疑惑
私と夫が三浦海岸に越してきて、四年の月日が経っていました。私も夫も三十代半ばになっていました。
もう子供ができる事は諦めていましたので、淡々とした日々でした。私達は共働きで、慎ましくとも、静かに生きていました。
私は死ぬまでそうした日々が続くだろうと思っていました。あたかも、海の波が寄せては返すような…そこには穏やかなリズムがあります。静止しているように静かですが、しっかりとした運動とリズムがあって、たしかに「生の鼓動」があります。私は日々をそんな風なものとみなしていました。
日々が波の寄せては返す運動であるなら、そこに嵐や津波はないのか。私はそんな事をすっかり忘れていました。…いや、夫の「あれ」は果たして、嵐や津波と言っていいのか。正直言って、私にはあの日から時間が経った今でも、夫のあの行為が一体何であるのか、はっきりとした解釈はできないのです。
それは突然でした。私達、夫婦は別々の部屋で寝ていました。私達は普段は別の部屋で寝ています。夫の要望で、隣に人がいると寝られない性質らしいのです。それで普段は別々の部屋で寝ています。
その日、私はなかなか寝付けませんでした。一時間、二時間経ってもなかなか寝られません。仕方なく私は起き上がり、とりあえずお手洗いに行こうと思いました。お手洗いを済ませたら、キッチンで水を飲もうと思いました。
パジャマ姿のまま、部屋を出て、廊下のお手洗いに向かおうとした時、微かな違和感に気づきました。それが何であるのか、理解するのに数秒かかりましたが、すぐに正体が判明しました。夫の寝室のドアが少しばかり開いているのです。
私はそこに何となく不審なものを認めました。夫は、私と分かれて寝室に入る時、いつもバタンと音を立ててドアを閉じる癖があります。夫がドアを開けて寝るとは考えられません。私はそうっと夫の寝室に近づきました。
ドアの間から、小さな声で「周ちゃん?」と呼びました。返事はありません。もう一度呼びました。「周ちゃん?」 やはり返事はありませんでした。
私はドアの隙間から、寝室の中を覗きました。ベッドには夫が寝ているはずですが、もぬけの殻でした。夫の姿は見えませんでした。
「周ちゃん、いるの?」
私は、もう怖くなってきていました。おそるおそるドアを開けて、寝室に入りました。夫に怒られてもいい、と思っていました。その時には何か良からぬ事、私にはわからないけれど、何か非常に良くない事が起こっているような気がしました。
寝室には誰もいませんでした。誰も隠れていませんでした。ベッドは、夫が布団から抜け出したその跡がわかるくらいに盛り上がっていました。私は、恐怖しました。(どこへ行ったんだろう?)
私は、家の中を探し回りました。トイレ、キッチン、居間。それから倉庫代わりにして、ほとんど使っていない二階も見回りました。ですが、夫はいませんでした。
最後に私は、玄関に向かいました。玄関の、夫がいつも履いている靴を確認しようとしました。すると、そこには靴がありませんでした! いつも履いている、コンバースの靴がないのです。私は驚きました。
(浮気だ)
私は直感しました。その瞬間、足元から力が抜け落ちるような感覚がしました。これほどまでに信頼し、最後の時まで一緒にいようと決めていた夫に私は裏切られるのか。以前、付き合っていた男に浮気された事を思い出しました。急速に、『男』というものが憎くなりだしました。この世の男という男は全て女を騙し、浮気する存在だと、そんな事を考え、気が気でなくなりました。『男』というものが全滅すればいいと思いました。
ですが、ほんの数秒後には私は、少し落ち着いていました。単なる時間の作用のせいでしょうか、それはわかりません。ただ、私は、これがもし浮気だとしたら、わざわざ深夜に家を抜け出し、相手と会うという馬鹿な事をするというのは、あまりに非現実的に思えました。こんなやり方では、すぐにバレてしまうでしょう。私は、「浮気だ」と断言するのは早すぎる気がしました。
私はサンダルを履いて、玄関の戸に手をかけました。戸には鍵がかかっておらず、するすると横に開きました。私は夫が外に出て行ったのを確信しました。
(それにしても、一体、どうしてこんな時間に外に行くのだろう? 夫はどんな秘密を持っているのだろう?)
私は外の肌寒さに我に帰り、一旦引き返しました。ジャケットを着て、玄関横の懐中電灯を手に、外に出ました。私は(何が出てきても驚かないようにしよう)と自分に言い聞かせました。たとえ夫が浮気相手と抱き合っている最中だったとしても、涼しい顔をしていよう。私はそのつもりでした。