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1話 未熟なる日々。


 揺籠の投稿が進んだので発表。

 五話程度の中編です。粗筋は暗そうかもしれませんが、お気楽なお話です。

 


 ビタロサ王国シシリア州カターニア市。

 州都であり、シシリア第一の都市とされる古都に彼女は住んでいる。

 名をドゥラータ。十八歳。姓はない。

 生後一年程で捨てられて、どうにか優しい人に拾われて、だがその人は逝ってしまって。

 それからは、天涯孤独の自由民として生きている。大都市の路地裏を寝ぐらとして、彼女は自由気儘に生きていた。


 彼女も自らの境遇に思う所がないではない。

 だが、仕方がない事だとも理解していた。

 彼女の生家は貧しくて、とても子供など育てられなかった。生後三ヶ月ばかりの頃には既に、そうなのだと認識出来てしまっていた。

 ドゥラータは乳離れが済み、一歳を迎えると共に毛布に包まれてそれなりに立派な檻へと入れられた状態で、路地裏へと捨てられた。

 両親にではない。家主の坊ちゃんからである。


 彼女の一家は、とある家へ住み込み奉公をする事で糧を得ていた。

 本来ならば、勝手に子供をこさえる事さえ憚られる立場である。

 妊娠が発覚すれば堕胎させられる事は珍しくもないし、ドゥラータの様に産まれ落ちても、大抵は殺処分とされてしまうものだった。

 弱き者に、それへ抗う術はない。

 それを殺さずに、乳離れを過ぎ、気候穏やかなこの時期迄の世話をされたのだから、恨みなどなかった。


「ここなら、何とかなると思う。ごめんね。優しい人に拾われて、生きるんだよ」


 それに家主一家の坊ちゃんが、別れ際に伝えてくれた言葉。

 そんな言葉を贈られれば、恨みよりも感謝しか覚えなかった。

 檻には暫く生きられる程の糧を入れられていたし、気候も良い時期である。路地裏とはいえ人通りもそれなりにありそうだった。

 ドゥラータも、そういった未来があるのかもしれないと期待した。まだ生後一年でしかない彼女が、そう考えていたのだ。


 ドゥラータの知能の発育は早い方だった。

 肉体の操作こそまだ拙いものの、この時には既に言葉を理解し、状況や環境を洞察している。

 人の感情にも明敏に反応した。

 それは意識が明確に芽生えた生後三ヶ月頃からの事であり、そういったある意味での媚態によって坊ちゃんの同情を買う事で、生き永らえてきていた。

 まだ五つだった坊ちゃんはドゥラータの事を可愛がってくれていて、良き庇護者となってくれた。


 だが、六つとなると坊ちゃんは遠く王都へ向かう事となる。名門と呼ばれる学園へ入学する為だ。

 まだ一つのドゥラータを連れていける筈もなく、そうなれば彼女に未来はない。出生の届けさえされていない彼女はまず捨てられるであろうし、最悪は殺される。

 元々がそうする予定だったのだ。

 これまでは坊ちゃんの懇願により、ドゥラータの生命は永らえていたに過ぎなかった。

 両親は何の役にも立ちはしない。

 彼等は主人へ媚び諂う事でしか、生きる事ができなかった。

 

