。お菓子ってのは甘けりゃ甘いほど良いと勘違いしてないか?


「砂糖の入れすぎだ。いいかい、糖分は取り過ぎると肌が荒れるんだ。リンゴは確かに美容に良いが、こんなに甘くしたら元も子もないだろうが!」


「ごめんなさい!次はきっと、もっと上手に作りますから」


 肩をすぼめて反省しているようなそぶりを見せる。

 しかし、私の目はごまかせない。この小娘、笑ってやがるね。口元がうっすらと歪んでやがる。


 私を嘲るような、バラのように赤い唇が、私の中の何かを切った。


「何がおかしいんだい?」


「え……?」


「何をニヤニヤ笑ってるんだ!朝の運動の時も、歌や踊りの練習の時だってそうだ。私が必死になって美しさを磨こうとしているのが、お前にはそんなに滑稽に見えるってのか!?」


 私の罵声に、身を縮こまらせる。でも、何故か口元は笑っている。困ったような表情で、しかし笑っていた。


「お前は、一体何がそんなに楽しいんだ!」


 その問いに白雪姫は、枯葉が地に落ちるほどの間をかけて、ゆっくりとこう応えた。


「嬉しくって、つい……。その、お母様と一緒に過ごせることが」


 ……


 ……


 ……


 その言葉の意味を理解するまでに、私はほころび始めた蕾が花開くほどの時間を必要としていた。


 白雪姫の言葉は続く。


「お父様が亡くなる前、お母様はよく私に歌を歌ってくださいました。お勉強も見てくださいました。一緒にお部屋のお片付けを教えてくださいました。ここ最近の日々は、それとそっくり。……ちょっぴり厳しいですけど。お母様と二人きりでお稽古に、お買い物、お出かけ。まるで幼少の頃に戻ったような心地でした」


 この娘は、あの特訓の日々をそんな風に感じていたのか。


「今だって、私のパイはお口に合わなかったようですけど、こうして元気に声を張り上げているお母様の方が私には嬉しいのです」


 そうして微笑む白雪姫の笑顔を見て、私は唐突に悟った。


 この娘の美しさは、目的でも手段でもなく、結果なんだ、と。


 この娘は、すべてを楽しんでいる。日々の何気ない瞬間を、一生懸命に、全力で。だから、美しく輝いているのだ。


 そして、そんな何事も楽しもうという姿勢は、私にある人物の姿を思い出させた。

 とても大切な、あの人のお姿を。


 ああ、あなたは……今も変わらずそこにいたのですね。昔と変わらぬ、そのすべてを慈しみ、愛でる笑みを浮かべたまま。


「おいで、白雪姫」


 また怒られるとでも思ったのだろう。身を縮こまらせて、しかしそれすら嬉しいと言わんばかりの表情で、私の目の前に娘が立つ。

 前髪に隠れた眉毛は、きっと困ったように八の字にひん曲がっていることだろう。


 私は、自分の髪を結っている櫛を抜き取った。

 

「振り返って、向こうを向いて」


 娘の黒い髪。

 かつて、私が願ったように黒壇のように豊かで生命力に満ちている。


 それを、手にした櫛で丁寧にくしけずる。

 うん、言われたとおり、髪の手入れはしっかりやっているようだね。


「いいかい。これからお前を使いに出す。今すぐ旅支度を調えて隣国に行くんだ」


「え?急にどうしたんです」


「向こうを向いてろって言っただろう!相変わらず人の言うことを聞かないやつだね!」


 せっかくまとまりかけていた髪がほつれちまったじゃないか。

 最後まで私の思うとおりに動かないんだから。


「伝令は追って出す。あの国の王子が、パレードに出たお前の話を聞いて一度会ってみたいと打診があったんだ。ちょっと早い気もするが、この際だから会ってきな」


「隣国の王子が、私に……?」


「気に入らなきゃそのまま帰っておいで。お前は世界で二番目に美しいんだ。他に相手はいくらでもいるさ。でも、もし……」


 もしも。そう、あるいは私のように──


「もし、出会った瞬間に胸打たれたのなら、その気持ちを手放さないことだね。そして、できればお前も恋をしな。恋をして、そしてそれを楽しむんだ。そうすれば、きっとお前はもっと美しくなる」


 これは誰にも内緒の話だ。ていうか、今頃になって思い出したんだけど。


 私が世界一の美女を目指したのは、ある男性に恋をしたからだ。

 

 そして、私は世界一になる前に見初められ、結婚した。


 今思い返せば、これ以上ない屈辱でもある。私が惚れた世界一の男に、私はついに妥協を許してしまったことになるのだから。


 プロポーズの言葉は──いや、もうこれ以上は思い出すのはよそう。


「よし、これで良いだろう。こっちを向いてごらん」


 肩まで伸びた髪の毛を完璧に結い上げる。

 いつも、毎日、自分の髪にやっているわけだから造作もない。

 

 気がつけば、私たちはすっかり互いの髪型を交換したようになっていた。


「お母様。この櫛は、お父様の形見では──」


 振り向いた娘の顔。

 娘には常に髪を下ろした姿を強いてきた。故に国民は皆、口をそろえて「女王様にうり二つだ」と言う。

 

 しかし、髪を結い上げるとその印象は変わる。


 意志の強そうな眉毛に、ふくよかな頬が強調される。

 そして、それらは娘の美貌をより一層引き立てていた。この髪型であれば、未だにルーナにだって後れを取ることはないだろう。鏡の精に問うたならば、きっと順位は再び逆転しているに違いない。


 なにしろ、私が世界で唯一惚れた男の面影を宿しているんだから。


 いつの間に、ここまで大きくなっていたんだね……。


 そういえば……私が世界一の美しさを手に入れたのは、この娘を身ごもったときだったっけ。

 でも、その時はそんなことはもうどうでもよくなってたんだ。それよりも、嬉しいことで一杯だったから。


「それと、国境にある森の中に古いお城がある。できれば立ち寄って、そこにいる銀髪の娘に会ってやりな。向こうはお前に死ぬほど会いたがっていたようだからね」


 私の言葉に、白雪姫は黙って頷く。


「さあ、行ってきな。時間はないよ。髪型を変えたくらいで順位差をキープできるほど、今の世界三位は甘くないからね」


「お母様、何を言ってるんです──」


「だから急げって言ってるだろ!この愚図!」


 何かを察したのか、なおも食い下がる娘を強引に蹴り飛ばすと、私は急いで最後の仕事にとりかかることにした。







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