1話 進まない時計の針
「……レカさんが好きなお茶が……ない?」
二百畳をゆうに超える広い客間で、来客の準備を進めていた夕焼け色の髪の少女、クレア・メルミアは空っぽな茶箱を見て、顔を真っ青にした。
茶葉がない。それは、一般人なら微笑ましい日常茶飯事の風景に過ぎないが、国王のクレアにとっては大災害レベルの異常事態だった。
他国の王女レカに最高級のお茶を出せない。それは外交問題にも発展しかねない侮辱だった。
しかし、無礼だとか、立場とかいう真面目な言葉はクレアの頭には何一つなかった。
心にあったのはただ一つ。唯一の友達である、レカに嫌われたくないという思いだけだった。
嫌われたくない、その一心で、クレアは大急ぎで茶葉を仕入れに向かうため、部屋を後にした。
「あれ……姉さん何してるの?」
髪が乱れないようにだけ意識を向け、廊下を駆けている途中、弟のコオに声をかけられた気がしたが、そんな事はどうでも良かった。弟の事を考えられないほど、クレアは慌てていたのだ。
クレアの城の一階にある、ゲートを勢いよく潜ったクレアは茶葉の生産地である国に向かった。そこで、朝早くから発売をしている御用達の店で茶葉を購入したところで、ようやく一息ついた。
クレアはその後、もう一度ゲートを潜り自国である三番国メルミアの客間に戻ってきた。
そして、彼女は、国王らしく財の限りを尽くした豪華絢爛な椅子ーーではなく、その正面にある装飾を限りなく減らした質素としか表現できない椅子に腰かけた。
正面の椅子はレカのために用意したものだ。彼女以外が座るなんて、死んでも許さない。この豪華な椅子に座っていいのは彼女だけだ。
もはや、執着とも言える黒い感情にクレアは気が付かない。気づかない分だけ、英雄の道を確実に踏み外しているなんて知らないから、クレアは素朴な椅子に座れた。
そのままクレアは壁に飾ってある、大時計を見つめた。現在の時刻は午前七時。本日はレカが三番国メルミアに遊びに来る数少ない日で、クレアがここ一か月の間、最も楽しみにしていた日でもある。
クレアは待ちきれない様子で、時計の針を何度も見つめた。しかし、確認の頻度があまりに高いため、全く進む気配がない。
「時計……遅いな……」
あまりに進まない時計を眺めながら、クレアは愛しい少女を頭に描く。光に輝く白銀の髪と、意思がはっきりとした黄と白のオッドアイの瞳の少女がすぐに頭に浮かんだ。
クレアの親友、レカ・ライトリヤー。三番国メルミアと離れた国の王女で、クレアにとって世界で一番大切な人物だ。
「レカさんが私と同じ十王になってくれたら、もっと一緒にいる時間が長くなるのに……」
十王、それはこの世界にある十の国の王の総称で、世界を守る組織の名前ある。
それぞれが別の能力を持つ十王や国名は、番号で呼ばれる事が多く、それぞれ特有の文化を持っているため、歴史的にも争いが絶えないーーとか言う事はどうだっていい。
問題は、そんな面倒くさい政のせいでレカと過ごす時間が減っている事である。
その事実と、全く動かように見える時計に八つ当たりのような苛立ちを感じた。
「何故時計はこんなに動かないんでしょうか……時計と言ったら八番国ですよね……燃やそうかな、八番国」
「いや時計は正常だし戦争を起こそうとしないで!?」
思わず溢した呟きに反応があった事に驚き、クレアは思わず時計から目を離す。
視線の先には、少し離れた所にあるクレアが腰掛ける椅子と、全く同じデザインの椅子に腰掛けていた、クレアの双子の弟のコオ・メルミアがいた。
コオはクレアとは異なり狐人である為、非常に耳が良く、距離があってもクレアの呟きが聞こえたらしい。
状況から察するに、レカに会えず寂しそうに呟いた声は、聞かなかったことにしてくれたらしいが、宣戦布告と捉えられない危うい発言に思わず反応してしまった、といったところだろう。
驚きと呆れで顔を覆ったコオを尻目に、クレアは朧げな記憶を辿った。茶葉を購入しに行った時や、椅子に腰掛け、時計を眺めていた時を思い出しーーそれでも拭えない疑問を晴らすため、クレアは声をかけた。
「コオ、貴方いつから部屋に居たんですか?」
「最初からずっと居るけど!?え何まさか気付いてなかったの!?」
周囲の確認を怠ったクレアは当然、彼の存在に気が付いていなかった為、衝撃の事実に目を丸くした。
そんな非道な姉に対し、コオは呆れたように目を伏せながら、皮肉混じりに言葉を続けた。
「何?いつもみたいに、レカの事考えていたから気が付かなかったとでも言う……」
「いいえ、それは違います」
あまりに酷い事を言う弟だと、クレアは今すぐにでもコオの誤解を解きたい衝動に駆られ、思わず言葉を遮ってしまった。
思わぬ反応に唖然とするコオに、強い意志のこもった声音でハッキリと断言する。
「レカさん以外どうでも良いので、コオの存在そのものを忘れていただけです!」
「全くフォローになってないし、なんならさっきより酷いよ!?」
姉の心無い言葉に、コオはもふもふの耳と尻尾、そして肩を下げてしまったが、悪い事を言った自覚のないクレアには理由が分からなかった。
「考えるのも面倒くさいので放置で良いですか?」
「落ち込む弟に慰めるのでも謝罪でもなく、放置を選ぶあたり道徳と倫理を学び直した方がいいと思う。本当に」
「学ぶって……道徳も倫理も、みんなが望む綺麗事を言えば良いんですよ?知らないんですか?」
さも、当たり前の話をしたつもりだったが、どうやらそうは聞こえなかったらしい。
信じられないものを見たと言う眼差しから、精神的に距離を取られたと察した。もっとも、元々距離は遠かったが。
「言ってる事が英雄じゃなくて悪役じゃん。……姉さんって何処に人の心落としてきたの?」
「心なんて抽象的な物の在処を聞かれても困るんですが……」
「うん、分かった。なんかもういいや……レカもレカだけど、姉さんは本当に……板挟みにされる僕の気持ちを考えてよ」
頭痛を感じたのか、額に手を当てながらコオは口を閉ざしたが、クレアには意味がわからなかった。
コオが対話を諦めた意味も、彼が言いたかった事の意味も、英雄の生まれ変わりとして育てこられたクレアには、何一つ理解出来ないのだった。
コオが黙ったため、クレアは再び時計を見るが、やっぱり針はほとんど進んでいなかった。