 なので、別れの寂しさはあるが諦めもつく。

 死ぬよりはマシだった。何度も、何度も。名残惜しげに振り返る坊ちゃんには泣き声など聴かせてなるものかと我慢した。

 優しい坊ちゃんだ。そんなモノを聴かせれば、決意も鈍ろう。

 だが、主人。否、元主人の庇護下にある彼に、今は出来る事がない。一時の感情で関係を壊してしまえば彼だって、生きていく事は難しい。


 寂しさも、悲しみも、後悔も。

 生きてさえいれば、やがて月日が忘れさせてくれる。

 ドゥラータはそう信じ、夕暮れの雑踏へ埋もれてゆく優しい坊ちゃんの足音を見送っている。



 晴れて天涯孤独となったドゥラータであるが、暫くは静観をする姿勢であった。

 流石に、坊ちゃんが戻って来ると考えられる程には楽観的ではない。

 だが、動かなければ安全なのだとも知っている。

 例え動いたとしても、運動能力が足らないので大きな成果は見込めなかった。それに動かなくても済む様に檻がある。

 この彼女の入れられた檻。結構頑丈な上にそれなりに構造が複雑で、外から開けるのは難しい。

 少なくとも野良犬や野鳥程度が壊したり、開けられる物ではなかった。

 言うなれば、砦の様なものである。

 蓄えられた兵糧も充分なものだ。考えて消費をすれば、一月程度ならなんとでもなると判断していた。

 坊ちゃんの意思はその間に誰かに拾われて育まれる事であり、またドゥラータに選べる手段もそれだけしかない。耐えるより、道はなかった。


 とはいえ三日も過ぎれば焦りも生まれるし、怖くもなった。

 これまで家の中から出た事のない肉体は未熟な上に脆弱であった。

 なのに野良犬には覗かれるし、野鳥も降りてくる。抗う術はない。その癖、頼みの人通りなどは僅かしかなかった。

 皮肉な事にこれまでは生きる為の武器であった筈のドゥラータの知性は、恐怖を覚えさせる為に諸刃の剣となってしまっている。

 かといって、砦から出ても柔らかな肉でしかない彼女には、恐怖から逃れる術もない。

 今、檻から出て生きてゆく術はないだろう。それは本能的にも察している事だった。

 ただじっと、辛抱強くも『その時』を待つ事しか出来はしなかった。

 

