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急に

 ここで、夫について、ちょっと変わったエピソードについて話しておきたいと思います。何といっても私は、私の事ばかり話しすぎました。私ばかり、変わった人間だと思われるのも嫌ですので、ここはフェアに、夫の話もする事にしましょう。世間的に見れば私より夫の方がよっぽどの変わり者でしょうから。

 

 そのエピソードとは、ほとんど動機も、原因も不明で、ヒステリーのようなものですが、とにかくその一件があったが為に私達は海の側に住む事になりました。

 

 それはある日、突然訪れました。本当に突然訪れたのです。夫は職場から帰ってくるなり、リュックサックを玄関にドサッと置いて、迎えに出た私に向かって(帰りは大抵、私の方が早かったです)、吐き捨てるようにこう言ったのです。

 

 「もう嫌だ。辞めるよ、僕は、仕事」

 

 夫は深刻な顔をしていました。いつも冗談ばかり言っている人ですが、その時はいつになく深刻でした。私は、何かあったのかと尋ねましたが、夫はまともには答えようとしませんでした。

 

 私と夫は同じ職場ですから、何か異変があれば気づいたはずです。あるいは、ドライバー間でトラブルがあったのかもしれません。それならば、私の耳に入っていない可能性もありました。ですが、夫は不思議な怒りをぶちまけました。

 

 「何にもない。何にもなかったさ! …ああ、僕はもう嫌気が差したんだ。この世界にね! 俗物共! アイドルの身長が一センチ高いか低いか、三万するバッグをプレゼントするかどうかで延々と、延々と、そして"永遠"に議論しているあいつらに嫌気が差したのさ! それだけさ! 何もなかった。本当に、何もなかったよ。何かあったら、少しは気が楽だったのに! 誰かが死にかけるとかね。そしたら、僕は懸命に我を忘れて救命活動に邁進できる。そりゃあもう、僕は自分の命を捨ててもいいくらい、その人の為に尽くせただろう。そうすれば"自分"を忘れらるし、少しは退屈を紛らせられるのに! …だけど、忌々しい事に何一つ起こらない! 何にも、何にも! …その事に僕は腹を立てたんだ。ああ、腹を立てた、腹を立てたね!」

 

 そう言うと、夫はリュックを玄関に置いたまま、ずんずんと歩いて自分の部屋に入って、ぴしゃりと扉を閉めてしまいました。私は全くなす術ありませんでした。

 

 ところが、翌日にはもう普段の夫に戻っていました。…いえ、完全に戻っているとは言い難かったですが、少なくとも、常識的な判断は取り戻していました。その証拠に夫は「昨日は悪かったね」と私に一言、声をかけてくれました。

 

 私は職場に行くと、仲のいいドライバーや、事務の子に、何かトラブルがあったか、聞いてみました。ですが、いくら尋ねても何もでてきませんでした。夫が暴れたり、おかしな事をしなかったか尋ねてみても「何も。何かあったの?」と逆に心配されたぐらいでした。

 

 私は、夫がどうして怒ったのか、さっぱりわかりませんでした。ですが、その日、つまり夫が怒った翌日、彼は私に不思議な提案をしました。

 

 「海の近くの家に住まないか?」という提案でした。最初、私には何が何だかわかりませんでした。夫は、夕飯の際にその話を持ち出しました。

 

 「なあ、突然だけど、海に近いところに引っ越さないか?」

 

 味噌汁をすすっていた私は、あやうく味噌汁を噴き出すところでした。

 

 「どうしたの? 急に?」

 

 「いや、これは前から考えていたんだ。いつか、海の側の家に住もうって。そこで生きていこうって。僕は三浦海岸がいいと思うけど、どうかな? 江ノ島は、賑やかで嫌だよ。もっと、辺境の海岸でも構わないけど。とりあえずは三浦海岸かな」

 

 「そんな…すぐに引っ越すの? いつにするの? 遠い話?」

 

 「いや、すぐだよ。すぐに引っ越したい」

 

 「仕事。仕事はどうするの?」

 

 「仕事は辞める。もう辞めようと思ってんだ。正直、堪えられないよ。馬鹿馬鹿しくて」

 

 私は、口をつぐみました。夫がどれくらい本気で言っているかわからないから、ここは様子見をした方がいいだろう、と考えました。

 

 ところが、一週間経っても、二週間経っても、夫の決意はゆらぎませんでした。何だったら、私と離婚しても、引っ越すぐらいの決意だったので、私としても折れないわけにはいきませんでした。

 

 そんなこんなで、私は三浦海岸の裏手の一軒家に引っ越す事になりました。子供ができない事は、引っ越すよりも前に判明していたので、もう二人だけと決意していたさなかの引っ越しでした。私達はそうして海が見える家に住むようになったのですが、それにしても、あの時、夫に何があったのか、それは今もわからないままです。おそらく、私が死んでも、わからないままだろうと思います。答えは、不思議な(学生時代からそんな風に思われていたそうです)夫の内面にしかないのだと思います。


 私達はそうして、海の側の家に住んでいます。おんぼろの一軒家ですが、夫は気に入っているようです。

 

 夫は前と同じドライバーの仕事を見つけてきて、また同じ事をしています。私はまた、あのヒステリーが始まらないか、ハラハラしていましたが、そんな事はありませんでした。それとなく、同僚とはどんな関係か聞いても「別に、いい人達だよ」と軽く返すだけです。まるで、以前にあった爆発はなかったかのようです。

 

 私も近くの小さな医院で医療事務の仕事をしています。患者さんはそれほど多くないので、仕事もそれほどきつくないです。

 

 私達はそんな風に生きています。私達は、他人からは仲睦まじい夫婦に見えているかもしれません。それほど問題のないような生活を送っているように見えているかもしれません。しかし、現実にはそういうものではないーーというより、そのように理想的な夫婦や、理想的な家族関係なんて、この世には一つもなく、そういうものはテレビドラマや映画の中にしかない、というのが私には本当であるように思われます。

 

 どうして私がこんな事を言いだしたかと言えば、最後にあるエピソードを付け足したいからです。そのエピソードで、この小さな話は終わりにしようと思います。思えば、私はつまらない事を多く語りすぎたのかもしれません。しかし、次に語る事だって、別に大きな事でも何でもないーー誰も死んだりしないし、生き返る事もない。奇跡の存在しないシナリオ。それでも、私達はそんな奇跡のない人生を生きなければならない。

 

 そしてその事を誰よりもよく知っていて、それに一番心の底で堪えているのは夫の周平だ…もしかしたらと、そうなのかもしれない。そんな事も、私は考えます。…少し混乱してしまったようだけど、私は最後に、夫の小さなエピソードを付け加えて、この話を終わらせる事にしましょう。

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