 それでも、時間はある。

 まず最初に考えたのは、これからの身の振り方だ。

 残る糧は一月程は保つだろう。尽きるまでが猶予であった。

 理想はその間に誰かしらに拾われる事であるが、そうでない場合も想定しなければならない。

 そう考えるも何も浮かばない。

 この檻。内部の構造は単純で、ドゥラータが自発的に外へ出る事も難しくはない。

 坊ちゃんは、そういう仕掛けを施していた。

 自ら生命を繋げる様にと思っての事だろう。

 だが、まだ一歳でしかないドゥラータには、外へ出て生きる才覚はなかった。


「賢いお前ならば、なんとかなる。僕は信じるよ。だから、生きてくれ」


 願う様に、祈る様に囁くあの人を裏切れない。生きてやる。彼女はそう決意していた。

 そうなると檻から出て、庇護者を探す事も視野に入れねばならない。なのだが、これが中々難しい。

 未熟なドゥラータに檻内に蓄えられた糧を携行する術はない。持てないからである。

 それに一度檻が開けられれば、野良犬や野鳥からの略奪を防ぎようがない。一度出てしまえば、残る糧は捨てる事と同義であった。

 つまりは檻から出るのは博打となる。

 糧が尽きた後の最後の手段であった。

 だから今は恐怖に耐え、拾われる事を願い祈るしかないのだ。


 それから更に三日が過ぎ、一週が経ち、日は流れ、とうとう糧も残るは七日分程となっていた。

 だが、待ち人は訪れない。

 この間にドゥラータは何ら有効な手を打ててはいなかった。

 この路地裏。思ったよりも人通りが少ない。

 時たま通る人類種達も急いでいる様で、道端に置かれた檻になどには目もくれなかった。

 これは不味いぞ。と、常々考えているドゥラータなのだが出来る事は殆どなかった。

 やれる事なぞ四肢を用いての移動の練習をする程度である。それさえも、あまり動くと消耗が激しいので糧の節約の為にそう頻繁には出来なかった。

 と、すると。主にやる事は観察や考える事である。筈なのだが、これも中々に困難だった。

 変わり映えしない路地裏であるので、刺激が少ない。だけでなく、減ってゆく糧を見ると焦りも生まれる。やれる事がなさ過ぎるのだ。

 考えれば考える程に、思考は悪い方へと向かった。空模様と同じ様に思考は曇る。

 そしてとうとう。これまでは我慢してきたものが溢れた。同時に、ポツリ、ポツリと曇天の黒雲から雨粒が落ちてくる。

 久しぶりに、雨が降り出していた。


 雨音に紛れ、坊ちゃんに泣き声など聴かせたくなくて、我慢していた嗚咽が漏れた。

 涙が溢れる。残された日数を直視して、どうしようもない悔しさと悲しみが胸をかき乱している。

 雨により檻の中が濡れる事はない。ここは快適な揺籠であった。だが、涙が彼女を濡らしている。

 檻の中から糧が無くなれば、自らの四肢を用いて檻の外へ出て、糧を得るしか生きる術はない。

 それは恐怖でしかない。涎に濡れた野良犬の牙が恐ろしく、鋭い野鳥の嘴が恐ろしい。

 ドゥラータの知性は、野生の中では自らの肉が他者の糧でしかないのだと気付かせていた。

 弱肉強食の理を本能で理解しているのだ。

 生きたまま貪り喰らわれる己の身の哀れさを想像してしまい、恐怖に震える。だけではない。

 生きてくれ。その願いを果たせぬことが悲しくて、悔しくて、寂しい。

 愛情をくれたあの人に、返せるものが何もない。それが堪らなく悔しかった。この日から三日の間、天の模様と同じ様にして、哀れなドゥラータは泣き暮らす事となった。



 この日も目覚めた後には糧を口にして、後は泣いて過ごしている。ドゥラータにはそれだけしか出来やしなかった。

 この三日間、ずっとそうしている。

 死への恐怖と坊ちゃんを裏切ってしまう物悲しさによって、悲しみに暮れていた。

 だがほんの少しだけ、この日の天気は昨日までとは異なった。

 枯れかけた彼女の涙と同じ様に、黒雲から降り落ちる雨足も弱まっている。

 彼女に出来る事はない。それでも世界は自然として回っていた。


「おやおや。こげん泣きよって、どぎゃんしたと?」


 弱まった雨音を縫って頭上から、そんな声が注がれる。人の声だった。思わず、嗚咽が止まった。


「たいぎゃ、むぞらしか捨て子とね。——成程。この謎ばが名前かね。ドゥラータちゅうんか。よか名前ばい」


 それは歳を重ねた女性。老婆からのものだった。

 傘を畳んだ彼女は檻に架けられた札を見て、ドゥラータの名を呼んだ。雲に晴れ間が見えている。


「婆ちゃん家ば来ると? ばってん、贅沢はさせられんけんね」


 ドゥラータに返せる言葉はない。まだ喋れないからだ。頷く事も出来ない。そんな動きさえ、まだ出来ないからだ。だが、応えなど決まっていた。

 だから。大きく泣き声を挙げてやる。

 彼女は知っている。心は通じ合うものだと。元気な泣き声で、思いっきりに。

 

 それからはお婆ちゃんと共に暮らす、穏やかな日々が続いた。

 やがて五歳となったドゥラータは、これまでの歳月で多くの事を学んでいる。

 お婆ちゃんは優しくて、穏やかな人だった。

 彼女は文筆を生業としており、趣味だけではなく物書きの資料としても多くの書物を読んでいた。

 ドゥラータも時に一緒に文字を目で追って、時にお婆ちゃんによる音読を聴かせて貰って、様々な知識や感情を蓄えていった。

 とても楽しい日々で、優しい毎日であった。

 だが、残念な事も判ってしまう。

 声帯の問題により、ドゥラータには言葉を発する事が出来ないのだと明らかになったのだ。

 耳は聴こえ、お婆ちゃんと出会った頃の様な泣き声ならば、一応は声も出せる。

 だが、意味を持った複雑な言語を発する事はまったく出来なかった。

 彼女にとって、非常に残念な現実である。

 密やかにであるが、お婆ちゃんや坊ちゃんに掛けられた様な優しい言葉をドゥラータも誰かに届けたいと思っていたからだ。

 それは彼女にとっては心地良く、勇気が湧いて、少しだけ優しくなれる魔法の言葉であった。

 自分も同じ様に。と求める事は自然な望みである。

 だが彼女が喋ろうとしても、ゴロゴロと喉を鳴らす迄が精々で、誰かに言葉を贈る事が出来ない。

 仕方がなかとよ。と、言葉を教えてくれるお婆ちゃんは慰めてくれるが、矢張り残念な気持ちは残った。

 せめて、お婆ちゃんの様に筆が持てたならば。

 そうドゥラータは思うも、それもまた不可能な技術である。彼女の指は生来、物を掴み、持つ事が出来ない。押したり、引っ張ったり、叩いたりなどは出来るが、筆を持つには指の可動域が足りていなかった。

 言葉は聞けるが喋れない。文字は読めるが書けはしない。

 受け取るばかりで分かち合えない。

 それが悔しくて、ドゥラータは己の不具を嘆いたものだ。

 何せ、お婆ちゃんはかなりの高齢なのだ。その上で更に心配事があった。

 お婆ちゃんは著名な文筆家であるそうで、子供達が遺産を巡って争い合って、心を痛めていたのである。

 慰めたいし、力となりたい。なのにドゥラータにはそれが出来ない。せめてと寄り添って、喉を鳴らす事くらいしか出来なかった。

 ドゥラータの力では争いを収める事は出来ず、勇気付ける言葉も捧げられはしない。だけど、元気を出して欲しかった。

 だが、現実は非情である。

 お婆ちゃんはドゥラータの願いとは裏腹に、日々窶れ、元気もなくなっていった。

 そしてやがて、決定的な時が訪れる。




「婆さん! どういうつもりだ!」

「そうよ! お母さん! あんまりだわっ!」

「版権の全てを国とシュペー社に譲るなんて、俺は一体これから、どうすれば良いんだよっ!」


 三人の男女が、騒々しく寝台で横になったままのお婆ちゃんへと詰め寄った。ドゥラータも一緒の寝台にいるのだが、起き上がったお婆ちゃんに毛布を被せられてしまう。


「せからしか子達かね。悪かかよ。ウチの版権たい。どぎゃんしょっても、ウチの勝手たい」

「そんな勝手っ!」


 女が叫べば男達も口々にお婆ちゃんを詰った。

 この三人は、お婆ちゃんの息子さん二人と娘さんで、お婆ちゃんが書いた本の版権を巡って争っていた。

 お婆ちゃんはその争いを収める為に、遺産であり、争いの種となる版権を手放す事に決めたのだ。

 この版権というもの。かなり力のあるもので、言うなれば知的財産の使用権である。

 通常は著作者から出版社などへ貸し与えられるものであり、著作者と出版社が共同保有する形式となっていた。

 現状は、お婆ちゃんからシュペー社に与えられている。お婆ちゃんは死後、この版権を王国とシュペー社へ委ねると遺言状を認めた。

 割とこの辺は複雑な話である。

 著作権は文字通りに著作者のみに認められる権利であった。その一部の財産権として、版権が存在している。出版や複製の為の権利であり、財産として死後数十年も残るものだった。

 相続は基本的に親族にされるものである。

 当然ながら、この版権というものもまた遺産として含まれる筈だった。

 だが、この版権の相続を巡り、彼女の子供達は争った。

 お婆ちゃんは著名な文筆家で、大流行した小説家でもある。彼女の書いた物語は世界各国で出版されていて、教科書などにも使われていた。

 何某かの方法で使用されれば、利用者や出版社からの使用料金が入り、その額は総じれば非常に大きなものだった。

 だからこそ三人は遺産である版権の取り分で揉めていた。

 作品毎に版権は発生しており、発行部数の多い連作物や使用頻度の高い作品などの版権を求め、争った。

 金銭欲とは度し難いものである。

 彼等三兄弟の関係は破綻寸前の様相を呈し始めており、今やお互いを害し合い始めてもいる。

 それに待ったを掛けたのが、お婆ちゃんによる生前遺言だった。


 耐え難い罵声が飛び交う。

 言葉とは優しいモノで、勇気付ける為にあると思っていたドゥラータには辛いものだった。

 お婆ちゃんへしがみつき、毛布の中で震えている。

 お婆ちゃんは子供達へ向け、考え直せと諭すものの、返ってくるのは怒りと憎しみに駆られた罵声のみであった。

 だがやがて。

 お婆ちゃんが、まだ間に合うから、仲直りして欲しいと頼むと、やがて子供達は静まった。


「なぁ。婆さん。間に合うって事は、まだ?」


 長男が穏やかに尋ねた。懐に手を入れる、衣擦れの音が聴こえた。


「遺言状はまだ提出されとらんけん。お主らにもちゃんと残せるモノはあると」


 お婆ちゃんは安堵した様な声を漏らしたのだが、どういう訳だかドゥラータには、悪い予感がしていた。


「へぇ。遺言状の提出はまだなんだ」


 娘が嬉しそうに微笑んだ。瀟洒な手袋を嵌め直す。


「そいつは助るな。なぁ。兄さん、姉さん。ここは一つ母さんの顔を立てて、協力しないかい?」


 次男が落ち着き払って言う。僅かに腰を落とした。


「それはいいな。私達は兄弟なんだ。協力し合わないといかんね」


 再びの、長男の声。ねっとりとしている。

 言葉はどれも、不穏なモノではない。

 なのにドゥラータには悪寒が止まらなかった。お婆ちゃんへとにじりよる、三つの気配。

 それらがひどく恐ろしいモノに思えて、彼女は身構えた。


「ねぇ。お母さん。——死んでくれる?」


 そして娘の言葉と共に、手袋越しに握られた鉈が振り下ろされた。

 その軌跡は、真っ直ぐにお婆ちゃんの頭へと向かって行き——。


「ぎゃぁっ!」


 飛び出したドゥラータは、その拳へと飛び付き、噛み付いた。

 赤い血潮が噴き出して、重い鉈がドスンと落ちる。

 悲鳴を上げた女はドゥラータを振り解こうと腕を振るが、彼女はもう五歳にもなっている。女の細腕で振り払える程、軽くはない。


 ——逃げてっ! お婆ちゃんっ!


 言葉にはならない声にて叫び、女の顎へむかって頭突きをかます。女は他愛なく膝から崩れ落ちた。


「てめぇっ!」


 叫んだのは荒縄を手にした次男だ。重い荒縄を鞭の様にしならせて、振り回す。

 良い。狙うなら、私を狙えよ間抜けめ。

 そう嘲笑いながら間一髪の距離まで引きつけて、荒縄を躱してやった。

 拳銃を構える長男であるが、このままでは撃てやしない。

 この家は閑静な住宅街にあるが、壁は薄く、窓も開け放してある。銃声の様な大音量が響かぬ筈もない。

 消音器付きであろうとも、そんなモノが鳴らされれば、外で屯する野次馬達が黙っている筈もなかった。

 既に言い争いの声を聴き、心配して幾人もの近隣住民が家の周りへ集っている。

 耳と勘の良いドゥラータは、その音と気配にとうに気付いていた。


 ——早く逃げてっ! お婆ちゃんっ!


 唸り声にしかならないが、喉を枯らして叫ぶ。

 お婆ちゃんの寝台の下には、緊急避難用の抜け道が用意されている。

 事あれば、逃れられる様にと用意されていた抜け道だ。一人暮らしの著名で富裕な老婆である。安全の為にも必要な仕掛けであった。

 明白な殺意を持ったお婆ちゃんの子供達だが、狩人としてはど素人である。

 思わぬ反撃に狼狽えて、慌てている。目的を見失ってもいた。

 だがそれも一時の事でしかないとドゥラータは知っている。今は混乱をしているだけで、落ち着きを取り戻せば彼等の目的はお婆ちゃんを害す事だと思い出すだろう。

 その前に、お婆ちゃんを逃す。

 きっと、お婆ちゃんはこうなる事も予想していた。

 ドゥラータへ付けられているペンダントには、お婆ちゃん直筆の遺言状が入れられている。

 もしも、ウチに何かがあったのなら、『先生』の所へ行きなっせ。そう教えられてもいた。

 『先生』は法律の学者で、専門家でもある。法の元の平等を掲げる彼は、公正な裁定者として振る舞う。


 ——お婆ちゃんっ! 早く逃げてっ! 殺されちゃうよっ!


 でも、お婆ちゃんは動かない。動けない。呆然としてしまっている。

 ドゥラータは再び叫んだ。

 だが、届かない。お婆ちゃんの表情は現実を受け入れられない、衝撃を受けたものだ。

 仕方がない。子供達に殺され掛けている。愛してきた子供達にだ。可能性を考慮していても、覚悟があった訳でないのだろう。

 だが、このままでは不味かった。

 今は怒りの矛先が邪魔をしたドゥラータへ向いているだけなのだ。お婆ちゃんには安全な場所へ逃げて貰わねばならない。

 長男は拳銃で狙いを付けて来るし、次男は荒縄を振り回す。

 狙いを外し、躱せば躱す程に激昂し、冷静さを欠いてくれるのは助かるが、時間の問題でしない。

 案の定、呻き声を上げながら女が立ち上がる。軽い脳震盪では、この程度だろう。

 流石に三対一では分が悪く、ドゥラータは方針を切り替える事とする。

 お婆ちゃんが逃げられないのであれば、その敵を離せば良いだけだ。

 幸いに、その為の切り札を持っている。これの存在を彼等には無視出来ない。

 首に掛けられたペンダントへ意識を割いて、具現化するのは遺言状。

 この遺言状には強力な交信の術式が付与されている。見えなくとも心で読め、読めなくとも心が内容を理解する。

 当然ながら、三人はドゥラータへと殺到した。


 ——そうだ。それで良い。来い。こっちへ来い。


 五歳という肉体に鋭い動きは難しい。

 だがドゥラータは言葉を喋れはしないが、人の考えが読める様になっている。

 攻撃を躱すのや、狙いを外させているのはこの力のおかげであった。

 故に照準から外れ、追われる荒縄から逃れ、鋭い鉈の斬撃を躱していられる。

 逃げる訳ではない。引き離すのだ。

 そして、遺言状を先生との約束の場所へ渡してしまえば、彼等がお婆ちゃんを害する理由はなくなる。

 欲に狂ったこんな人達でも、お婆ちゃんの子供達なのだ。親殺しなどさせたくない。その為に、身体を動かし続けた。

 ここで発揮されている、ドゥラータの読心に近い能力であるが、この技術は交信に近い。

 意識の一部を【無界】と呼ばれる場所へ置き、思念の形態から、次の動きを予測している。つまりは、意識的なものを汲み取っていた。

 この技術の天敵は無念夢想の境地にあるか、偶然による突発的な事象であった。

 照準は発射が伴わなければ、脅威とはなり得ない。

 荒縄は大振りで、起こりも見え易い。

 恐れるのは広範囲への同時攻撃であるが、次男にそれが可能な膂力は無さそうだった。

 鉈での斬撃は重く鋭いものの、娘はど素人である。脳震盪からの復帰したてである事もあり、当たるつもりなどなかった。

 鉈を握る娘の震えは意識していた事だ。

 運動機能の低下も織り込んで、ぶれる軌道を読んで^もいた。

 三人が連携していれば、詰まされる可能性もあったが、そういう事もない。

 三人を少しずつお婆ちゃんから引き離し、約束の場所へ辿り着く。ドゥラータは、それが可能だと考えている。

 だが、まだ、部屋から出られてもいないのだ。

 ドゥラータには扉を開く事が出来ないのである。背が届かないが故に、ドアノブを回せない。

 部屋から出るには荒縄を誘導し、扉を破って貰わなくてはならなかった。

 誘導する。躱しながら、避けながら。自分へ向かう攻撃を。その範囲と威力。そして何より方向を。


「くっそ! ちょこまかとっ!」


 次男の罵声が響く。

 抱えるのは荒縄を三つ。良い太さ。それに重さが見て取れた。すかさず扉の前へと向かう。彼の膂力では放り投げる事となるだろう。範囲は広いが、抜けられぬ程ではなかった。


 ——長男よ。照準を合わせたな? 撃ってみるが良い。私は死ぬかもしれないが、お前達も社会的には死ぬぞ。それは、望む所だ。


 実の所、ドゥラータは長男に拳銃を撃って欲しかった。それが最も早い解決法であるからだ。

 カターニア市の護衛団は優秀で、市民を守る為ならば突入に躊躇いはないだろう。即、逮捕。拘束される筈だ。

 お婆ちゃんが無事でさえあれば、ドゥラータの目的は叶う。みすみす当たってやるつもりこそ無いものの、最悪はそれでもよかった。


「こんのっ! 泥棒猫めっ!」


 苛立ち叫ぶ娘は脅威ではなかった。忿懣たる足取りで鉈を振り回すが、届きはしない。

 荒縄が放たれるその刹那。ドゥラータは全力で跳んだ。

 荒縄は扉へと向かって行く。威力は充分で、角度も申し分はない。後で修理しなくてはならないのだろうが、今は外へと向かう事こそが肝要だった。

 そこにあったのは、傲りか油断か。

 ドゥラータはすっぽ抜けた鉈に気付けなかった。

 地に着いたばかりの右脚に激痛が走る。回転する鉈に脹脛を切り裂かれ、後ろから脛の骨まで砕かれた。

 痛みを遮断し、即座に左脚を着く。

 体幹のバランスが崩れたままでは危険を避けられない。撓めた左膝で、再び跳ぼうと試みる。


「くたばれぇっ!」


 が、また身体へ覆い被さる様にして飛んでくる物体があった。一本の荒縄が飛んでくる。脚一本の跳躍力だけでは、躱せない。

 ドゥラータは迷わずに、切り裂かれ、折れたままの右脚で、落ちて来る荒縄を蹴った。

 その勢いさえ使って跳ねる。荒縄が落ちた。

 引き遅れた右脚が、床との間に挟まれる。噴き出る血潮。

 床との反発で僅かに浮いた間隙を縫って、脚を引き抜く。

 紅い潤滑液のお陰で動きに淀みはない。右脚は潰されていた。

 ドゥラータの小さな身体は再び宙へと舞った。向かうは外へ。


 ——脚が一本、駄目なくらいで、なんだ。昔から、四つ脚で駆ける練習をしているぞ。お前らなんかより、私の方が、ずっと速い。例え三つ脚であってもだ。


 外へ出ようとすれば、追って来ようとする三つの気配。

 彼女の予定通りである。だが、思わぬ誤算が生まれた。争う物音。


「ドゥラータ! 逃げなっせ! うっちるんじゃ、なかよ!」

「どけ! 婆あ、邪魔だっ!」


 お婆ちゃんの叫び声。男の罵声。お婆ちゃんは銃を握った息子に飛び掛かり、抑えようとしたらしかった。

 重い音が響く。お婆ちゃんの呻き声。突き飛ばされた様だった。

 不味い。ドゥラータはすかさず、再び遺言状を展開してみせる。慌ただしく、駆ける足音。それは近付いて来ている。そう。それで良い。


 三つ脚で、駆ける。見せつける様に。見失わせない様に。

 あの騒ぎである。流石にお婆ちゃんはご近所さん達に保護される事だろう。

 そうなれば安全が保障される。怪我をしていなければ良いけど。などと思いながらも、ドゥラータは駆けた。

 約束の場所は町外れにある。先生の家かお役所でも渡せるのだが、どちらへ行けば良いかは判断が付かなかった。

 外れであったら渡せはしない。その為か、緊急時の受け渡し場所として約束の場所は用意されている。

 そこにさえ荷物を運べば、確実に渡せる場所であった。

 

 密やかに約束の場所を経由しても、敢えて姿を晒し続けているのは単なる時間稼ぎである。

 ご近所さん達に荒らされた家の中を見られれば、警務官へ連絡が行く事に疑いはない。

 彼等には不思議な技術があって、その場所で過去に起こった出来事を再生する事を可能としている。

 色々と制約などもあるらしいのだが、重要なのはその様な技術があるという事実だ。

 これにより、偽証に意味はなくなる。起こった事実を客観的に精査するので、捜査や立件に難所は多くもなくなった。

 誰もがそれを知るからこそ、普通は市中でのあからさまな犯罪行為などは行われないものだ。

 突発的や衝動的な行為の場合は別にせよ、こういった技術により、大陸での犯罪抑止がされていた。

 証人として保護されれば、安全確保に問題はない。それに、この三人も。

 走り疲れたのか、表情には欲望や激情よりも、疲労が見て取れた。

 このまま頭が冷えればお婆ちゃんへの行いを悔い、やり直せるのかもしれなかった。

 息子達と、娘なのだ。

 ドゥラータはお婆ちゃんから、喧嘩をして、歪み合う彼等の愚痴を聴かされてもいたが、お互いの愛情を信じ合うお話も、沢山聴かせて貰ってもいた。

 長男は気が小さいけれど、真面目な子で。

 長女は少し見栄っ張りだけど、優しい子。

 次男はちょっとガサツだけど、元気な子。

 お婆ちゃんは、そんな子供達を愛していて、お金の為に憎しみ合う事をとても悲しんでいた。

 熱に浮かされた様な子供達を、心配もしていた。

 だけどまだ、三人はやり直せる筈なのだ。

 まだ誰にも、危害を加えてはいない。行為は未遂で済んでいる。だから。きっと。




「はぁ、はぁ。ぜぇ……。ぜぇ。……悪い。お前ら。私は降りる。もう。意味がない。終わりだ」

「どういう事?」

「見ろ」


 激しく喘ぐ長男が言った。その視線はドゥラータの首元へ注がれている。ペンダントは、既に消失していた。

 その横で、ヘナヘナと座り込んでしまったのは長女である。彼女の瞳もドゥラータへ向いていた。激情よりも、後悔の多い表情で。


「ちきしょう!」


 膝を着いて叫んだ次男は、涙を流していた。


「俺ぁ、金が無けりゃ、俺ぁ……」

「幾ら、必要なんだ? ——少しだけなら、貸してやれる。無利息だ」


 次男はかつてはカンパニア州の都市ナープラで飲食店の経営をしていたが、事業に失敗し、負債を抱えていた。

 勢いがあった頃に多数の店舗展開をする為に借り入れを行った時のものである。

 その後の見込み違いなどから店を畳んだ彼であるが、借金だけは残った。

 妻とは別れている。その妻との復縁の条件が、借金の完済であった。


「……イヤ。いい。自分で蒔いた種だ」


 それでも上手くいかなくて、返済が滞りそうになればまた、借金を行い凌いで来ていた。

 そういった状況でも金を貸し出す業者など、碌なモノではない。違法な高利貸しであったり、反社会組織の枝であった。


「大丈夫なの? 悪いんだけど、ウチにはあまり、余裕は無いわ。でも、債務整理の話なら、旦那が相談に乗ってくれるかもしれないわね」

「私とて、余裕なぞ無い。お前は、少し反省しろ」


 長女もまた、金には困っている。

 夫は王都ロウムの行政府に奉職するお堅い行政官であり、稼ぎが悪い訳ではない。

 三人いる子供達も既に成人しており、在学時程に出費が嵩む訳ではなかった。

 だが、余裕が出来た彼女は欲をかいた。

 老後の資産を増やそうと、怪しげな投資話に乗り、結果として蓄えを失っている。

 負債がある訳ではないにせよ、余裕はなかった。


「婆さんには、悪い事をしてしまったな」


 そして長男にはそういった瑕疵がない。

 シュペー社に勤めている。経理部門という、文学とは無関係な部署であるが、母の仕事である物書きには理解があった。

 同期の話を聞くし、この資料は経費となるのかとも相談される。とはいえ、一般的な勤め人である。

 蓄えは知れたモノで、だからこそ堅実だったし、母親の遺産で余裕が出来る事を歓迎していた。


「元々、婆さんが死んだら入るだけの泡銭だろう? 縁が無かっただけだと思おう」


 貰えるモノならば、貰いたい。そうは考えていた長男であるが、無いなら無いで、構わない。そうも考えていた。犯罪者の汚名を被ってまで、欲しい金。そう思うには抵抗があった。

 なので、彼は比較的落ち着いていた。遺産に対しては、あわよくば。程度の欲望しかない。それが今の彼を救っていた。


「版権はどうにもならないが、シュペーは著作者遺族をないがしろにはせん。私達にも金は出るだろう。それで、手打ちとしないか」


 今更の話だが、版権を得られた所で、それは有効活用されなければ金にはならない。その為の出版社だ。

 印税は発行部数に対して入る。書籍毎のものであるが、連作物の場合、版権が分かれてしまうのは出版的に美味くない。権利問題により、続刊が出しにくくなる為だ。

 そんな意識があまりない弟妹は、発行部数に注目した。長男は連作物の版権が分かれない事にこそ、拘った。

 そのせいで、拗れた所もある。やがて兄弟喧嘩なんていう生易しい話では済まなくなって、お互いに欲望を丸出しにし、憎み合う様になっていた。


「もう。良いだろう。金なら均等に割り振れる。兄弟で歪み合って、憎しみ合っても、碌な事にはならん」


 憑き物が落ちた様な顔で、長男が言う。長女もそうね。と頷いて、次男に肩を貸して立ち上がらせた。


「母さんには、謝らないと」


 次男が一言を呟くと、三人はトボトボと母の家へと引き返していった。


 そんな様子を眺めていたドゥラータは、安堵の息を漏らした。

 彼女は読心の為に『無界』に立ちながらも仕掛けを施した。魂の触れ合う場所にて、彼等の魂の前で、お婆ちゃんの想いを纏い続けた。

 それは、親子の絆。

 ドゥラータには与えられた事がなく、だが、確かにあるのだと信じられるモノ。

 お婆ちゃんはドゥラータへ聴かせてくれた。愛する子供達には、幼い頃の様に仲良くしていて欲しい。分け隔てなく愛しているから。大切だからと。

 だからそれを、届けたかった。お婆ちゃんは貴方達を愛しているのだと、知っていて欲しかった。

 三人が激情に駆られたままであれば、届かなかったのかもしれない。

 だから、疲れさせ、草臥れさせる必要があった。

 その為に駆けた。犠牲となったのは壊れた脚一本。安い代償だと、彼女は満足している。

 そして、ドゥラータはひょこひょことその場を立ち去った。

 これからのねぐらを探さなければならない。彼女には、もうお婆ちゃんの所へ戻るつもりはない。

 本当は、優しい人達だ。

 この脚を見られれば、四人共傷付くだろう。

 それに、お婆ちゃんはもう長くはない。それを理解してしまっている。彼等に残されている月日。それがどれだけあるのかは判らない。

 だが、きっと大丈夫なのだと信じていられた。だから、祈るのだ。

 貴方達一家に、幸多からん日々を。穏やかで、優しいお別れを。父と子と精霊の御名において。そうあれかし。と。

 天涯孤独のドゥラータは結構な寂しさと確かな満足感と共に、そうして都会の路地裏の闇の中へと消えていった。

 



 わかりやすく、読まれるような物語になっていれば良いのですけど。

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